SFファンたちはどう生きるか――SFじいさんの昔話
大野万紀
早川書房「SFマガジン」23年10月号掲載
2023年10月1日発行
もともとぼくが編集部からいただいたテーマは「日本におけるSF研究会の歴史」といったタイトルで、SFファン・同人サークルの歴史や発展、現在の事情に関して書いてもらえないかというものでした。いやあとんでもない、大変ありがたいのですが、ぼくのSFファングループに関する知識はせいぜい一九七〇年代後半から一九九〇年代までの、それも関西中心、海外SF中心に限られているので、全国を視野においた歴史や発展、とりわけ現在の状況についてはほとんど知らないというのが実情。というわけで一度はお断りしたのですが、それでもぜひにとのお話でしたので、それならばあくまで個人的な経験の範囲で、インターネットのない時代のSFファンがどのように仲間を見つけ、ファンジンを作り、それを広めたか、という話を書いてみようということになりました。なので、ここに書く内容はいわばSFじいさんの昔話といったものになります。ある時代のSFファンの、ひとつのケーススタディとしてお読みください。
たぶんぼくに近い年代の、昭和のSFファンであれば似たような経験をしており、知っている内容ばかりだと思います。また他の地方、例えば東京では違うといったこともあるかと思います。若いSFファンの方は、ぜひSF大会などでゴロゴロしているSFじいさんやSFばあさんに一言声をかけてみてください。そこにはまた違った世界があるかも知れません。
まずは基礎知識。そもそも同人活動とか、好きな作家について仲間と語り合うといったことはずっと昔からあることで、特別なことではありません。なのにSFというジャンルには何か独特なニュアンスがついてまわります。仲間内でサークルを作るだけでなく、そのサークル同士がつながりあい、強い同族意識をもつ共同体をつくり、ついには自分たちで大きなイベント(SF大会など)を開催したりするのです。今でこそそれはマンガやアニメ、ゲームやアイドルといったサブカルチャーの世界で共有される文化活動となっていますが、その発祥は百年近く前の、黎明期のアメリカSFにあったのではないかと言われています。
SFファンのこのような共同体をSFファンダムと言い、SFファンの作る同人誌(小説とは限りません)をファンジンと言います。これらの用語ももちろんアメリカから来たものです。
そもそものはじまりは(諸説ありますが)、一九二六年、ヒューゴー・ガーンズバックが世界初のSF専門誌〈アメージング・ストーリーズ〉を創刊した時に遡り、その雑誌のお便り欄こそがSFファンダムの起源と言われています。当時のお便り欄には住所氏名がそのまま掲載されていたので(いや日本でも〈SFマガジン〉のテレポート欄には九〇年代初めまで投稿者の番地が載っていました。今は市区町村までですね)、読者同士が直接手紙をやりとりすることができたのです。そうしてSF好き同士が互いにコミュニケーションをとり、郵便でネットワークを作り、やがてサークルを作ったり直接会って会合を開いたり同人誌(ファンジン)を出すようになりました。そのほとんどは思春期の少年少女たちだったとのことです。三〇年代になると小さなサークルは組織化され、フューチュリアンなど今では伝説となったファングループが生まれました。そして三九年にはニューヨークでファンの主催による最初の世界SF大会(ワールドコン)が開催されるのです。
要するに、当初からSFファンダムというのは青少年が多く、自発的に組織化し、主に手紙によってコミュニケーションを図り、組織同士が連携して自分たちでイベントを開催し、とにかく集まってわいわいするのが大好きという特長があったことがわかります。そのことは日本でも他の国でも、そして現代でもほぼ変わりないと言えるでしょう。
このファンダム活動は戦後、柴野拓美さんや矢野徹さんらによって日本に持ち込まれます。一九五七年の柴野拓美さんによる〈宇宙塵〉の創刊と、五九年の〈SFマガジン〉の創刊、そして六二年の第一回日本SF大会。なおアメリカと違ってこのころの日本ファンダムは青少年より大人が多かったとのことです。よく知らないけどまあそうだったのでしょう。
