人間以外 人間の登場しないSFアンソロジー
大野万紀 編
早川書房「SFマガジン」02年5月号掲載
2002年5月1日発行
その昔、「SFは人間が描けていないからだめだ」という主張に対して、「SFは人間を描く必要なんかないんだ」と答えるというお決まりのパターンがあった(あくまでもレトリックとしてですよ)。実際、人類の滅びた遙かな遠未来を扱った小説や、異星人やロボット、あるいは恐竜やイルカといった人類以外の知性を描く小説はSFには数多くあり、それをもってSFの特質の一つと考えることもできる。もちろん厳しく見れば、視点は違ってもそこにはまぎれもない擬人化があり、厳密な意味で「人間を描いていない」SFといったら、おそらくほとんど皆無といっても過言ではないだろう。
とはいっても、普通はそこまで厳密に考えず、日常の現実からまったくかけ離れ、遙か時間や空間を越えた世界で、姿形や思考方法がわれわれから異なってしまった人類の遠い末裔や、人類を引き継いだ機械の知性たち、異星の大地や宇宙空間で暮らすエーリアンたちのことを描いたSFは、「人間の登場しないSF」と呼んでもいいんじゃないだろうか。そしてそういうSFは、やはりSFというものの本質的な魅力を純粋な形で保持しているものだと思うのだ。
というわけで、ぼくが選んだのはそういう「人間の登場しないSF」である。実は形を変えて登場していたり、ちらりと姿を見せたりというものもあるのだが、そこは選者の特権でテーマを大きく逸脱しない限りはOKとした。ここでテーマとは、われわれ普通の人類との隔たり(必ずしも異質さとは限らない)を、時間的空間的な距離感をいかに感じさせてくれるかというあたりにおいた。だから、例えばアシモフの「夜来る」には、人類は一人も出てこないのだが、この隔たりの感覚が希薄なので対象外とした。またある種のロマン(人類が滅びた後の遠い未来や遙かな宇宙の彼方への憧れ)の要素も重視した。それもまたセンス・オブ・ワンダーの大切な一要素なのだから。
思いつくままに選んだので、重要な作品がぽかんと抜けているかも知れない(歳のせいか、最近は物忘れが激しいんですよ)。またあれは入れなければと思っても現物がすぐに出てこなかったりして見送った作品もある。まあ、あーだこーだと悩んでいる時こそがアンソロジー編者の至福の時であるわけで、この結果もベストではないけど悪くはないんじゃないかと思っているわけです。
まずは、人類が姿を消した遠い未来の情景から。オールディス「賛美歌百番」(1960)はバルキテリウムとメガテリウム、音楽塔、熊といった魅力的な題材が「よろずのいきもの、よろこびたたえよ――」というテーマに沿って静かに幻想的に描かれている。『地球の長い午後』でもそうだが、オールディスの描く遠い未来は生き物たちに満ち、とても美しい。そしてゼラズニイ「フロストとベータ」(1966)。こちらは地球を支配する二つの機械とそのロボットたちによる人間の再発見、そして新たなる創世神話の物語である。これも大好きな作品だ。ゼラズニイの最もゼラズニイらしい作品だともいえるだろう。
つづいて、人間の意志を継ぎながら、時間と空間を遙かに超えて進み続ける恒星間探査機の物語、イングリスの「夜のオデッセイ」(1965)である。実は人間の出てこないSFというテーマを考えた時、最初に思いついたのがこの作品だった(もう一つ、よく似たテーマでオールディスに「T」という作品があるのだが、古いSFマガジンに掲載されていて、締切までに発掘することができなかった)。勤めを果たし太陽系の遙か彼方へ去っていったボイジャー探査機たちにけなげさやロマンを感じることのできる人なら、この作品のもつ壮大なビジョンに圧倒されることだろう。
次のパートは、もはや人間とはいえない姿になりながら、人類を継ぐものたちの物語である。ブリッシュ「表面張力」(1952)はこの分野の最初期の作品であるが、水中の微生物となって生き延びる人間たち、「生めよ増えよ地に満ちよ」という生物の絶対的な本能の残酷さと崇高さを描いて、今読んでも充分読みごたえのある作品だ。フィリポ「系統発生」(1989)はその現代版といえる。最新のバイオテクノロジーの知識をもとに、なんとウイルスとなって生き続け、繁殖していく人類の物語。そして、ベア「鏖戦」(1982)。ちょっと枚数的に長いのだが、遙かな未来の、人類ではなくなってしまった人類による超スケールの戦いを描くこの物語は、やはり本アンソロジーにどうしても収録しておきたい作品である。
今度は異星人による異星人のための物語。ティプトリー「愛はさだめ、さだめは死」(1973)では異星の生物の生態がその生物自身によって語られる。何とも力わざな傑作である。ベイリー「洞察鏡奇譚」(1973)はまた毛色が違い、宇宙そのものが違う法則で出来ている世界に住む知的生物の物語。メチャクチャな話といえないこともないが、これまた立派なSFに違いない。
ベイリーのとんでもない宇宙からのつながりで、もっと寓話的、ファンタジー的な小品を2篇。重たい話が続くと、こういう作品で息抜きをしたくなる。レム「星雲が逃げ出すにいたったいきさつ」は『ロボット物語』(1964)の一編、カルヴィーノ「宇宙にしるしを」は『レ・コスミコミケ』(1965)の一編である。いずれも宇宙論的な物語をロボット(?)や謎のおじさん(?)が語るというお話。
ラスト、ブラッドベリの「百万年ピクニック」(1946)はまあ反則でしょう。テーマと違っているじゃないかとのお叱りはごもっとも。でも「人間が出てこないSF」をこの作品でしめくくるというのも、アンソロジーの趣向としてありじゃないかと思ったもので。
2002年3月