内 輪 第416回
大野万紀
もう何年も本当に発売されるのかと噂になっていた国書刊行会『伊藤典夫評論集成』が本当に発売されました!
とにかく見た目がインパクト抜群。広辞苑というか、まさに大判の辞書の作りです。誰かがモノリスみたいと書いていましたが、そう呼ばれるのも無理はない。このモノリスを囲んで触っていると、SFサルたちも立派なSFマニアに進化できるのかも。
まだチラチラ見ているだけでちゃんと読んではいない(読み出したら止まらなくなって何もできなくなるような気がする)のですが、チラ見だけでも面白い。というか、ぼくも若かったあの時代を思い起こしてしまいます。
食い入るように読んだ「SFスキャナー」や「ワールドコンレポート」の面白かったこと。安田均さんや神大SF研の仲間といっしょに初めて伊藤さんのマンションを訪問したときのこと。そして伊藤さん浅倉さんの監修でSFマガジンに「SFエンサイクロペディア」の翻訳を回り持ちで連載したときのこと。何度か書いていますが、この時の浅倉さんが、間違いや不明確な箇所を的確に指摘して丁寧にご指導くださったのに対し、伊藤さんはこれは違うとゲラを真っ赤にしてほとんど伊藤訳に書き換えてしまった(それがとても勉強になりました)という、その対照的なこだわり方が強く印象に残っています。
昔の水鏡子は今では考えられないほど戦闘的で(面前罵倒人間という別名もあった)、(紙の)THATTAにもひどく刺激的な文章を書いていました。それに対する反論を伊藤さんが書き(それが本書にも収録されています)、さらに水鏡子がそれへの再反論を大森望さんのファンジン「新少年」に書いた(今読むとほとんど反論になっていないように思えますが)ものまで本書の別冊として収録されています。すごいとしか言いようがない。
水鏡子は本書を読んで伊藤さんのSF観について新たな説を思いついたと言います。「みだれめも」に書くと言っているので期待しましょう。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
2024年4月に出た著者の第二短編集。書き下ろしを含む5編が収録されており、書き下ろし以外は東京創元社の書籍(WEB版を含む)が初出である。
表題作「感傷ファンタスマゴリィ」が本書の書き下ろし。19世紀末のパリを舞台に、幽霊幻燈機(ファンタスコープ)によって死者の霊を蘇らせるという技師ノアの物語。ノアは本当に幽霊を呼び出すのではなく、生前の死者の生き方を追い、その心に寄り添い、自分自身が故人そのものとなるほどの強い共感をもって、その像を幻燈機のフィルムであるガラス板に刻み込む職人なのである。投じられる映像はほとんど死者が生き返ったかのようだ。
今度の仕事は森の中のお屋敷に暮らすマルグリットという娘。父親の財産を継いで広い屋敷に妹と二人で暮らしていたが、その妹シャルレーヌが亡くなって5年がたち、彼女をノアの幽霊幻燈機で蘇らせてほしいというのだ。その屋敷はやたらと鏡が多い、奇妙な屋敷だった。シャルレーヌの面影を追って屋敷で過ごしながら、ノアは次第に彼女への深い共感に陥っていく……。
ルビを振った漢字の多い文章が続き、科学技術の時代が始まろうとするその当時の雰囲気と謎めいた姉妹の様子を描いていくのだが、ノアと姉妹の奇怪な関係性がやたらともつれているので、こんがらかりそうになる。人への共感とは、そして自意識・自分とは何かとテーマが深まっていくのだが、この雰囲気の中ではそれがSFというよりオカルティックなホラーのように読める。19世紀末というのはそんな科学とオカルトが渾然とした時代だったのだろう。
「さよならも言えない」は『GENESIS この光が落ちないように』に収録された作品。本格SFだ。それも異星を舞台にした衣装SFである。衣装SFといえば『カエアンの聖衣』を思い起こすが、ここでも衣装が外見のみならず人の内面と一体化したものとして描かれる。
