デイヴィッド・ブリン/酒井昭伸訳
『サンダイバー』 解説
大野万紀
ハヤカワ文庫
1986年9月20日発行
(株)早川書房
SUNDIVER by David Brin (1980)
ISBN4-15-010685-1 C0197
……こうしてわれわれは今日ふたたび、貴重な火を掴みとるのだ、と隊長は思った。この火をたずさえて、冷たい宇宙空間を横切り、地球に戻るのだ。なんのために?
その答えはすでに出ていた。
地球上でわれわれが動かす原子が貧弱だからだ。原子爆弾は哀れっぽいほど小さく、われわれの知識も哀れっぽいほど小さく、太陽だけがほんとうにわれわれの知りたいことを知っているのだ。そして秘密は太陽にしかない。だが、それはそれとして、こんな所まではるばるやって来て、杯を突っこんだり、ぶつけたり、走ったりすることは、愉快ではないか。またとない冒険ではないか。実をいえば、これは、小さな昆虫のような人間が、ライオンをちくりと刺して、うまく逃げ出してくるというプライドと虚栄心まじりの遊び、それだけのことなのだ。どうだ、やったぞ! とわれわれは言うだろう。さあ、これがエネルギー、火、震動、何と言っても構わない。【それ】の入った杯だ。これでもって町の器械を動かしてくれ、船を走らせてくれ、図書館を明るくしてくれ、子供たちの顔色をよくしてくれ、毎日のパンを焼いてくれ。科学と宗教を信じるあらゆる善意の人々よ、この杯を飲みほしてくれ! 無知の夜、迷信の吹雪、不信の風、恐怖の暗黒を放り出して、きみたちの体をあたためてくれ。これなのだ、われわれがこの杯を突き出す理由は……
――レイ・ブラッドベリ「太陽の黄金【きん】の林檎」
(小笠原豊樹訳)
太陽。六千度の表面温度。燃えたぎる核融合の炎。灼熱地獄の溶鉱炉。けれどもSF作家の想像力は、はるか昔から、そんな恒星の中へと突入していく宇宙船を、そこにエネルギーや知識を求めようとする科学者たちを描き出していた。ブラッドベリは、人類に火をもたらしたプロメテウスを称えながら、詩的な文章でそれを綴ったのだった(それゆえ、当然のことながら、本書の宇宙船はブラッドベリ号と名付けられている)。太陽は知識の源泉であり、秘密のありかだった。
そして、本書でも、太陽の黄金【きん】の林檎を求めようとする人間たちが描かれている。ここでも、太陽への降下は、人類の健全な知的好奇心を象徴するものであり、銀河の古参種族たちに対して人類の独自性を主張し、プライドと虚栄心を秘かに満足させる愉快な冒険なのである。
本書はまた、科学者でもある作者が、最新の科学知識をもとに描いたハードSFでもある。この十年前後の間に、探査機等による観測により、われわれの太陽系に関する知識の量は桁違いに増大した。過去の常識的なイメージの多くは修正や変更を余儀なくされた。太陽の表面活動に関する科学的研究が飛躍的に進んだのは、一九七三年のスカイラブによる観測によってである。この時宇宙空間から撮られた多くの]線写真は、それまでの比較的安定していた太陽のイメージを大きくくつがえすものだった。本書で描かれているフレアや彩層、針状体【スピキュール】≠ネどの詳細な描写には、それらの最新知識がしっかりと取り込まれている。太陽表面は決して単純な炎の世界ではなく、恐ろしく複雑でダイナミックな、生きたエネルギーの世界なのである。
本書の書かれた一九八〇年は、太陽の研究にとっても重要な年だった。たまたま太陽活動の極大期にあたっていたのである。これを宇宙空間から観測するために、二つの衛星が打ち上げられた。アメリカのSMMと日本のひのとり″である。二つの衛星はそれぞれ異なる手段で太陽表面の]線観測をおこない、貴重なデータを収集した。SMMが重量二・三トンもある巨大で精巧な衛星であるのに対し、わが国のひのとり″はその十分の一、わずか二百キロ足らずの小型衛星だった。しかしそこには研究者の知恵を絞った、極めて独創的なアイデアが多数組み込まれ、SMMと充分に競いあい、むしろそれを越えるほどの成果を上げることに成功したのである。