関西では六〇年に筒井康隆さんの〈NULL〉が発足するなどファングループは全国に拡がります。平井和正さんの『超革命的中学生集団』でもおなじみの「SFマガジン同好会」(六二年)は渋谷の喫茶店で「一の日会」という会合を開き、そのファンジン〈宇宙気流〉はバカ話やパロディなどが売りの、ファニッシュと呼ばれる路線を突き進んで行きます。真面目な〈宇宙塵〉とファニッシュな〈宇宙気流〉はすでにSFファンの二つの顔を象徴していたと言えるでしょう。
昔々あるところに一人の少年がいました。絵本で読んだ宇宙や恐竜や未来のお話が大好きで、もちろん手塚治虫のマンガも大好きでした。小学生になり、図書館にあった講談社の《少年少女世界科学冒険全集》(だったと思う。『宇宙船ガリレオ号』とかあったし。まだSFとは書かれていなかったようだ)にはまり、ひたすら借りて読みふけっていました。本の後ろにあった福島正実さんの解説で、こういう小説をSFと呼ぶのだとも知りました。でも他に読んでいる子どもはあまり多くなく、貸出票から見つけて話をしても、たまたま読んだだけで特別な興味はなさそうでした。そうです。本を読むのが好きで同じ本を読んでも、それにはまってSFファンとなる人と、そうでない人がいるのです。中学、高校と進んでも、SFファンといえるのはクラスの中にせいぜい一人か二人しかいませんでした。でも彼らとは本当に話が合うのです。
自分がSFファンであることを自覚した少年は本屋でSFを見つけては買うようになり、やがて〈SFマガジン〉の存在を知ります。近所の本屋には二、三冊しか入らず、それも売り切れていることが多い。どうやら同じ町にライバルがいるようです。〈SFマガジン〉には「てれぽーと」というお便り欄があり、ファングループの紹介もありました。そこで少年は黎明期のアメリカのSFファンと同様に、この広い(狭い?)世界にはSFファンダムというものがあり、そこには自分と同じような傾向の人たちがいることを知るのです。そしていくつかのグループに手紙を書き、お金を送り、ファンジンを入手します。
ところで今では様々な手段で簡単に少額の送金ができますが、昔は手段が限られていました。大きなファンジンには郵便振替の口座があり郵便局で送金できましたが、そうでないところは切手で送ったり、定額小為替を買って送ったりしていました。現金書留というものもありましたが、とても面倒で費用もかかったので、普通の封筒で送れる便利な定額小為替を使うことが多かったように思います。
少年の入手したファンジンの一つは〈宇宙塵〉でした。そこには全国から様々なファンジンが送られてきていて、柴野さんのコメントがつくファンジン紹介のページがありました。真面目に創作をするファンジンもあれば、パロディばかりのおふざけファンジンもあり、それが何と楽しそうだったことか。そう、彼はもうどっぷりとSFファンになってしまっていたのです。
少年はいつの間にか大学生になっていました。大学生になったらすぐにSF研に入ろうと決めていましたが、彼の入った神戸の大学にはSF研がなかったのです。なければ自分たちで作ろう! 幸い同時に入学した中に同じ考えの者がいたようで、学内に手書きのポスターが貼られていました。連絡先にあった曜日にわくわくしながらラウンジへ向かったのはもちろんです。
十人ほどの学生が集まっていました。多くは新入生でしたが先輩たちもいました。ここで顔を合わせた何人かとは五〇年後の今でも濃いつき合いを続けています。
ほとんどはぼくと同様の、一人でSFを読み、基本的にはファン活動ということをやったことのない初々しいファンでした。でもその中に高校時代から大阪のファングループに入り浸り、SFについて独自の一家言をもつ先輩がいました(後にペンネームの水鏡子で知られることになる人ですけどね)。ぼくらがアシモフがクラークがと盛り上がっているのを冷笑しながら、そんなのはつまらないと、〈SFマガジン〉で名前だけは知っていたような作家を勧めるのです。何かイヤ味な感じの人だなと思ったけれど、知識が豊富なのは間違いないので傾聴していました。SFファンの中には時々こういう人がいますが、面倒くさいのでスルーするのが一番でしょう。もっともこちらのレベルが上がるとそれなりに対応してくれるようになり、彼はわがSF研で「隅の老人」として(年齢は一つしか違わないのだけど)遇されるようになりました。念のため言っておきますが、今ではもうそんな過去のイヤ味は消え去り、立派な書庫を建てて百円ほどの本をため込んではなろう系ばかりを読んでいるオモロイおじいさんとなっています。
