続・サンタロガ・バリア  (第270回)
津田文夫


 クラシック好きの知人に、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」とブラームスのピアノ協奏曲第1番のプログラムだから広響を聴きに行こうと誘われて行ってみた。指揮はアルミンク、ピアノは聴いたことのないロシア系若手ピアニスト。
 演奏会場でプログラムを貰ったら、450回目の定期演奏会だった。当方が初めて広島交響楽団を聴いたのは高校生か浪人生の頃。当時の定期演奏会はまだ30回にも達していなかった。広響はプロ化したばかりだったかな。聴いたのは渡邊暁雄指揮で息子の康雄がピアノでグリーグの協奏曲だったような記憶があるが、ググってもいつの演奏会か出てこない。定演ではなかったのかも。今でもハッキリ覚えているのは旧広島市公会堂のロビーにハープを買うための募金箱があったこと。目標額は30万円だったと思う。なんでこんなことが記憶に残っているのかなあ。
 演奏会のオープニングは、リーム「オーケストラのための「厳粛な歌」」。1997年に作曲された現代音楽。もちろん初めて聴く曲だ。リームといえばノーノとともに西洋古典音楽としての現代音楽を作っていたヒトというイメージが強いけれど、当方もよくは知らない。パンフの解説によれば、フィラデルフィアを振っていたサヴァリッシュがブラームス没後100年に因んだ曲を要望したと云うことで、ブラームス晩年の歌曲「四つの厳粛な歌」からタイトルを取ったらしい。ブラームスは大好きだけど、歌曲はあまり聴かないのですぐには曲想が思い浮かばない。ステージには左側にクラリネットにホルンといった管楽器が少数、右側がヴィオラ以下低音の弦楽器群。曲調はなんとなくレクイエムな感じだったけれど、十数分の曲だった。
 「シンフォニエッタ」といえば、この曲のテーマであるファンファーレにEL&Pのレイクが歌詞を付けて「ナイフ・エッジ」としてデビューアルバムに収録、ライヴでも必ず演奏していたモノ。当方は高校生の頃に「ナイフ・エッジ」を聴いた後で、原曲があることを知った。
 アルミンクはヤナーチェク・フィルの常任だったこともあって「シンフォニエッタ」はお手のモノ。広響に助っ人のトランペットを多数並べて大迫力だった。たぶんこっちの方がメインプログラムだったか。
ブラームスは50分もある曲なので、休憩のあとのメインプログラム扱い。ルーカス・ゲニューシャスという30代の髭もじゃピアニストは、いまどきのピアニストとしてクリーンな響きを大事にしたあまり大げささのないスタイル。昔はギレリス/ヨッフム/ベルリンフィルのレコードを愛聴していたので、その頃の演奏からするとクリアだけれど情動的な煽りがなくてやや物足りない感じはする。大曲なのでアンコールはなし。
 21世紀になってからの広響は本当に上手いオーケストラになった。これは秋山和慶・下野竜也というオーケストラトレーナーの力量を証明しているんだろうな。

