デーモン・ナイト/大野万紀他訳
 『ディオ』 解説

 大野万紀

 青心社SFシリーズ
 1982年4月30日発行
 (株)青心社
Dio by Damon Knight (1957) 日本オリジナル編集


――思うに、デーモン・ナイトは、これまでにサイエンス・フィクションが生み出してきた最も重要な文学者といっても、おかしくはないだろう。
バリー・N・マルツバーグ

 一九五〇年一月、その三カ月前に生まれたばかりの一つの雑誌が、誌名を変えた。ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション(F&SF)誌である。同じ年の十月、もう一つの雑誌が創刊され、ギャラクシイ誌と名づけられた。この年、『火屋年代記』が本になり、『宇苗船ピーグル号』が出版され、『地球人よ、故郷に還れ』や『夢見る宝石』が雑誌に掲載された。SFの真の黄金時代″(ロバート・スコールズ)五〇年代が、こうして始まったのである。

 五〇年代SF――それは古くからのSFのファンにとって、単なるノスタルジー以上の響きをもったことばだ。わが国では一九六〇年にSFマガジンが創刊され、それから紹介された英米SFの多くがこの時代のものだったことも手伝い、さらに独自の熱っぽさをもって(そして当然ながら、同じくらいの反発も引き起こしつつ)語られている。だが、五〇年代の英米SFが、多くの読者に、あの最もSFらしいSFのもつ独特の魅力を感じさせるものだということは、まず間違いないところだろう。
 順不同に列挙してみよう。『幼年期の終り』、『重力の使命』、『夏への扉』、『破壊された男』、『虎よ!虎よ!』、『人間以上』、『宇宙商人』、『華氏四五一度』、『プレイヤー・ピアノ』、『鋼鉄都市』、『海底牧場』、『地球人のお荷物』、『暗黒星雲』、『タイタンの妖女』、『宇宙の戦士』、『都市と星』、『火星人ゴーホーム』、『宇宙の眼』、『黙示録三一七四年』、『悪魔の星』……SF全集ができあがってしまう。短篇? あなたの心に残っている英米SFの短篇をひとつあげてみてください。その半分以上は五〇年代に書かれたものであるはずだ。このいいかげんなリストを見てもすぐわかるように、五〇年代SFとは、SFとして同じ雰囲気をもっているが、決してワン・パターンでもマンネリでもなかったのだ。現在のわれわれは、ともすればここ十年あまりのSFの〃浸透と拡散〃を知っているだけに、過去のSFが狭いゲットーにこり固まったものだという印象を抱きがちである。事実は、必ずしもそうではなかったのだ。読者層の拡大には失敗したが――そのためブームは崩壊し後には失望感とニヒリズムが残った――その中で五〇年代のSFはあらゆる方向に適応放散をとげたのである。
 そのことは短篇の分野で特にいえる。五〇年代SFを支えた大きな柱の一つは、圧倒的な量と質の短篇SFである。

――しかし、サイエンス・フィクションは他のカテゴリイと異なり、短篇形式としても存続しているのだ。短篇というものは、(再び議論のタネになると思うが)サイエンス・フィクションに最も適した課題である、一つの思弁的概念を明噺化し提示するのに理想的な構造ともいえるだろう。そして、技法的な知識と独創性において、この十年は短篇SFのレベルが他に類を見ぬはど高まった時でもある。最近の十五年以内に発表されたどんな短篇も、このころ定期的に年刊傑作選や雑誌年刊傑作集に現われた作品ほどには、読者とその分野に衝撃を与えていない。
「一九五〇年代SF」バリー・マルツバーグ 安田均訳

 マルツバーグという人は、いくぶんマイナーな現代のアメリカSF作家であるが、その批評眼は大いに認められている。彼の論拠には説得力があり、共感できるところが多い。その彼が、今やノスタルジーの対象であったり、楽天的で単純素朴なSFの代名詞として皮肉に語られたりする〃五〇年代SF〃を絶賛するのは、それが決して懐かしさだけで語られるべきものでも、楽天的で単純素朴なだけのものでもなかったからである。そうではないのだ。戦前のスペース・オペラがリバイバルするのはむしろ六〇年代以降であり、五〇年代のSFはアイデアの面でも技法の面でも、洗練と多様化の極致に達していたのである。

 しかし、今や、五〇年代は〃時の中に凍りついた時代〃となってしまった。長篇は何度も再版されている。『幼年期の終り』は誰でも知っている。だが、短篇は、雑誌に一度翻訳されたきり――それを読んだことのある今や二〇代後半以上の読者に忘れられぬ印象を残したまま――消えていったのだ。

