アーサー・C・クラーク/山高昭訳
『楽園の泉』 解説
大野万紀
ハヤカワ文庫SF
昭和62年8月31日発行
(株)早川書房
THE FOUNTAINS OF PARADISE by Arthur C. Clarke (1979)
ISBN4-15-010731-9 C0197
クラーク自身のことばによれば、本書がクラークの、最後のSF長篇である。そして、『宇宙のランデヴー』以降の最高傑作であると断言していいと思う。
巨大な人工物の驚異が、素朴だが強力な(そしてクラークの特色として、上品な)魅力をのびのびと発揮している。
少年の輝く瞳が見つめる上空の凧。ほとんど見えないくらい高く小さな四辺形、そこから自分の手元へとのびるか細い糸、だが、確かな、力強い張力を感じる。この糸をずっとずっと長くしていけば、いつか星の世界まで届くかもしれない……。
もちろん、凧の糸をいくら長くしたところで星の世界へ届きはしない。しかし、これはロケットで飛んでいくのとはまた別の発想である。天国への階段や、〃ジャックと豆の木〃へと通じる、さらに根源的な発想である。
クラークの宇宙エレベーターは、基本的にここから出発しているのだ。
そして、なんと多くのSFやファンタジーがこの種の建造物を描いてきたことか。
ファンタジーはいい。SFに限っても、はるか静止軌道へとのびる凍りついたきのこ雲のような〈地球港〉のイメージは、コードウェイナー・スミスを待つまでもなく、ごくありふれたものだった(そして、本書の最終章で、われわれはまぎれもなく、あのなつかしの〈地球港〉――〃宇宙エレベーター〃なんかじゃない――と再会するのだ)。
『楽園の泉』の出版とほぼ時を同じくして、一冊の長篇SFが出版された。タイトルは『星ぼしに架ける橋』。作者はチャールズ・シェフィールド。新進のSF作家で、本職はアメリカ宇宙航行学協会の会長という科学者だが、その内容が問題だった。マーリンという名の主人公が、〃ピーンストーク〃(豆の枝の意)と名づけた〃宇宙エレベーター〃を建設するという話だった。アンカー質量のつけ方に大きな違いがあるのを除けば、結晶化した炭素繊維を使うところまで技術的ディテールは非常によく似ていた。念の入ったことに、乗物の名前までどちらも〃スパイダー〃というのだった。
しかし、これは盗作ではない。科学史やSFによくおこる、並行進化の一例である。クラークはシェフィールドの本に、わざわざ明記した前書きをつけた。
かつての、SF作家の自由な想像力によって描かれた〈地球港〉とは別に、科学者たちによる〈地球港〉――宇宙エレベーターの歴史があったのである。
本書のあとがきでクラーク自ら述べているように、西側世界で〃宇宙エレベーター〃のコンセプトを最初に発表したのは、一九六六年、ジョン・D・アイザックスのグループである。だが彼らはレニングラードのエンジニア、ユーリ・アルツターノフが早くも一九六〇年に〃天のケーブルカー〃の構想を持っていたことを知って驚いた。この他にも独立に、少なくとも三つの構想があったらしい。
それから長い間、この魅力的な構想は放っておかれたのだが、それはひとえに材料の問題があったからである。ところが、最近になって、本書にもあるような無重力下での物性の技術的新発展があり、「いずれ誰かが――おそらくニーヴンあたりが」書くだろうという状態になっていたのだった。
しかし、一番熱心だったのは、やはりクラークだったようだ。自身、エレベーターの発地に擬したスリランカに住んでいるせいだろう、六六年のアイザックス論文以来本書の構想を抱いていたようで、六七年、七五年と、エッセイ形式で発表し、本書の発表後は学術論文にまとめて、七九年度のミュンヘンの国際宇宙航行学連盟年次総会に提出している。宇宙エレベーターも、フィクションとノン・フィクションのさかい目へ少しずつ近づいているのだ。