 『SFマガジン』をはじめ、既にアチラコチラの新聞雑誌等で書評が上がっている(いち早く読んだのは岡本俊弥さんの評)、村田沙耶香『世界99』上・下をようやく読み終わった。岡本さんの書評を読んで読んでみるかと思ったものの、実際に読み始めるとなかなか読み進められなくて3週間近く抱えていた。なお、村田沙耶香の長編作品を読むのはこれが初めて。
「小さな分裂を繰り返しながら、私は生きている」というのが、第1章冒頭「10歳」と大きな活字が置かれたあとに始まる最初の一文である。
この、とても小学生とは思えない言葉遣いの冒頭からは、これが回想記らしいことは判断が付いたものの、ではどの時点からの回想かということがまったく分からず、これは「語り手」自体がホラーそのものではないかと見当された。まったくブレのない「私」の「語り」は読むのがしんどく、常に「仕掛け」がちらついて、もしかしてこの「語り手」は人間じゃないのかも(アップロード人格?)、とまで思いながら読んでいた。
そう思わせたもうひとつの要因は、この世界には犬猫のペットがおらず、代わりに「ピョコルン」を呼ばれる毛むくじゃらな生物が飼われていて、後半になると「ピョコルン」による「セックス革命」が起きて、人間の子供は「ピョコルン」が生むようになってしまう設定があるからだ。すなわちこの世界は意識してSFとして作られているのである。
 このSF設定にさらにヒネリを加えているのが、人間には通常人と「ラロロリン・キャリア」と呼ばれる形質をもつ者(「スラン」や「ガンダム」の「新人類」系)がいることが判明するという設定。「優秀」な「ラロロリン」人は最初のうちは迫害される。しかし物語後半では「ラロロリン・キャリア」は頭脳明晰で裕福になるタイプであり人類に奉仕する「幸福な人」呼ばわりされるようになる。
 上巻だけで400ページ余りあるが、1章と2章しかなく、順を追って増えていく年齢が「節」代わりになっている。そして謎のタイトル「世界99」の意味は、この第2章の方で明らかにされる。すなわち、過剰適応タイプとしての「語り手」が、付き合う相手若しくは集団が見せる世界に対して「世界1」「世界2」・・・と名づけていることから、「語り手」が自分と同じタイプの年下の女性に出会って、順応する必要性がほぼ無いコミュニケーション・ワールドを発見、それを「世界99」と呼ぶようになる。
 この小説のSFとしての感想を先に述べてしまうと、SFのつくりとしては非常にオーソドックスで、ある意味思考実験SFとしての典型でさえあるかも知れない。その意味でこれは「文学」というより「思考実験レポート」に近い印象をもたらすスタイルだ。いわく「フィクションのためのフィクション」。
 ということで、この「世界」は狭い。なんと云っても「語り手」の「空子」が自分で云っているように「頭が悪い」ので、普通ならあるべき情報が視野に入らない。そのうえ、この「フィクションの日本」は「実験」のために「現実」にあるさまざまな夾雑物を取り除いてある。作品のテーマ自体は一種の「フェミニズム」的なモノだけれど、それは作者の「世界」に対する違和感を一度抽象化してSFとして物語が組み立てられているので、たとえば前回取りあげた「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」のような作者とアフガニスタンの関係のような直接性は回避されており、ある種の「純粋な思考実験=フィクションそのもの」といった印象をもたらす。
 この作品のSFとしての設定は、下巻の大部分を占める第3章の後半に入って、245245ページから250ページにかけての、「世界99」友達の若い「ラロロリン人」女性の提案によってあからさまに説明されている。それを読んで当方はようやく「語り手」の不気味さがら解放され、これが「ただのSF」だったことに気づいて、安心して読み進めることが出来るようになった。
 なので、たった6ページしかない第4章と題されたエピローグで年齢の表示と「私」の存在の仕掛けに「そっちだったか」という感想が湧いたのも当然だった。ただし、この「物語宇宙」の中心にあったはずの「子宮」と「世界99」がどうなったのかは不明だ(この「4章」が「答え」だというヒトもいるかも知れないが)。
「語り」の内容自体はいわゆる「子宮/女性性/権力構造」への違和感をめぐるフェミニズム系とも云えるので、昭和の生まれのジイサンである当方には共感できるところはほぼないのだけれど、この「語り」の不気味さと本格的SF設定だけで充分興味は持続していた。
 またフェミニズムとはズレた当方の視点からは、ほとんど誰に対しても(中学生の自分をレイプする塾講師のアルバイト大学生を含め)「そういうものか」という観察とともにあらゆることを受け入れる「語り手」が唯一、冒頭の「10歳」で出会って「仲良くなる」同級生の女子「白藤さん」にだけは、その後成長していくあいだずっと、果ては下巻の最後まで、「正義にこびている」と批判の言葉を浴びせているのが引っかかった。特に下巻では一貫して「かわいそうな人」の代表扱いで、「語り手」がその認識を変えることがない。しかし、当方が感じたのは、この「白藤さん」こそ読者のいる「抽象化されない現実」と地続きなキャラクターなんじゃないかとということだった。そしてそれは短い「第4章」で明らかになる仕掛けをどう考えるかによるけれど。
 この作品は「SF」の部分だけを取り出せばオーソドックスそのものだ。でも「子宮」についてはサッパリ分からないので、「子宮摘出」と「卵巣温存」についてググってしまったよ。
 またSFとしてこの作品の内容を考えている内に思い浮かんだのが、アップロードされた世界の(「人格」だけの再現ではない)「人間」たちは「こんなこと」で悩む世界から解放されて、それでもまだ「人間」なんだろうか。これは「人類」が「幼年期の終わり」迎える準備なのかなあ、ということだった。
 あと、作中「ウエガイコク」と「シタガイコク」がよく出てくるのだけれど、2025年の「トランプ時代」では、日本人にとって、欧米が「ウエ」だったり、中国・韓国に東南アジア諸国が「シタ」だったりするイメージはもはや壊れつつあると思える。
 もうひとつ付け加えると、「ピョコルン」が作中でいくら「美しい」と書いてあっても、当方の頭に浮かぶイメージは「ガチャピンとムック」だったので、これにはちょっと困った。
 でもよく考えると「語り手」の名が「空子」で「ピョコルン」に「ラロロリン人」だもんなあ。表面の物語を真に受けてはならないと云う作者の配慮かも。