 その五〇年代の短篇SFの中にあって、ひときわ輝いているのが、デーモン・ナイトである。
 冒頭で紹介した引用文は、一九七六年に出版されたナイトの傑作選――〃傑作選〃中の傑作との評価が高い――につけた、マルツバーグの序文である。マルツバーグは五〇年代の短篇SF作家の中でも、ナイトをとりわけ高く評価しているのだ。それはもう絶賛を通り越してメロメロの域(?)にまで達している。
 ナイトを評価するのは何もマルツバーグだけではない。著名な作家や編集者、ファンが、ナイトに言及する時にはたいてい似たような状態になってしまうのだ。それには、もちろんナイトの人間的な魅力、さまざまな分野でのSF界への貢献が広く認められているということもある。とりわけ、現在では、作家としてよりも、むしろ編集者、批評家、組織づくりの腕、といった面が高く評価されている。六〇年代以降、作品が数えるほどしかなかったためだ。けれども――もう一度、マルツバーグに代弁してもらおう。

――ナイトは、まず第一に、彼の行なったあらゆる活動において卓越している――編集、評論、長篇、短篇、そしていくつかのとほうもなく卑猥な戯詩においてさえも。もうひとつの事実は、彼の批評家、編集者としての名声が、若い作家や読者の目を覆いがちなのだが、一九五〇年代に彼が生み出した一群の小説はずば抜けたものだったのである。H・L・ゴールドが発掘した数多い作家の中でも、ナイトは、社会風刺と批評の媒体としてのギャラクシイ誌において、おそらく最も特徴的な作家であり、ほとんど最良のものだったといっていい。
『デーモン・ナイト傑作選』序文

 本書は、その五〇年代のナイトの短篇のうち、本邦初訳の作品ばかりを独自に集めた短篇集である。七篇中五篇をギャラクシイ誌、二篇をインフィニティ誌からとった。両誌とも、ナイトがその才能をおおいに発揮した雑誌である。
 ギャラクシイ誌は御承知の通り、五〇年代を代表する(もちろんそれだけでなく、つい最近までずっと健在だった)SF雑誌で、一部ではF&SF誌よりもSFらしさの面で高い評価を受けている。一方のインフィニティ詰も、五〇年代を語るのに忘れてはならない雑誌である。ファン出身のラリー・ショウが編集したSF雑誌で、五五年から三年間しか続かなかったが、毎号エド・エムシュイラーの絵を表紙に使い、アーサー・C・クラーク、アイザック・アシモフ、ジェイムズ・ブリッシュ、シリル・コーンブルース、アルジス・バドリス、ロバート・シルヴァーバーグらの短篇を掲載していた。創刊号に載ったクラークの「星」は、その年のヒューゴー賞を受賞している。ナイトはこの雑誌の常連でもあり、また書評欄の担当をしていた。ここで発表した書評の多くが、後に『驚異の追求』にまとめられることになる。ギャラクシイもインフィニティも、五〇年代の洗練された雰囲気を強く漂わせている、ひとことでいえば都会的でスマートな雑誌だった。そして当時のデーモン・ナイトはそこに、大変スマートでトリッキイな作品を次々に発表していったのである。

 デーモン・ナイトは一九二二年、オレゴン州ベーカーに生まれた。少年時代をオレゴン州フードリバーで過ごし、そこでSFとの最初の接触{ファースト・コンタクト}をする。彼はたちまちそのとりことなり、当時出ていた三種類のSF雑誌と、町の小さな図書館で借りられる限りのSFを読みふけった。だがフードリバーは小さな町だった。オラフ・ステープルドンの本が読みたくてイギリスへ手紙を書いたりもしたが、ナイト少年の努力にもかかわらず、彼の本棚を埋めるまでにはずいぶん時間がかかった。