この作品で衣装は――さらにはその時々に応じたコーディネートや化粧、仕草、振る舞いなどを含めたトータルな身だしなみとして――その人の内面を映し出すものであり、社会的に最重要なパラメータとして数値化されているのだ。
舞台となる星系アマテラスには系統の違う人類がそれぞれの惑星に入植し、異なる進化を遂げて、首の長い種族、四本腕の種族などに分かれて暮らし、互いに戦争もしていたが、今は平和に共存している。そのため外見というのも単なる見た目ではなく、持って生まれた多様な姿や経済的な格差を技術によって無効化し、好き嫌いやセンスといった個人の感覚ではない、拡張現実内で日々更新される総合的なスコアによって判断されるようになっているのだ。
主人公はその服飾文化の中心にある〈服飾局〉に勤務するミドリ。彼女はこの哲学の推進者の一員であり、そのことに何の疑いも持っていなかったが、ある時、クラブで踊っている人々の中にいたスコアが0という少女ジェリーと出会う。彼女は低いスコアに何の関心もなく、着ている服も自分の趣味だけで選んでいたのだ。社会性皆無なのに、自分が自分であることに誇りを持ち、それに徹底している。自分が良いと思えば誰にも理解されなくてもいいのだと。ミドリはそんな彼女が気になって何度も話をするうち、次第に考え方も生き方も変わっていく……。
結末はとても苦い。現実の世界にも関わる重いテーマが心に残る。
「4W/Working With Wounded Women」は長い中編。
素粒子のペアが距離を無視して状態を伝え合うという量子もつれに着想を得たのだろうが、ここでは〈冥婚相手(フィアンセ)〉と呼ばれる強制的にペアとされた二人一組の人間がいる世界が描かれる。
〈冥婚相手〉の一方の肉体的な傷と苦痛をもう一方の相手に送る〈転瑕(てんか)〉というSF的なガジェットがあり、この作品はそれをベースに苦痛と暴力と分断をテーマとしたディストピア小説となっている。
舞台は近未来のアジア(?)にある上層と下層にはっきりと分かれた都市。上層に暮らす人々は肉体に傷を負っても下層にいる彼らのペアに〈転瑕〉することで苦痛も無く無傷なままでいられる。主人公はその下層に暮らす女性。物語は彼女と同棲している妊娠中の女性や、現在の恋人である女性との関係を中心に描かれるが、上層から来た怪しげな男の登場により、その後の展開は大きく変わっていく……。
斜線堂有紀の「痛妃婚姻譚(つうひこんいんたん)」と同じようなモチーフを扱っているが、こちらは個人の感情よりも社会的なシステムに視点が向かっている。ブレードランナーのロサンゼルスみたいな下層世界の描写が雰囲気があっていい。
ラストは雰囲気が変わり、社会的な側面が中心となってくるが、体制側である当局の姿が見えない点で世界観がわかりにくく、ちょっと不十分に思えた。
「終景累ヶ辻(しゅうけいかさねがつじ)」はオリジナルアンソロジー『時を歩く』に収録された作品。初代三遊亭圓朝の古典落語をモチーフにした幻想的な物語である。番町皿屋敷や四谷怪談といった古典的怪談のイメージもそこに重なっている。いずれも非業の死を遂げた女たちの物語だ。
恨みを抱いて死んだ霊は、幽霊の辻という三つ辻でその行き先を選ぶことになるというのだが……。幽霊が行った選択により時間線が分岐し、少しずつ終景の違う物語が繰返し繰返し百年の後までも反復される。人を変え相手を変え、男に殺されていく哀しい女の物語。しかしどれも同じように苦しくて辛い、そして深い情念に満ちた物語なのだ。その物語の重ね合わせ。
古典の雰囲気を生かしながら、SF的想像力を背景に重ねて、美しく情緒に溢れた語り口で描いた作品である。以前読んだ時に「重畳現象」というダジャレを思いついたが、そんな話じゃないので念のため。
「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」は現代のSNSにおいて顕著な(いやトランプのアメリカでは現実となったかも知れない)ミソジニーやネトウヨ的な言動がVR空間での魔女狩りに発展した世界を描き、それへの対応を語る物語である。
