八杉将司『LOG-WORLD』
大野万紀
早川書房「SFマガジン」23年8月号掲載
2023年8月1日発行
二〇二一年十二月に亡くなった八杉将司さんの、今年四月にオンデマンド出版で刊行された長篇SFである。もともとはpixivにてネット公開されていたのを有志によって書籍化されたものだ。
物語の舞台は二一世紀半ば。だが科学技術は現在より遥かに進んでいる。それは月の磁場から地球外知性が残したと思われる膨大なデータベースが発見されたからだ。そこから意味を持つ情報を取り出すには、人間の意識が直接アクセスする必要がある。またそこにはログワールドと呼ばれる数千年にわたる人類の歴史の記録もあった。それにアクセスすれば過去に生きた個人の生活を主観的に体験できる。ちょうど過去の人間に転生するようなものだ。ただしタイムトラベルとは違い、能動的に動くことはできない。
作者はこれまでもとてつもなく大きなハードSF的設定の中で、超人ではない普通の感覚をもつ人々の側に立った物語を描いてきた。本書もそのような作品の一つだといえる。
中心となるのは第一次世界大戦の西部戦線だ。それを記録したログワールドに、主人公である一八歳の新田端樹(たまき)がアクセスする。人間の命をすりつぶすような悲惨な戦場のリアルの中で、現代の若者の意識はどのような体験をするのか。
彼が転移したのは第一次大戦が始まったばかりのベルギー戦線。彼の意識はそこでドイツ軍の従者として働くインド系の若い男性の中にあった。驚いたのは端樹が自分の意思でその男の体をコントロールできたことである。そんなことはできないはずなのに。アクセスは直ちに中断される。
けれども上司の指示により、次のアクセスでは転移した男の体を動かしてドイツ兵になりすまし、ちょうどこの時戦場にいるはずの若きヒトラーを探すことになる。だが端樹の目の前でヒトラーは戦死してしまうのだ。端樹はアクセス中止を要請するが、現実世界からの応答はない。彼はドイツ軍の兄弟に救われ、以後持っていた認識タグからヒトラーという名の記憶喪失のインド人として扱われることとなる。
一方現実世界にはアクセス装置から目覚めた端樹がいた。ここで彼の意識は二つに分裂してしまったのだ。以後物語は二人の端樹の観点を並行して描いていく。
何といっても読み応えがあるのは第一次大戦の西部戦線に取り残された端樹の物語である。彼を救った兄弟は、ドイツの哲学者フッサールの息子たち、ゲルハルトとヴォルフだった。このあたりのエピソードは現実にあった出来事を元にしているとのことだ。
塹壕戦で端樹はヴォルフの命を助け、二人は親友となる。野戦病院にフッサールが見舞いに来て、彼らは意識や現実についての哲学的な会話をする。それが現象学のわかりやすい説明となっており、同時にこのログワールドの謎をも示唆しているのだ。その後二人はヴェルダン要塞の攻略戦に参加することになるのだが……。
ヒトラーのいない世界の未来は一体どうなるのか。二つに分かれた主人公の自意識は果たして元に戻るのか。そういった面でも大変面白いが、多世界や仮想現実といったSF的アイデアを、認識と実在の現象学的な観点から捉え直そうとする試みとしても大変興味深い物語である。
2023年6月