小川一水――未来を見つめる眼差し
大野万紀
早川書房「SFマガジン」12年1月号掲載
2012年1月1日発行
■はじまりの時
小川一水は、二一世紀の日本SFを代表する若手作家の一人である。本格的な宇宙SFから、バーチャルリアリティ、大災害やパンデミック、日常の中の「すこし不思議」、未来の技術開発プロジェクト、現場のプロフェッショナルたち、機械と人間、タイムトラベルに至るまで、バラエティに富んだテーマ、幅広いSFのベクトルの全域にわたって、ライトノベルでつちかったキャラクター重視のスタイルを武器に、全方位で展開している作家である。
SFマガジン二〇一一年七月号の「伊藤計劃以後」特集に、ぼくはそう書いた。今度、最新作『天冥の標V 羊と猿と百掬の銀河』を読んで、ますますその意を強くした。SFの定義がどうであれ、小川一水は今の日本で最もSFらしいSF、日本SFの第一世代からの流れを引き継いだ上で、国内・海外を問わず今現在を生きるSF作家たちと問題意識を共有し、さらにライトノベルの読者とも隔たりなく対することのできる、そういうSFを書くSF作家である。
そんな小川一水は、まだ高校生だった時、一九九三年の「リトルスター」で第三回ジャンプ小説・ノンフィクション大賞に佳作入選した。一九九六年、一九歳の時に、河出智紀のペンネームで単行本デビュー。デビュー作は集英社ジャンプj-BOOKSの『まずは一報ポプラパレスより』。自分で戦闘機を乗りまわすような、小国のおてんば王女様と、その秘書官となった某国のスパイが主人公のライトノベルだった。
その後、集英社やソノラマ文庫から何冊かライトノベルを出版しているが、小川一水の名前が話題にあがってきたのは、一九九九年のソノラマ文庫『こちら郵政省特配課』あたりからだろう。これはもう一つの現代日本を舞台に、何でもどこへでも、あらゆる手段を使って荷物を届けるプロフェッショナルな若い男女の活躍を描く〈働きマン〉小説である。
これと、二〇〇〇年のハルキ文庫『回転翼の天使 ジュエルボックス・ナビゲイター』がこのころの、二十代前半の作者の代表作といえるだろう。『回転翼の天使』はヘリコプター一機しかない地方の零細な航空会社に就職したヒロインの、リアリティあふれる奮戦を描く作品である。後半では、作者おとくいの大災害が発生し、彼女たちは人命救助に活躍することになる。
SFファンの中でも、ライトノベルに詳しい人たちから、読み応えのある作品を書く注目の新人作家として小川一水の名前が語られるようになったのもこのころだ(少なくともぼくが耳にするようになったのは)。
ぼくがリアルタイムに読んだのは、二〇〇一年の集英社スーパーダッシュ文庫『ここほれONE−ONE!』からだ。これはいわば〈土木SF〉で、そういうと、小松左京ブルドーザー的巨大プロジェクトSFを思い浮かべるが、こっちはもっと身近で、近所の空き地でユンボやボーリングの機械が動いているようなイメージである。もっとも物語はすぐさま宇宙的なスケールへ発展するのだが、東北地方で大地震が起こる(!)ことを除き、あくまでも等身大な世界が描かれている。
以後、二〇〇二年になると『群青神殿』(ソノラマ文庫)、『導きの星』(ハルキ文庫)と話題作が続き、そして二〇〇三年には『第六大陸』でついにハヤカワ文庫JAへデビュー。これが第三十五回星雲賞日本長編部門を受賞して、彼は名実共に本格SF作家として全面展開するのだ。
■システムと個人
ぼくは二〇〇三年の京都SFフェスティバルで、小川一水と野尻抱介を招いて「宇宙開発を小説にすること」と題した対談の司会をした。そこで彼は出たばかりの『第六大陸』について、それは決して「月へ行く」話ではなく、「月へ行って何かをする」話だと語った。そして組織とプロジェクトについては、自身は組織に属したことがなく、組織というより家族、運命共同体として描いているのだと語った。
会社などの組織に属したことがないという小川一水だが、その作品では組織と個人の関係がテーマになっているものが多い。ただ、先の対談での発言のように、彼は大企業や官僚機構のような巨大組織より、家族や職場、運命共同体といった互いの利益を共通にする、目に見える範囲の組織を描くことの方が得意なように思える。逆にいうと、国家や官僚機構のようなものを描く場合は、『復活の地』(二〇〇四年/ハヤカワ文庫JA)などに見られるように、過去に実際に存在したものをモデルとしても、どちらかというと硬直した機械的なシステムとなってしまいがちで、小企業を描くときのような生き生きとしたリアルな感覚には乏しいきらいがある。