筆者らが神戸大SF 研で作ったファンジン 〈れべる烏賊〉 |
SF研を作ったら次はファンジンを作らないといけません(いやいけないことはないけど、そんな気分になるんです)。わがSF研は大学に認められた正式なサークルではなく、あくまで同好会に過ぎません。部室などはなく、大学のラウンジや喫茶店、仲間の部屋に集まってはSFの話に花を咲かせ、ノートに色々書いては回覧し、時には電話します。スマホも携帯もない時代、個人の電話はなく公衆電話は金がかかるので電話するのは本当に急ぐ
時だけです(うっかり長電話してしまうと大変なことになります)。とにかくそういう所で話をしながら、SF研として最初のファンジンを作ろうということを決め、小説を書く人、翻訳をする人、書評や評論を書く人、イラストを描く人などを決めていきます。ほとんどの人は初めてなので、なかなか決まりません。ここでもまた例のうるさい先輩は、下手な小説やエッセイなら可愛いねと見られて別に問題ないが、翻訳だけは止めた方がいいと口を挟みます。大阪のファンダムには海外SFについて凄い人がいるので、下手な翻訳をすると批判されるのだそうです。でもそれのどこが問題なのかわからないので無視することにしました。
さてファンジン作りの話です。今ならワープロソフトで原稿を書いて印刷し、コンビニでコピーするか、同人誌御用達の印刷屋に頼んで簡単に出来上がると思いますが、七〇年代初めにそんなものはありません。お金があれば軽オフセット印刷などの手ごろな印刷屋に出すこともできますが、基本は謄写版印刷、いわゆるガリ刷りです。当時、小中高のプリントはほとんどガリ刷り、学生運動のアジビラもガリ刷りだったので、そのやり方はわかっています。ロウ原紙、鉄筆、ヤスリ盤、修正液、そして謄写版印刷機と紙とインクが必要です。
みんなの書いた手書きの原稿を字がうまい(人がちゃんと読めるような字を書けるという意味です)メンバーが鉄筆で原紙にガリガリと書き込んでいきます。イラストも線画であれば直接書きます。ここで注意しないといけないのは印刷後の製本をどうするかあらかじめページ配分を決めてから原紙を作成することです。今ならワープロソフトが設定次第で自動的にやってくれるし、慣れればどうということはありませんが、初心者はうっかりして両面印刷できない(袋とじにするしかない)原紙を作ってしまいます。それでもいいけど、紙がもったいない……。
すぐに破れるロウ原紙はやがてボールペン原紙に変わり、また青焼きコピーというのもありました。これは普通の紙に書いた原稿を青い独特の臭いがする用紙に複写するものですが、ぼくらは線画では表現できないベタのあるイラストの印刷などに使っていました。
とにかく最初の会誌ができあがりました。タイトルをつけるのも話し合いですが、楽しいですね。一度できると次の号、次の号とファンジン作りがSF研の中で大きな部分を占めていきます。ここで積極的に参加する人と、そうでない人が自然に分かれてきます。うちのSF研の場合、作るファンジンがどんどん巨大化していき、どんと翻訳を載せたりしたので、作業量も大きく仕方のないところがあります。例の口うるさい先輩は原稿は書いて色々文句を言うが実作業には加わらないというスタンスで通していました。まあそういう人もいます。
作ったファンジンはやはり他の人に見せたくなります。この当時、ファンジンが出来たことを知らせるには(インターネットはありませんからね)、近くでやっているSFファンの会合に参加するか、SFマガジンや宇宙塵にお知らせを載せてもらうしかありませんでした。宇宙塵には前に書いたようにファンジン紹介のページがあって、柴野さんがレビューしてくれるのを期待してドキドキしながら送ったのを覚えています。
関西のファンダムは主に大阪の喫茶店に集まって例会を開いていました。アポロ、白鳥など、とにかく大勢で集まってはコーヒー一杯で長時間ねばるので、いずれは喫茶店から追い出されることになります。初めて連れて行ってもらったのは梅田の白鳥だったかな(もちろん今はありません)。地下に数十人(というほどでもないか)がたむろって、SFの話やSFじゃない話(そっちの方が中心)をしていました。大学SF研やSF研に属さない人たちが多く、その中心にあるのは「パンパカ教団(当時はパンパカ集団)」というファングループで、伝説的な巨大ガリ版刷りファンジン〈ひゅーまん・るねっさんす〉を出していました。創作やしっかりした翻訳も載っていたけど、有名なのは大阪ノリのおふざけページ。これはもう絶品で、神戸の人間からすれば「大阪や……」と絶句するようなえぐいギャグが連発されていました。