タイトルのマレフィキウムとは、呪文やまじないなどの超自然的な方法によって人々に危害を加えることであり、ウィッチクラフト(魔女のおこなう呪術など)と「≠」で繋がっていることで、魔女というものが必ずしも危害を加える悪の存在ではないことを主張しているのだろう。
この作品で「魔女」というのはVR空間で人々に気づきを与え、この社会に存在する不公正をただしていこうとするフェミニズム的な視点の発言者たち、活動家たちである。必ずしも女性とは限らないが、VR上では〈現代の魔女〉としてアバターをまとい緩やかに結束している。そんな魔女たちに対抗し過激な魔女狩りを行うグループ〈騎士団〉があり、男性中心主義でマッチョなアバターを持つ彼らは、魔女の個人情報を暴き、VRをハックして魔女(のアバター)をまるで中世の凄惨な魔女狩りそのもののように傷つけ破壊するのだ。
物語はそんな現代魔女の中でも守護神的で特別な存在である〈魔女達の魔女〉を語り手に、曰くありげな年老いた魔女が彼女を訪れるエピソードから始まり、彼女が(VR上で)男性記者の取材を受け、この世界のありさまについて語っていくストーリーと、実生活では冴えない男であるジョンが〈騎士団〉に加わって、仲間と過激な活動を続ける中でふと疑問を持つようになるストーリーとが交互に語られる。
それが一つに重なる時、SF的でもあり神話的でもある驚きが広がり、そうあってほしいという夢のような希望が密やかに紡がれるのだ。リアル世界での絶望感が大きいだけに、そこにはほんのりとであっても癒されるものがある。
2024年12月に出た短編集。7編と「自作解説」が収録されている。7編は大部分がアンソロジー『異形コレクション』に載ったものである。
「禍 または2010年代の恐怖映画」はホラー映画の撮影中に実際に怪現象が起こるというありがちな話だが、その映画の編集作業をしている主人公が動画の中にあり得ないものを発見し、監督に相談するがそのまま生かそうとなるところからの展開が怖い。デジタル撮影やSNSといった現代的なモチーフが入っていて面白かった。
「ゾンビと間違える」はゾンビテーマ。ゾンビ禍が世界に広がるが、頭を潰せばゾンビは死体に戻るとわかり、沈静する。しかし、臭くて話が通じないのをゾンビの特徴だとして、障害者や認知症の老人、ホームレスなどを「ゾンビと間違えた」ことにして殺害することが暗黙に認められ、致命的な差別が横行することになる。
主人公である僕の幼なじみ美雪は年の離れた兄を「ゾンビと間違えて」ほしいと言う。引きこもりになり、風呂に入らず悪臭を放ち、両親や美雪に暴力をふるうのだ。父が認知症の老人を会社の部下を引き連れて「ゾンビと間違えて」殺害するのに立ち会った僕は、美雪が兄に襲われているのを目にして助けに入るが美雪も重症を負う。そして入院先の病院で……。
ゾンビの暴力がある種のカタルシスをもたらすと自作解説にもあるが、そこには確かに弱者の反撃という側面もあるように思えた。
「縊 または或るバスツアーにまつわる五つの怪談」では市井の怪談を収集してネットに載せている人物に、あるアイドルのバスツアーに関わる怪談話がいくつも舞い込んでくる。どれもそのアイドルが死んでいたり、首を括られて殺されていたところを見たのだが、その後で何ごともなかったかのようにツアーで普通にふるまっていたというもの。夢にしては共通点が多く、だがそれぞれに微妙な差異がある。そこに一般人から見てアイドルおたくたちの独特の異常性と思えるものもからんで、異様で不気味な雰囲気のある作品となっている。
「頭の大きな毛のないコウモリ」は吸血鬼テーマだが、保育園の育児ノートという保育士と母親の連絡帳形式で話が進む。