むしろ小川一水が生き生きと描き出すのは、組織のシステム面ではなく、その中で自ら動こうとする個々の人間たちである。彼らの思いは時として属する組織のルールや枠組みを超えてしまい、彼らはそこで悩み、決断する。小さな決断もあり大きな決断もあるが、それを自己の責任として受け止め、壁を乗り越えて、努力と工夫で前向きに進もうとする。小川一水のキャラクターたちの魅力はそこにある。
ただ、彼のキャラクターたちは、決して独断専行型ではない。個性豊かな主人公たちも、できるだけ社会と折り合おうとする。非日常なできごとの中でも日常性を重視し、地に足をつけながらも世界を変えようとする理想を求める。それが時として甘いと批判されることもあった。しかしそれこそ未来を描くSFには必要不可欠なものだと思う。小川一水はそれが書ける作家なのだ。
それに関連して、小川一水にはまた「悪」を描く力が弱いという批判もあった。「ネズミに残酷なことのできない心理学者」というのはティプトリーの短篇のタイトルだが、小川一水の特に初期の作品では、確かにキャラクターに残酷なことのできない作家という側面もあったように思う。例えば『第六大陸』。技術者への信頼感の故か、ここにはいい人ばかりが登場する。真の悪役はおらず、その結果、社会的側面が充分描き切れてはいない弱点があった。プロジェクトの直面する最大の問題は、技術的側面より、社会的側面である。少女の夢がプロジェクトを進めるのはいい。でもそれが社会の後押しを受け、人々の目が再び宇宙に向かい、星々への思いが多くの人に共有される、それが「第六大陸」の意義だったはずだ。そこが掘り下げられ、さらに説得力のあるリアルな絵が描かれるようになるのは、この後だ。
その一例として二〇〇六年の『天涯の砦』(ハヤカワSFシリーズJコレクション)をあげよう。重大事故を起こして宇宙空間を漂流しはじめた宇宙船と宇宙ステーションの断片。死と直結する環境の中で生き残るための戦いを始める生存者たち。ここではその人間描写が、ハードSF的な宇宙環境の描写とともに、きわめてSF的なリアリズムたっぷりに描かれている。太陽系の植民が始まったばかりの時代の月と地球世界の政治力学や、そこでの職業、貧富の差、希望やあこがれ、憎悪や絶望、そのようなものがしっかりとリアルな深みをもって描かれているのだ。
■歴史から未来へ
さて『第六大陸』の一年前、二〇〇二年からハルキ文庫で『導きの星』シリーズが開始された。これは本格的な宇宙SFで、異星人の文明の勃興からその発達を見守る〈外文明観察官〉の物語である。その最初の二巻は、リスに似た異星人が辿るもう一つの世界史であり、技術文明の芽生えまでが、まるでシムアースのような神様視点のゲームのように描かれていた。「地球人が異星人の星へいって、現地のライト兄弟の原始的な飛行機をこっそり改良して悦に入るというもの」(作者あとがきより)というような、楽しく読めるが、SF的には特に目立った点のない作品だったといえる。とはいえ、すでにこの時点で異星人にとってモノリスや神様に等しいはずの主人公たちは、ただのゲームのパラメータと化しており、やがて彼ら自身もこのシミュレーションの一要素になってしまう。そして二〇〇三年の第三巻では異星人の文明は工業化され、核兵器を開発するところまで至り、もはや主人公は歴史の導き手ではなくなってしまう。最終巻では、銀河全体を視野に収めるような大きな物語へと発展していく。恐ろしい悲劇を越えて、未来への希望へと……。
ここで小川一水の繰り返すことになる大きなテーマが、一つの形をなしたように思える。テーマそのものはSFではよくあるもので、決して目新しいものではない。だが未来を見つめるその眼差し。人類は、知的生物は、何てアホな、ひどいことばかりする仕方のない連中なんだろう、でも中にはちゃんとした奴もいる。そんな人間たちは愛おしく、未来はきっと少しずつ良いものになるだろう。そんな、基本的にオプティミスティックな視点だ。ある種の理想論とのバランスの取り方、科学への信頼、そして日常にこだわりながらも宇宙につながるような巨視的な眼。もちろんそれらは多くのSF作家に多かれ少なかれ共通するものだが、ぼくはそこに小松左京と同じ眼差しを見た。
この決してベタな楽観論というわけではないが、現実に軸足を置いた上で未来に希望を見ようとするその眼差し(例えば野尻抱介にも同じ視線を感じる)こそ、ぼくがSF作家としての小川一水を信頼する一つの根拠である。