 一九四〇年、彼は十八歳になり、ニューヨークへ出て来る。

 当時、ニューヨークには、フューチュリアンと呼ばれるグループがあった。SF作家の卵、ファン、編集者などの私的な集まりで、その数も二十人そこそこの小さなものだったが、彼らこそ、後のアメリカSFに大きな影響を残す人々の若き日の姿だったのである。
 彼らは――ドナルド・ウォルハイム、アイザック・アシモフ、ジェイムズ・ブリッシュ、シリル・コーンブルース、フレデリック・ポール、バージニア・キッド、ジュディス・メリル……みんな若く、(十代から二十代の初め)、貧しく、SFを愛する心でいっぱいのボヘミアンだった。政治的にはラディカルで、理想主義的、SFの未来を信じ、SFファンは未来に生きる者だと考えていた。デーモン・ナイトは彼らの仲間となり、ニューヨークの汚いアパート――それを彼らはフューチュリアン・ハウスとかアイボリー・タワー(壁の色がそうだったから)と呼んだ ―― で、共同生活をはじめた。彼らは日常生活の面でも、確かに時代に先んじていた。アパートを共有してコミューン生活を行ない、常識的な道徳{モラル}を笑い、飲んだくれ、セックスし、いっしょに唄を歌い、小説を書き、雑誌を出し、〃拡大家族〃としてつきあった。彼らは時代に先んじたビートニクであり、ヒッピーだった。一番年長で、洗練されたニューヨーク紳士であり、同時に、ファンダムにおいて最も過激な活動家であったグループの理論的指導者、ドナルド・ウォルハイム――ぼくはかつてSFMに連載された野田さんのエッセイ「今昔ふあん気質考」(モスコウイッツの『永劫の嵐』を中心に三〇年代から四〇年代のファンダムの〃抗争〃を紹介したもの。反ウォルハイム派だったモスコウィッツのバイアスがかかっている)や、ニュー・ウェーヴ論争がはじまったころの伊藤さんの「宇宙製造者たち」(ウォルハイムの評論集『宇宙製造者たち』をニュー・ウェーヴの立場からこきおろしたエッセイ。抜群におもしろい!)を読んで、ウォルハイムというのは頭の古い嫌な奴だという印象をもっていた。ところが、ニュー・ウェーヴ論争以後の現状を見、いろいろと資料を調べて見ると、何のかんのといっても、やはりウォルハイムというのは偉大な人間だった(いや、現在もまだがんばっているのだ)と思うようになった――そして若い活動家のジェイムズ・ブリッシュ、フレデリック・ポール、シリル・コーンブルース。彼らは商業主義に牛耳られたSF大会粉砕!を叫んで第一回世界SF大会の会場入口にすわり込んだというつわものたちだった。もう少し大人しいのはリチャード・ウィルスンやアイザック・アシモフ。アシモフなどは、キャンベルの影響下にあってフューチュリアンの多くとは考えを異にし、マザコン少年扱いされていたが、けっこう色々と首をつっこんでいたようだ。一方すさまじいのはコーンブルース。まあ一種の性格破綻者で、一度も歯をみがかず、飲んだくれてはアパートの廊下の電球をみんな壊してしまうというありさまだった。ひどい生活であったが、彼らには夢があった。ウォルハイムをはじめ、何人かは三流出版社の編集の仕事をもっていたので、若い作家志望のメンバーに小説を書く場を提供してくれた。もっとも全然金にはならなかったのだが。ナイトの処女作「弾性」Resilienceも、こうしてウォルハイムの編集するスターリングSF誌四一年二月号に掲載された。

 ナイトは例の安アパート〃フューチュリアン・ハウス〃でグループの仲間と共同生活し、年長メンバーの皿洗いをしたり、いっしょにバカ騒ぎをしたりしながら、マンガや小説を書いていた。フューチュリアンのメンバーには画家やマンガ家もおり、実際彼らの小説には、コミック的なシチュエーションを効果的に使ったものが多いといわれている。ナイトが最初に売ったものは、実は小説ではなく、コミックの方だった。
 そんな一方で、彼はファンジン作りにもはげんでいた。四〇年に創刊した〈スナイド〉を、彼はアドルフ・ヒットラーに送りつけた。これは気のきいた冗談だと思ったのだった。やがて太平洋戦争がはじまり、アメリカも参戦するに及んで、これは冗談ではなくなった。

 フューチュリアンのエピソードを書いていると、いくら枚数があっても足りない。成功物語ばかりではない。いくつかの悲劇もあった。彼らがやってきたようなことは、やがて六〇年代後半に、ロンドンで、サンフランシスコで、そしてニューヨークで、パリで、別の若者たちによって繰り返されることとなる。SFの〃新しい波〃とは一度だけのものではなかったのだ。それは過去にもあり、そして未来にもあるだろう。デーモン・ナイトは四〇年代と六〇年代の二つの〃新しい波〃に、どちらにも深く関わった人間だった。二つめの波との関わりについては後で述べよう。とにかく、フューチュリアンたちは、やがて五〇年代SFの中核となったのだった。彼らには、ほとんどアカデミックな背景といったものはなかった。グループ自体が彼らにとって学校だったのだ。フューチュリアンはワークショップとしての一面をもっていた。明らかに、フューチュリアン的な創作法というものがあった――と、自身フューチュリアンであったアルジス・バドリスが書いている。もちろん彼らはやがてグループを離れ、文体も考え方も個性的な、成熟した作家へと成長していったのだが、この時代につちかった精神といったものが、彼らとその作品に刻印を残しているのである。実際、フューチュリアン出身の作家、編集者たちは、みな単に作家、編集者であるというだけではなく、それ以上にSFに対する実践的な批評家でもあったのだ。このワークショップとしての側面は、デーモン・ナイトやジュディス・メリルによって、さらに後へ引き継がれている。ミルフォード作家会議、クラリオン・ワークショップといった、新しい作家を確実に生み出している成功したワークショップは、フューチュリアンたちがやってきたことを、いくぶんアカデミックな形で再現したものなのだ。