 あれこれ考えていたらもの凄く長い感想文になった。以下は簡単に触れるだけにしておこう。

 『世界99』は3月刊だったけれど、柴田勝家『秘曲金色姫』も同月刊。
 Vチューバーの女に男が襲いかかる映像を見て彼女を助けに行った視聴者が、彼女が殺した男を一緒に棄てに行くというエピソードが「鼠浄土」と題されて、秀吉の時代につくられその後失われたという能曲「金色姫」をめぐる5編の連作の各篇の前に、コマ切れにされて置かれている。連作の方はいわゆる伝奇小説になっていて、最終的に「鼠浄土」と結びつく。
 冒頭の1編が昭和時代の中間小説誌に掲載されたエンターテインメントの雰囲気を髣髴とさせてちょっと不思議な感じがある。
最近好調な作者だけれど、この作品は構成にやや迷いがあるように見える。

 かなり昔にハヤカワSFシリーズJコレの前作を読んで今ひとつピンと来なかった作家だけど、若いヒトには評価する人が多い矢部嵩『未来図と蜘蛛の巣』を読んでみた。これも3月刊。
 内扉を開けるといきなりノンタイトルで文章が始まって、映画の待ち合わせに遅れる話がわずか数ページで終わっていて、なんじゃいこれはと思わず巻末初出を見ると、「tree」というたぶんweb誌と思われるところで発表された掌編が、書き下ろしも含め20以上並んでいた。
 当方にはこれらの掌編群はピンと来ないけれど、たとえば斜線堂有紀の掌編集に似ているかも知れない。集中1作だけ「エンタ」という中篇が入っていて、これは女子プロレスを思わせる過激な身体改造格闘家が大勢出てきて、それぞれの闘いと想いが描かれ、その「エンタ」興業自体が斜陽産業になりつつあることが明かされるというもの。もしかしたら「エモい」のかも。
 なお全部読み終わって奥付ページをめくったら、冒頭の掌編の続きが2行置いてあった。