一例をあげると、]線観測をおこなうのに、SMMでは超小型の計数管を多数並べ、精密な姿勢制御をおこなうことで太陽表面の比較的狭い範囲を観測するようになっていたが、ひのとり≠ナはわが国独自の技術である、すだれコリメーターを使うことにより、SMMに比べるとずっと簡単な装置であるにもかかわらず、視野の広い、精度の高い観測が可能なようになっていた。SMMは打ち上げ後わずか九ヵ月で肝心の姿勢制御装置に故障が生じ、精密な観測が不可能となってしまったが、ちっぽけなひのとり″はこれを肩代わりして、貴重なデータを長期間送信してきたのである。
プライドと虚栄心の秘かな満足……。
SFの深部に根強く存在する素朴なモラルの一つは、みずから努力する者は報われるというものである。これはSFが未来を見つめる若者の視線を共有する文学であることと強く関係している。今に見ておれ、過去に安住している保守的な口うるさい老人どもめ、あなたたちにはなるほど豊富な経験があるかもしれないが、われわれにはみずから挑戦する若さと、新しいものを生み出す知恵と、失敗を恐れない勇気がある。未来はわれわれのものだ! というわけだ。これは社会的な地位も家柄や身分も何もない一人の人間が、みずからの努力で成功を克ち取るというアメリカン・ドリーム″に通じるものだが、敗戦後の無から出発した日本人にも、その日本を追い上げようとしている韓国やアジアの人々にも共有できる夢だろう。おもしろいことに、慣習や制度にがんじがらめになっている過去の老大国≠フ代表と目されるイギリスでも、SFの中には同じモチーフが繰り返し現われている。クラークの「太陽系最後の日」に、くすぐったい高揚感を覚えた読者は多いことだろう。この種のナイーブな感覚には危険な一面があることも確かである。けれども、SFを子供の心を失わない大人のための物語としてとらえる時、このような素朴な上昇志向は健全なものとして理解できるのではないだろうか。本書や、『スタータイド・ライジング』に見られるのは、頭の古い悪い大人″である銀河の列強種族に対して、知恵と勇気でその裏をかこうとする賢い子供″――人類や鯨類――の物語である。もっとも人類を賢い子供″と見なすのはさすがに気恥かしいためか、元気なイルカたちが次代をになうものとされているのだが……。
著者デイヴィッド・プリンについては『スタータイド・ライジング』の解説に詳しい。本書は彼のデビュー作であり、『スタータイド・ライジング』より二百年前の時代を扱っている。本書でジェイコプが訓練していたイルカたちの子孫が、『スタータイド・ライジング』では宇宙船に乗り、列強種族の間で活躍するのである。
プリンがアメリカのSF界で人気を獲得したのは、ハードSF的側面もさることながら、明るく元気のいいスペースオペラとしての側面が大きくアピールしたためだろう。若者の視線を共有するSFといっても、大人の世界≠ヨの対処の仕方は様々である。それをネガティブにとらえ、大人になんかなりたくもない、とするものが現代SFではむしろ主流だった。大きくなって、今の大人よりもっといい大人になりたい、というような青年の主張は、とても恥かしくて聞いちゃいられなかった。それが受け入れられるようになってきた背景には、分析すれば様々な要困が考えられるだろう。しかしそんなに難しく考える必要はあるまい。SFは、程度の差はあれ、もともと気恥かしい側面のある文学の一ジャンルなのだ。それを照れることなく、すなおに楽しめばいいじゃないか、というファンが増えてきたということだろう。本書もそうだ。まるで昔のスべースオペラのような異星人【エーリアン】たちといくぷん現代風に描かれる人間たち、ハイテックでハードな描写とデニケンもまっ青のアイデアというようなミスマッチ感覚もおもしろいが、全体としていかにも西海岸の若い作家の作品らしい、映画的なタッチが楽しめる作品となっている。本書でプリンを知ったという方は、ぜひ『スタータイド・ライジング』の方も御一読願いたい。
1986年8月