 ファンダムの歴史を見るのは(ぼく自身、ファン活動に大半の時間を費してきただけに)大変興味深い。しかし、どうやら枚数をとりすぎてしまったようだ。そろそろナイト本人に戻るとしよう。

 ニューヨークでのナイトは、ファンジン作り、短篇、コミックなどの創作をする一方、友人たちのつてでパルプ雑誌を出している三流出版社のアシスタント・エディターになった。それからリテラリー・エージェントをやったり、またSF雑誌のアシスタント・エディターをやったりを繰り返しつつ、何篇かの短篇を雑誌に売った。しばしばジェイムズ・ブリッシュとの合作を試みている。だが、四九年までの作品は、はっきりいって習作の域を出ず、注目すべきものはない。
 彼がSF界の注目を浴びるのは、その年の秋に出たF&SF誌の冬・春号(これは同誌の創刊第2号にあたる)に掲載された「男と女」Not With a Bangによってである。ナイトが二十六歳の時のことだった。この今から見ればさはど衝撃的とも思われないショートショート――大げさにいえば、通俗的なモラルが世界を滅ぼすこともあるという――そういえばタブー破壊的なニュアンスも多少はあるなという程度の話が、当時のSF雑誌にのきなみ掲載を拒否され、もしアンソニイ・バウチャーが新雑誌をつくらなかったなら、決して日の目を見ることはなかっただろうといわれている。そういう意味では、これは確かに〃新しい波〃の一篇であり、五〇年代SFの幕開きを告げるにふさわしい作品ではあった。以後、彼はギャラクシイを中心に、〃都会的でユーモラス〃と評せられる短篇を次々に発表してゆく。
 このころの作品はまた〃ウィットに富んだエクストラポレーション〃とも評されている。どちらにせよ、それまでのSFとはひと味違うアイデアと語り口の妙が、多くの読者に強い印象を与えたのである。ナイトは言語感覚に大変鋭いものをもっていた。それが軽いユーモア作品ではことば遊びや駄じゃれ、絶妙なオチとなって現われ、もっと重い作品では、言語がつくり上げる世界そのものへの懐疑となる。そこでは価値の転換がかなり劇的な形でおこる。そして、後の社会や人間の問題をシリアスに扱った作品へとつながってゆくのだ。

 小説ばかりでなく、評論の面でも、ナイトは注目をあびるようになった。そもそもは四五年にファンジンに発表したヴァン・ヴォクトの『非Aの世界』論が、彼の批評家としてのスタートである。ラリー・ショウのファンジンに載ったこの評論は、当時、いわば偶像崇拝的な人気をもっていたヴァン・ヴォクトを冷静な目で分析し、鋭く批評したもので、アメリカSF界初のまともな評論として知られている。以後、F&SF誌、インフィニティ誌、イフ誌などのプロ雑誌、その他数多くのファンジンに書評を掲載し、傑出したSF批評家としての名をほしいままにした。この五〇年代SFの同時代の目による批評は、前述の『驚異の追求』にまとめられ、後にヒューゴー賞を受賞した(一九五六年)。今読んでも大変おもしろく、少しも古さを感じさせないものである。
 一九五〇年冬、ナイトは新たに創刊されたワールズ・ビヨンド誌の編集長となる。この雑誌は短命だったが、ウィリアム・テンの「非P」やハリイ・ハリスンの処女作を掲載するなど編集は意欲的だった。五八年から五九年にかけてはイフ誌の編集も引き受けた。