 上田早夕里『成層圏の墓標』は久しぶりの短編集。ただし、10編の内6編がここ数年に〈異形コレクション〉掲載作で、すべて再読。またハヤカワ文庫SFから出たアンソロジー『地球へのSF』掲載作も再読なので、初めて読むのは3編だけ。
 中国語日本訳されて「科幻春晩(春節SF祭り)」で掲載されたのが初出という「龍たちの裔、星を呑む」はノンストップ・スケールエスカレーションの御祝い気分に溢れた1作。これまでも日本人SF作家が中国で出された「春節」SFアンソロジーに作品を提供していたけれど、御祝い気分は共通しているような気がする。
 書き下ろし2編の内、「天窓」は、上空に発生する異変が一種のワームホールのような機能を持っているかのよう描かれるが、それが正しいかは最後まで明らかにされないまま僅かな希望を抱かせたまま終わる現代的なSF。春節祝い作品の浮かれ気分と正反対の鎮静した気分が味わえる。
 書き下ろしのもう1編「南洋の河太郎」は、戦前に南洋パラオに設置された海洋生物研究所を舞台にした中篇。戦時上海三部作を書いた著者の最近の興味が那辺にあるかよく分かる。この作品に関しては著者あとがきにその執筆経緯が書かれている。
 話の方はタイトルからも分かるとおり、主人公を含む研究者達が現地の少年を介して河童に似た存在をパラオの海で発見するというもの。第1次大戦後に国連によりドイツから日本へと委任統治され、わずか四半世紀の内に皇国化政策で日本語しゃべるようになった島民達の姿を描きつつ太平洋戦争開戦と共に物語は結末を迎える。読んでいるとなんとなく中島敦の南洋文学を思い出す。

 倪雪婷(ニー・シュエティン)編『宇宙墓碑』は、ロンドン大学で英文学を学んだ英国在住中国人の編者が中国語の短篇SFを選んで英訳して出した英文アンソロジーを、わざわざ中国語の原文から訳したという変わりダネ。なので夏笳(シアジア)の序文と編者の書いたものはすべて英語から訳されている(鳴庭真人訳)けれど、収録作10編は中国語訳者数人が手分けして訳している。既に岡本俊弥さんのHPで全作の簡単な内容紹介があるので、収録作品名だけ書いておこう。

顧適(グー・シー)「最後のアーカイブ」
韓松(ハン・ソン)「宇宙墓碑」 
念語(ニエン・ユー)「九死一生」 
王普康(ワン・ジンカン)「アダムの回帰」 
糖匪(タン・フェイ)「博物館の心」 
馬伯庸(マー・ポーヨン)「大衝運」 
呉霜(アンナ・ウー)「真珠の首飾りの少女」 
阿缺(アーチェ)「彼岸花」 
宝樹(パオシュー)「恩赦実験」 
王侃瑜(レジーナ・カンユー・ワン)「月見潮
江波(ジンポー)「宇宙の果ての本屋」 

 基本的なSFの設定に驚くようなモノはない代わりに、いわゆる50年代SFが持っていた面白さのアップトゥデート版ともいえる面白さが感じられる。もちろん古めかしさも感じられないではないが、日本を含め欧米の若い世代にとって、すでにSFはサイエンス・フィクションではなくて、ニュートラルな意味でのスペキュレイティブ・ファンタジーになっているように思えるので、よけいに現代中国SFを面白く感じるのかも知れない。

 新井素子・須賀しのぶ・椹野道流・竹岡葉月・青木佑子・深緑野分・辻村七子・人間六度『すばらしき新式食 SFごはんアンソロジー』は集英社オレンジ文庫刊だけれど、初出ページを見ると、人間六度と新井素子が書き下ろし、須賀しのぶが同文庫公式HP掲載で、それ以外はすべて同社のWebマガジンCobaltに2021~23年に掲載されたモノ。既に岡本俊弥さんのHPで・・・以下同文。

深緑野分「石のスープ」
竹岡葉月「E・ルイスがいた頃」
青木佑子「最後の日には肉を食べたい」
辻村七子「妖精人はピクニックの夢を見る」
椹野道流 「おいしい囚人飯「時かける眼鏡」番外編」
須賀しのぶ「しあわせのパン」
人間六度「敗北の味」
新井素子「切り株のあちらに」