母子家庭の母親が1歳になる前の一人息子を保育園に預けているのだが、離乳期が近づいて色々と問題が起こる。文章だけ見ると母親が不安気なのに対し、保育士の側は母親を優しく安心させるように、力づけるように接している。だが息子が園児の一人に噛み付かれたことから、母親はこの保育園の姿を見せない設立者がかつて外国で「頭の大きな毛のないコウモリ」に噛まれて吸血鬼になったという妄想(?)を抱くようになる。仕事と育児に疲れた彼女の妄想なのか。それとも彼女の息子は本当に吸血鬼になってしまったのか。保育士はそれでも彼女を心配し、安心させるような文章を書くのだが、ついに……。
育児ノートのやりとりにはリアリティがあり、色々と問題のある家庭やその子どもを預かる保育士も大変だとは思うが、こんなことが現実にあったら途方に暮れてしまうだろう。結末はいかにも怪しげだが、それが事実かどうかはわからないのだ。
「貍 または怪談という名の作り話」は作者の従兄という男性が語る(騙る)怪談話。
小学校の頃、いじめにあっているN少年(野比のび太)がいて従兄は特に仲良くしているわけではないが気になっていた。彼をいじめていたのはG(剛田武=ジャイアン)、その腰巾着のH(骨川スネ夫)。いじめてはいないがGが好きな女子M(源しずか)もいる。そしてNの家の押し入れには机の引き出しから出てきた貍(ヤマネコ)の化け物、ビーリィがいる。青と白の毛を生やした手足の短いバケモンだ。
Nはビーリィに自分の肉を与え、M、H、そしてGまで殺戮する。あのマンガをパロディにした作り話としか思えないが、従兄は大真面目であのアニメの看板を見る度に奇妙な感じを抱くのだという。自作解説では「創作だから怖い」は可能か? という試みとのことだ。怖いというか、いかにも不気味な話である。従兄の創作だとしたら、従兄は何を考えてこんな話をしたのだろうか。
「くるまのうた」も都市伝説を題材にしたように見えて一ひねり加わっている作品。
昼下がりの住宅地にやって来る物売りの車。間延びし抑揚のついたその宣伝文句が、もしいつもと違う調子であったなら悪いことが起こる……と地域の子どもたちの間に広がっている都市伝説。主人公の作家が以前勤めていた会社の同僚がそんな移動販売車にからむ都市伝説をいくつも集めていて原稿にしていた。それを雑誌に持ち込んでもらえないかと頼まれ、編集部に話をすると前向きな返事があり、作家は彼の家を訪れて話をはずませるのだが……。
ふと雰囲気が変わり物語のトーンが一変する。黄昏の街に流れる怪しげで切れ切れなスピーカー音。街は突然の衰退に覆われたようであらゆるものが陰り、寂れ、衰えていく。ブラッドベリを思わせるこの終わりの雰囲気が好きだ。
「鬼または終わりの始まりの物語」。自作解説で「テッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」を伴奏に、昔話「桃太郎」をボーカルに見立て」て書いたとあり、「「あなたの~」から短い一文をまるごと借用」したともあるが、読み返していないのでどこかはわからなかった。ただ母親が子どもに語りかけるという語り口はまさに「あなたの人生の物語」である。
母親が語るのはまず子どもの父の物語。オカルト雑誌の編集部に勤務していた彼は、編集部に送られてきたハガキの謎の点描のようなイラストが小さな文字から出来ていることに気づき、それを読んで先輩と二人でその住所を訪れる。そこには20年以上引きこもったままだという男が母親と二人で住んでいた。彼は明らかに何らかの知的障害があるようだったが、書かれていた文章はたくさんの書物の引用とデータを根拠に、雑誌に掲載されたオカルト事件の全容を知的論理的に解明するものだったのだ。彼はサヴァン症候群的な天才だったのかも知れない。
「あなたの」父である昌は、先輩が持参していたお菓子がきっかけで、彼、圭太郎とその後もつき合うようになる。古手のライターでオカルト業界での有名人でありテレビに出ては毒舌を吐く男の講演会があり、昌はそれに呼ばれていた。編集部に勝手に上がり込んでは好き勝手をする彼にいつも辟易していた昌だが、断ると何をされるかわからない。イヤだなあと思い、圭太郎の前で「一回ひどい目にあわないかなあ」と愚痴ってしまう。そのイベントで事件が起こる。