とにかくそういう所で自分たちのファンジンを配ったり、他のグループの人たちと交流を深めていくのです。ぼくは大阪のことしかわかりませんが、東京、名古屋、全国に同じような拠点となる喫茶店があり、多くのSFファンがそこをハブとしていて、キーパーソン同士が連携したネットワークを作っていました。その多くはSF大会や地方コンベンションを開催し、今でも活躍しているじじばばファンとなっています。
コンベンション! 次はコンベンションへの参加です。年に一度の日本SF大会にはディーラーズルームという売場が設けられます。全国のファンがそこに自分たちのファンジンやグッズを持って集まるのです。コスプレの人もいます。詳しくは知りませんが、コミケ(コミックマーケット)もここから始まったという話を聞いたことがあります。ぼくらもそこで売るのを目的として次のファンジン作成を計画します。創作も翻訳もはっきりした締切が設定されます。かつてのような自由気ままさは薄れますが、多くのファンに実際に手に取って読んでもらえるという喜びがあります。
SF大会だけではありません。もっとローカルなコンベンションがあり、ほとんどサークルの合宿のようなコンベンションもあります。関西では「テラコン」と称してお寺の宿坊で開くものもありました。そういった情報はSFマガジンなどの情報欄や、喫茶店で配られる情報中心のファンジンに載っているのです。自分たちのSF研は帰っていく場所として重要ですが、もはやファン活動の中心はその外の世界へと移っていったのでした。
やがて大学を卒業し、そこで去って行く者もいれば、社会人となってもかえって熱心に活動を続ける者もいます。新たなグループを作り、海外SFに特化したり、巨大なコンベンションを開くことに情熱を注いだり、創作に集中したり。そんな人たちはもはやSFやファン活動と自分の生き方が一体となっているのです。
七〇年代末に各社から家庭用パソコンが発売され、八〇年代に入ると、日本語も使えるようになって一挙にPCの時代がやってきました。ファンジンを作るSFファンにとっては、まずはワープロソフトが重要。一太郎、松、その他のフロッピーディスクで起動するワープロソフトの話題がファンジンにあふれ、その細かいノウハウが伝授されます。何しろ少しでもメモリーを空けるためにおまじないのようなコマンドが必要だったのです。
ワープロソフトの登場により、原稿はフロッピーでやり取りされ、印刷はプリンターで行うようになりました。それを版下として印刷屋に持ち込めばOK(コンビニで手軽にコピーできるようになるのはもっと先かな)。
八〇年代後半から九〇年代にはパソコン通信が花開きます。SFファンダムもそれに飛びつき、ファン活動は一気にネット上で展開するようになります。ただしインターネット以前なので、それぞれは独立したクローズドなものであり、それをつなぐのは複数のネットをまたがる個人の活動によってでした。ファンジン原稿もメールで送られるようになります。
パソコン通信には個人や小さな企業が開く多数の草の根ネットがあり、またニフティサーブやPC-VANのような大手のサービスがありました。画面だけ見れば今のSNSのように投稿とその応答がずらずらと繰り返される電子掲示板形式が大半で、それぞれフォーラムとかSIGとか言うコミュニティを形成しており、SFもその一つでした。SNSのように勝手気ままなものではなく、運営グループが自主的に(一応)管理する仕組みでした。何しろアップすればすぐに応答があるので、議論が沸騰したり、炎上に近いことが起こったりもしましたが、今のSNSに比べればだいぶマシだったように思います。
やがてインターネットが一般に開放され、パソコン通信の時代は終わりを告げます。初期のホームページのいくつかはSFファン(あるいはそのなれの果て)が開設し、その中には今でも続いているものもあります。それから後の話はもっと若い、SFおじさんやSFおばさんに聞いてもらいましょう。というわけで、SFじいさんの昔話はここまでとします。どっとはらい。
2023年7月