 これらの8編にも、ある意味『宇宙墓碑』に似た味わいがあるかもしれない。それはオーソドックスなSFのスタイルを髣髴とさせる舞台とアイデアの使い方にある。もちろん『宇宙墓碑』に較べるとテーマは「食」で統一されているし、そこには現代日本の感覚が表に出ているので新しさは確実にある。どの作品も読んで面白いけれど、視点自体が不思議な辻村七子、エンターテインメントSFとしてビックリするくらいキチンと計算されている須賀しのぶ、SFをストレートな倫理的難問の表明に使った新井素子あたりの作品が印象的だった。

 前作の『暇と退屈の倫理学』を読んでその哲学史つまみ食いをケナしたのに、國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』が文庫になったので読んでしまった。
今回も「哲学史つまみ食い」の傾向は相変わらずだけれど、目次の前に置かれた「プロローグ ある対話」の出来の良さに感心したのは確か。
 「能動と受動をめぐる諸問題」と題された第1章は「意志批判」の入口なんだけれど、あまり面白くなくて、著者の専門であるスピノザが顔を出し、インド=ヨーロッパ語族の能動態/受動態という文法は比較的新しいものであり、古代には「能動態」に対しては「中動態」が対応していたというフランスの言語学者バンヴェニストの議論を引っ張り出すあたりで、ようやく面白くなってくる。すなわち「文法の世界へ」でこの章は閉じられている。
 以降、2章「中動態という古名」3章「中動態の意味論」4章「言語と思考」を通じて、主に2000年以上前の「古代ギリシャ語」(たとえばアリストテレス)を対象とした「中動態」をめぐる言説が紹介されている。基本的には「中動態」自体がそれらの言説の中で何を意味しているのか必ずしも確定されていない上に、「中動態」そのものが古代ギリシャ語からも既に失われかけており、古代ラテン語に至っては「中動態」自体はもはや存在せずその痕跡しか確認されないというシロモノらしい。しかし著者はひたすら「中動態」にこだわって、いわゆる「つまみ食い」的な言説の引用も含めて、ある意味とても狭い世界の探求に専心するのである。
 そして4章1節「ギリシャ世界に意志の概念はなかった」とするあたりから、副題の「意志と責任の考古学」が本格化する。
 5章「意志と選択」は、もっぱらハナ・アレントの意志論とアリストテレスの「選択」を並べて論じているけれど、アレントの「拳銃で脅されて金を出す行為」の考察という例題が当方には疑問の湧くモノなのでピンと来ないけれど、云いたいことは分からんでもない。
 6章になると「言語の歴史」と大きく出るけれど、ここでのハイライトは5節「日本語と中動態」だろう。著者は昭和3(1928)年に出されたある英語学者の還暦記念論文集の中に、その弟子にあたる細江という英語学者の「我が國語の動詞の相(Voice=文法上の態)を論じ」た一文を読み、これが「インド=ヨーロッパ諸語における態の変遷を記述しつつ、これを日本語の動詞の変遷と比較し、両者が中動態を共有していたこと」や「中動態が他の形態へと「分岐」するその様までもが両者において共通していたこと指摘した」論文であることを発見して興奮しているが、その興奮ぶりが面白い。
 7章「中動態、放下、出来事――ハイデッガー、ドゥルーズ」ここはパス。
 で、終章手前の8章が「中動態と自由の哲学――スピノザ」これは本命で、ヘブライ語で聖書が読みたいという友人のためにスピノザが書いたという文法書『ヘブライ語文法綱要』を肴に「中動態」を解説する。
 こんな風に紹介していると、なんだかこの本が「中動態」復活のための言語学エッセイみたいに見えてしまうけれど、もちろんそんなことはないわけで、著者自ら多くの憶測を重ねて作り上げたという「中動態」は、「能動態/受動態」言語概念から生じる軋轢に対して中和的性質を有している、と主張しているのだった。いわく「能動態/受動態」しかない現在の言語概念こそ「意志」と「責任」を(有りもしない)因果関係で結びつけている。そのような現在の言語社会に「中動態」を復活させることで「責任」をそれ自体として認識出来るようにしたい、と云うことらしい。だから副題が「意志と責任の考古学」になっているんだ。