 六〇年代に入ってからは、ナイトの創作は数えるほどになり、むしろ編集やその他の活動に集中するようになる。六〇年にバークレイ・ブックスの編集コンサルタントとなり、以後六年間その仕事をつづける。一方六二年には、最初のアンソロジーを編集し、以後この出版形態が彼のお気に入りとなった。「デーモン・ナイト編」の文字を見たら買いだ! が、ファンの合言葉だった。
 そのきわめつきが、オリジナル・アンソロジーのシリーズ、〈オービット〉である。一九六六年からはじまったこのシリーズで、彼は積極的に新しい作家の新しい作品を紹介していった。六〇年代末から七〇年代にかけてのアメリカSFに、〈オービット〉は大きな影響を与えたのである。R・A・ラファティ、ガードナー・ドゾア、ケイト・ウィルヘルム、ジーン・ウルフ、エド・ブライアントといった作家たちは、もちろん他の雑誌でも活躍したが、〈オービット〉の常連であり、〈オービット〉が育てたといっていい。
 このメンバーからもわかるように、〈オーピット〉はアメリカン・ニュー・ウェーヴの一方の拠点となったのだった。デーモン・ナイトは、自身五〇年代の〃新しい〃アメリカSFの書き手であったが、今度はさらに新しいアメリカSFの育ての親となったのである。保守的な読者の抵抗にはあったが、〈オービット〉シリーズはおおむね成功し、その作品はほとんど毎年のようにネビュラ賞にノミネートされ、さらにその何篇かは短篇、中篇部門を受賞したのだった。〈オービット〉はまた、当時のアメリカSFにオリジナル・アンソロジーの一大ブームをまき起こす火つけ役ともなった。
〈オービット〉に発表された作品のうち代表的なものを集めた短篇集『オービット傑作選』の序文で、ナイトは大意次のようなことを述べている。

――ある批評家が〈オービット〉を評して、このアンソロジーの作品には、SFファンを刺激するような新鮮なアイデアがあるけれども、〃SF〃のアンソロジーに彼が期待するような居心地の良さや、親しみやすさは見つからないだろう、と書いていた。これを読んでわたしは、SFに対して居心地良いとか親しみやすいとかいう言葉をつかうなんて、ずいぶん変な話だと思った。もちろん、SFの九割は先が見え見えで、平凡で、安全無害だろう。でも、すぐれたSFとは、そんなものじゃない。それは――木馬じゃなくて、ジェットコースターなのだ。心地良さを求めるんだったら、アスピリンでも飲めばいいのだ!

 彼はまた、「宇宙船が出てくる現代SFは大部分クズだ」とか、「作家たちに、彼らがかつて読んだスリリング・ワンダー誌(スペース・オペラで有名)を忘れさせることができたなら、すばらしい」とか、いかにもニュー・ウェーヴ派らしい発言をしている。しかし一方では古典SFの再評価や、五〇年代SFを核とするテーマ・アンソロジーの編集などにも積極的なのだからこれらの発言は宇宙船が出てくるようなSFの否定という意味ではないだろう。現代の作家たちが宇宙船に代表される古典的なSFのシンボルを使うつもりなら、ナイトたちが五〇年代やそれ以前に扱ったよりも、さらに新しく、意味のある使い方にチャレンジしなければ、ナイトとしては承服できない、といったところだろう。

 ナイトは、本質的にはSFファンなのだ。SFの定義について、「SFとは、きみがSFの話をしている時に、たまたまその対象となったものすべてのことだ」なんていうのだから。また彼は、SFにおけるアイデアの重要さをよく認識している(五〇年代作家だから当然だろうが)。もちろん、それだけでは足らないことも。エド・ブライアントへの手紙の中で、彼はこういっている。「アイデアだけの小説は、一本足の三脚のようなものです。次のことばを紙に書いて壁にはっておきなさい。『三脚の足は三本だ』」と。本書に収録された五〇年代のナイトの作品を読めば、そのことがわかるだろう。本書の作品には、宇宙人もタイム・トラベルも不死人も出てくる。しかし、その扱い方は、どれひとつとしてありふれたものではなく、知的な衝撃をもたらすものとなっているのだ。もうひとつつけ加えるならば、にもかかわらず、それは居心地良く、親しみやすいものなのである。それこそ、五〇年代SFのすばらしいところなのだ。

 ナイトはミルフォードSF作家会議、アメリカSF作家協会、クラリオンSFワークショップなどを次々と組織して、オルガナイザーとしてもすぐれた業績をあげた。
 ニューヨークを離れてから、フロリダ、ミルフォードと居を移し、現在はオレゴン州ユージーンに住んでいる。もうニューヨークへ帰るつもりはないとのことだ。夫人は、今や作家としてはナイトよりも有名となった、ケイト・ウィルヘルムである。なにしろウィルヘルムの本はすでに何冊も翻訳が出て、広く読まれているのに、ナイトの本は、本書がわが国で初めてなのだから。
 最新のニュースによれば、ナイトは新たな長篇The Man in the Treeを出版社に売ったということだ。長い休暇のあと、また創作意欲がわいてきたのかも知れない。八〇年代の彼の作品がどういうものになるのか、大いに期待したいところだ。

1982年4月


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