さて、技術的側面に重点をおいて見てきたわけだが、それはそれとして、本書は何よりもまずSFなのである。近未来を舞台にしただけの、ただの建築物語ではない。技術的側面についてさらにいえば、常に静止軌道に重心がくるように上下にエレベーターをつくっていくとあるが、それは不可能だ(重力は距離の関数だから)という意見もあるが、必ずしもそうとは限るまい。クラークは、まず影響が無視できるくらいの薄い帯をブーストラップとして設置し、それを足場にして築きあげるという考えのようだ。これならうまくいくのではないか。また、たとえ厳密にはうまくいかなくとも、技術的側面をそこまで細かくいう必要はないだろう。いずれにせよ、スリランカを八百キロ南へ移動させるよりは簡単だろうと思う。
タプロバニーとは、スリランカ(セイロン)の古名である。しかし、本書では、一度もスリランカ、またはセイロンという言葉はでてこない。自分の住む島を小説の要請に従ってむりやり赤道まで動かし、そこを楽園としたクラークこそ、神を夢みたカーリダーサその人だろう。
したがって本書はクラークの夢の結実である。過去のクラークSFの大団円であり、クラークのあらゆる側面が少しずつ表われている。世界はクラークの理想世界であり、登場人物はすべてクラークの分身だといってもいい。読者は、はじめストーリーに一貫性がないと思うかもしれない。なるほどテーマは明確である。宇宙エレベーターをつくること。しかし、古代の話がでてきたり、スターグライダーのエピソードや、寺院の立ち退き問題(まったく現代的な問題だ――京都で同じような問題が起こっている)、事故と救出と、なんとなくまとまりに欠けると思われたのではないだろうか。
しかし、要はディテールであり、要は総体である。クラークはストーリーに特に重点をおいているわけではないのだ。クラークの共鳴効果とこれを呼びたい。古代のマハナヤケ・テーロがそのまま二二世紀のマハナヤケ・テーロへ移り変わる。そしてその名は『海底牧場』のマハ・テーロを思い起こさせる。
スターホルム人たちはオーバーロードなのだろうか、子供たちはオーバーマインドになるのだろうか。〈暁の狩人〉とは何者だろう? もしかすると『都市と星』の……?
終章が五〇年代のクラークを思わせるなつかしいイメージで終わっているのは嬉しい。ノン・フィクションに近いハードSFと、いかにもSFらしい夢のある、ふくらみのあるSFとの、幸福で絶妙な結合を、クラークは本書でみごとになしとげたのだ。
もうひとつ、最後に指摘しておきたいのは、クラークのすばらしいユーモア感覚である。ごくさりげなくよそおった次のような文章を、うっかり読みとばしてはならない。
……最近この種の対決がおこったのは、例の南極パイプライン――極地の広大な鉱床から液化した石炭を世界の発電所や工場へ送るために建設された二一世紀の奇蹟――に関するものだった。生態学についての陶酔状態にあった地球建設公社は、パイプラインの残存する部分を撤去して、陸地をペンギンに返還することを提案したのだった。たちまち抗議の声をあげたのは、このような文化破壊行為に憤激した産業考古学者たちと、ペンギンは遺棄されたパイプラインが大好きなのだと指摘する動物学者たちだった……
二手ほど先を読んでいるわけである。なんとなく、SL騒動などを思わせて、複雑な気分になるが、たとえば現役の産業施設なども、百年もたてば考古学の対象になるというわけだろうか?
だが、必ずしもそうではなく、『2001年宇宙の旅』のハルの後継者たるアリストートルがいうように「何事にも時期があるんですよ」ということなのだろう。「自然と闘うべき時期もあれば、それに従うべき時期もあります。真の知恵とは、正しい選択をすることにあるんです……」
したがって、人に正しい選択ができないとき、オーバーマインドが(クラークが)その選択をおこなうこともある。裁判所や、デモ隊の怒号によるのでなく、嵐に舞う一群の蝶によってその選択がなされるとは、クラークの理想世界はなんと美しいイメージに満ちているのだろうか。
(昭和五十五年早川書房刊の海外SFノヴェルズ『楽園の泉』の巻末解説を再録したものです)
1987年8月