翌二〇〇四年の『復活の日』は、異星での大災害とその復興を描いた物語だが、その歴史を動かしていくのは、様々な思惑を秘めた組織やシステムというよりも、自分なりの未来を目指そうとするそれぞれのリーダーたちの個人的な思いである。この作品では、作者の歴史観といったものが色濃く表れており、関東大震災の際の帝都復興院総裁、後藤新平の活動が一つのモデルとなっている。それは悲劇は乗り越えられる、そして単に過去の日常を再興するのではなく、新たな未来を設計できるというものだ。
実際の神戸の震災の経験、そして現在進行中の3・11からの復興ということを考えると、なかなかそう簡単に理想を語るわけにはいかないという思いがつのり、現実とフィクションの関わりについて苦悩せざるを得なくなるのだが、それでも『3・11の未来 日本・SF・創造力』(二〇一一年/作品社)の「SFの無責任さについて」で瀬名秀明が述べているように、あえて目の前の現実を越えた未来を語ることこそ、SFに特有の、優れた要素の一つだと思うのである。
小川一水は他にも観察者の視点で歴史と未来を見つめるような作品を書いている。〈天冥の標〉シリーズも長大な未来史ものと見ることができるが、ここではちょっと毛色の変わった作品として、二〇〇七年の『時砂の王』(ハヤカワ文庫JA)を紹介したい。
これは遙かな時間線を越えて、人類が機械生命と戦う話だ。全人類の存亡をかけて結成されたメッセンジャーたちは時間を遡って敵の根を絶つ作戦に打って出る。何度も地球は壊滅し、その度にまた過去へ遡っては新たな時間線を切り開いていく。過去の人類と協力し、指導し、共に戦いながら、人類が生き残ることのできるわずかなチャンスを掴むために。いくつもの時間線をまたがり、並行宇宙を渡りながら戦うという話は、以前読んだ海外SFにもあったが、この作品ではいかにも骨太なストーリーが展開し、悲壮な戦闘シーンが続出する。ここでも絶望を越えて可能性に賭けようとする前向きな姿勢は共通している。
■普段着の女神たち
ここでちょっと視点を変えて、彼の作品に登場する女性たちについて語ってみよう。
ライトノベル出身ということに関係するかも知れないが、小川一水の作品の重要人物はたいてい女性だった。それも若い女性。初期作品はともかくとしても、『第六大陸』の妙、『復活の地』のスミル姫、『時砂の王』のヒミコ、そして『天冥の標』の千茅やアウローラたち。みんな運命に悩みながらも、力強く未来を切り開いていこうとする意志の強さを持ったヒロインたちである。
彼女らは、まだ一般人とは違う特別な存在であったが、近未来の日常を描いた短篇に登場する女性たちは、もっと身近で、まさに普段着の女神たちといっていい。二〇〇八年の連作短編集『妙なる技の乙女たち』(ポプラ社)の、軌道エレベータのあるアジアの街で暮らす、働く女性たち。宇宙服のデザインをする、海上タクシーの操縦をする、ジャングルに別荘地を分譲する、機械の腕を使って彫刻を作る、様々な民族の子供たちを保育する、軌道エレベータの客室乗務員をする、そして宇宙開発の未来を考える……。それらは近未来の日常生活そのものである。だが、彼女たちの何と力強く輝いていることか。
『煙突の上のハイヒール』(二〇〇九年/光文社)所載の表題作では、背中に背負って飛ぶ個人用のヘリコプターという、ささやかなガジェットによって、平凡なOLの生活が大きく変化し広がっていく。同書の「白鳥熱の朝に」はパンデミックの後の、変化した日常を描いた作品で、『天冥の標U 救世群』ともテーマ的に重なるものがあるが、ヒロインの少女は社会から被った理不尽な反応にけなげに対峙していく。ここには小川一水のもう一つのテーマともいえる、社会の〈空気〉への強くストレートな問題意識がある。
これら、近未来の日常を描いた作品が優れたSFであるのは、ごく普通の日常生活の延長線上に、人類の未来という大きな断絶を含む変化がきちんと接続されていることにある。その中で女神のごとき輝きを見せるのは、すぐ隣で暮らしている、ごく普通の女性たちなのである。
また彼の作品には恋愛を扱ったものも多い。坂村健は『青い星まで飛んでいけ』(二〇一一年/ハヤカワ文庫JA)の解説で、同書を「恋愛SF短編集」のイメージといい、直球的な「ボーイ・ミーツ・ガール」と述べている。ぼくもこの意見に全面的に同意する。そういう目で見れば、例え相手が人間ではなくても、あるいは致命的な敵同士であっても、彼のほとんどの作品にはSF的な恋愛のイメージが見えてこないだろうか。異星人も、機械も、異質なものはすべからく〈異性〉であり、それとのコミュニケーションには恋愛の要素が含まれざるをえない。……なんてことを思うのは、無生物にも「萌える」オタクだけなのだろうか。