その場にいたのが「わたし」つまり「あなた」の母であり、そこで昌と出会い結婚することになった女性なのだ。だが事件の後、圭太郎に異変が起こる……。
母親から聞いた圭太郎が生まれたときの様子、そしてここで物語は桃太郎と接続するのだ。何とまあ。結末はいきなり話が大きくなるので驚くが、物語はとても面白かった。
「自作解説」についてはどう書いてもネタバレになってしまう。若いころはこういうのも色々と考えてネタバレにならないように工夫していたものだが、もうそんな気力はありません。素直な気持ちで読んで、ギャッといってください。
ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作で、団地ホラー×ギリシャ神話×SF大作とある。その選評もついている。大森望が〈本の雑誌〉で今回の受賞作の中では一番面白かったと書いていた。
前半は確かに都市伝説的で日常的な団地ホラー。団地といっても郊外の寂れた団地じゃなくて東京都心部にある古い団地。女優を目指しているが売れない主人公の女性が大学の映研に属してカメラマンをする青年(オカルトには全く興味がなく信じてもいない)と二人で、怪奇現象が起こるという団地に入り込み、ドキュメンタリーを撮影することになる。思わせぶりな謎が次々と現れ、蛇男とか明らかな怪現象もあって飽きさせない。よく出来た現代ホラーだ。
後半はそれが一転し、個人の呪いや恨みといったものを越えた全くの神話的世界に入り込む。カメラマンの青年は退場し(その先輩である男性は主人公たちとは別ルートで関わってくる)、新たに主人公のバディとなるのは団地のファミレスでバイトをしていた謎めいた若い女性である。彼女は知識も豊富、ノートパソコンを使って怪異にもひるまず戦うまさにスーパーヒロインだ。
物語はアストラル界をディラックの海と読み替え、クトゥルー神話をギリシア神話で置き換えたようなコズミックホラーとなる。このようにいえばそういうものかと思うが、精神の外部記憶装置とかクライアント・サーバーとかIT技術で説明するところがとても現代的といえるだろう。アイデアはとても面白いのだからもっと書き方を工夫すれば後半も読み応えある(例えば小林泰三的な)SFホラーになったと思う。でもこの書き方ではごく表面的な挙動しか描かれないのでB級映画的なアクションシーンにしか見えないのが惜しい。エンターテインメントとしてはそれでも悪くはないのだが……。
ノートパソコンで異界をコントロールしようなんて、ちょっとイーガン的な雰囲気もあるし、面白かったけれど、何でギリシア神話? という疑問には結局はっきりした答えは得られなかった。とりわけギリシア神話の神々が登場し、生命と精神の意味を神話的・宇宙的な広がりをもって語るというのに、舞台が団地とその地下世界だけというスケール感のアンバランスさが気になった。またタイトルの意味が明らかになる結末についても選者が指摘しているような弱点がある。小泉八雲の蘊蓄と描き方が中途半端で、伝奇ロマンにはなり損ねている。
とにかくバディとなるスーパーヒロインの魅力とかっこよさに対して主人公のショボさはエンターテイメントとして致命的。もし続編が書かれるなら何とか改善してほしい。今度は別の町にアステカの神々が現れるとか、背景の宇宙観からはいくらでも派生できるだろう(それじゃあFGOになっちゃうか)。
別にダメ主人公でもかまわないのだが、それならそれでどこか人間的な魅力がほしいと思った。基本的な筆力はある作者のようなので、リアルさよりも設定とアクションの面白さで読ませるSFエンターテインメントを目指すか、もっと小ネタを盛り込んだおどろおどろしい伝奇ロマンを目指すか、それとも全然別なものか、作者には様々な方向性が期待できると思う。