■宇宙と知性の行方
そこで最後に、小川一水のSFで最も魅力的なテーマの一つである、宇宙における知性について考えてみよう。
SFでは〈ソラリス問題〉というものがある(というか、今ぼくがそう名づけた)。地球外知性の擬人化問題だ。地球外知性というか、人間以外の知性があるとして、それは人間に理解可能なものなのかという問題である。具体的には、SFに登場する異星人が(姿形がいかに違っていようと)擬人化され、アメリカ人や日本人と同じような思考や行動をしていてもいいのか、ということだ。
この問題、実はもうとっくの昔に決着がついている。エンターテインメントとして異星人を擬人化するのは別にかまわないが、もし真剣に、真面目に考えるのなら、異星の知性は異質で、人間には決して理解できないものとなるだろう。ちょうど『ソラリス』の海のように。
だから、SFに人間そっくりな宇宙人が出てきたら、そこには何か裏設定がある(一番多いのは、太古に分かれた人類と同じ祖先の末裔なのだとか)と思えばいいのだ。そうでなく擬人化されていた場合、ハードSFにお約束として超光速が出てきた時のように、何か言い訳したくなる、そんな居心地の悪さがある。
ところが小川一水の異星人たちときたら、みんな人間そっくりで、共感できる連中ばかりなのである。〈ソラリス問題〉なんか、青い星まで飛んでいけだ。
そりゃあ、面と向かって問われれば、レムが正しいだろう。だけど人間には共感の能力がある。「宇宙よ、しっかりやれ」(小松左京だ)なんて宇宙に向かって大真面目にいうのは、確かにちょっと気持ち悪いかも知れない。でも、異星人だろうが、ソフトウェア知性だろうが、犬や猫だろうが、無人探査機だろうが、戦闘機や自動車だろうが、宇宙だろうがイワシの頭だろうが、みんな擬人化し、そこに人と同じタマシイを感じ、共感し、投影し、〈萌える〉のは、SFファンならずともごく普通の、人間らしい感情といえるのではないだろうか。
小川一水もそこはかなり早い時期に割り切ったように思う。もともとキャラクター重視の小説を書いていたわけで、初期の『導きの星』の異星人はまったく人間のハードコピーだった。傑作「老ヴォールの惑星」(二〇〇三年/〈SFマガジン〉→二〇〇五年/ハヤカワ文庫JA)でも、ホット・ジュピター型の惑星に棲むその知的生命体は人間に理解できる思考を行っていた(だからこそ、ぼくらは共感できた)。だがこれらは普通のSFとして、あまり意識することなくそう描かれていたと思われる。
それが積極的に意識して描かれるようになったのは、「フリーランチの時代」(二〇〇五年/〈SFマガジン〉→二〇〇八年/ハヤカワ文庫JA)や「青い星まで飛んでいけ」(二〇〇八年/〈SFマガジン〉)あたりからではないだろうか。そして今度の『天冥の標X』でもそうだ。ダダーやミスチフといった超知性たちが、まるで個性をもった今どきの人間のように描かれている。「フリーランチの時代」では異星人が人間のようにコミュニケーションできる理由がハードSF的に説明されていた。「青い星まで飛んでいけ」は、人類に起源をもつソフトウェア知性たちが遙かな時間と空間を越えてどんどん変化していく話なのだが、他の異星知性を取り込んでいっても、その意識は基本的に現代人と変わらず、やたらと饒舌である。同じ短編集収録の「静寂に満ちていく潮」(二〇〇七年/〈SFJapan〉掲載)はファースト・コンタクトものだが、ここでは何と人間と異星人との究極のコミュニケーションとしての交接が、説得力をもって描かれている。
直接的・間接的に人間が関わるとき、例え相手がエイリアンであっても、そこには共感が生まれる。文化的遺伝子(ミーム)は肉体的遺伝子(ジーン)を乗り越える。ちょうど、コンピュータのハードやOSが違っていても、その上で同じアプリケーションが動作するように。
それを、人間である読者に異質な思考を〈翻訳(コンパイル)〉して伝えているのだといってもいいだろう。いいや、もうそんな言い訳は不要だ。〈ソラリス問題〉は形を変え、新たな解が示された。そして何より、この方がずっと面白いのだ。小川一水はそれを自らの作品でもって力強く主張しているのである。
2011年11月