 終章は「ビリーたちの物語」と題された、なんとまるごとメルヴィル最後の短い長編『ビリー・バッド』の主題分析に費やされている。
 最初にこの小説のあらすじが紹介されている。それをさらに縮めると、商船員だったビリーは軍艦にスカウトされて真面目な水兵として働くが、なぜか憲兵役の下士官に怨まれ、ビリーは反乱を企てたと艦長の前でこの下士官に(偽の)告発をされ、混乱したビリーはとっさにこの下士官を殺してしまう。艦長はこれまでのビリーの誠実さを認めつつ、その行為を理由にビリーを死刑にした、と云うモノになるか(当方は記憶力が無いのでとてもいい加減)。著者はこの3者の関係に「意志と責任」のテーマを見出して定番とされるアメリカの文芸評論家の論を紹介しているが、それよりもハナ・アレントがこの作品を論じている上に、アレントがこれをハイデッガーにも送ったという事実に著者は心動かされたようだ。
 この最終章の最終節である6節は「中動態の世界に生きる」と題され、わずか3ページしかない。400ページの「中動態」論の結論としてはあまりにも短く、最後は「これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である」と、ミエを切っているともいないとも判断できない一文で終わっている。
 このあと大量の注が続くが、当方はあまり真面目に読んでない。しかし、平成29(2017)年に医学書院から出た単行本(元となった文章は2014年から同社の医学雑誌『精神看護』に連載したもの)のあとがきと、今回の文庫化に際し書き下ろしたという「文庫版補遺 なぜ免責が引責を可能にするのか――責任と帰責性」と題する文章を読んで、その「哲学史つまみ食い」がまったく感じられない倫理的直接性に当方はいたく感心させられたため、この長々しい感想文を書くことになった。
 まあ、この感想文を読むような奇特なヒトが本書を立ち読みして/借りて/買って「あとがき」と「文庫版補遺」だけ読んだとしても、たぶんその面白さは分からないと思う。そのために本文があるのだから。
 もう少し感想を付け加えると、この著者は西洋哲学専攻でありながらキリスト教的視点を回避しているように見える。それが「つまみ食い」の印象を深めているのだけれど、今回読んでいて印象に残ったのは、著者が引用するようにギリシャ悲劇やホメーロスの叙事詩における神々の定めたヒトの運命とそのヒトの個人としての行為の自由が「責任」を形成して「悲劇」を呼び込んでいるという観点が著者にあるようで、これはこれでキリスト教以前の「倫理」を考えるヒントになっているだろうと思えたことだ。
 このギリシャ悲劇的「倫理」について当方の連想で浮かんできたのが、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」。最近また1967年のN響をブーレーズが振った大阪でのバイロイト音楽祭引っ越し公演ライヴの第1幕を聴き直していて感じたその物語設定だ。いまさら紹介するまでもないけれど、簡単に纏めると、婚約者を殺した上に自分を国王に嫁がせるため連れ出した、あの憎きトリスタンに死を与えようと毒酒を飲ませ/同時にイゾルデも飲んで共に滅したはずが、イゾルデの召使いの機転で「恋の妙薬」にすり替えられたことにより、あらゆるしがらみが強制的な「恋の官能」で埋め尽くされ無効化されてしまう、というモノ。この設定から、たかが「クスリ」ごときに運命を強要されて世の仕来りの前に自滅するしかない「責任」の取り方が「ギリシャ悲劇」のテーゼを再現しているなあ、と思ったのでした。
 で、納得したのが、ニーチェのワーグナー崇拝とその最後の楽劇「パルジファル」でのキリスト教伝説への回帰をもってニーチェがワーグナーと縁切りをした有名なエピソード。ワーグナーの専門家に言わせると別にワーグナーはキリスト教に回帰したわけではなく、もともとキリスト教徒だったので、ニーチェの勝手な思い込みだったらしいけれど、このギリシャ悲劇的構図の回復がニーチェをカンゲキさせたと云うことなのだった。

ようやく積ん読になっていた西島大介『世界の終わりの魔法使い 完全版』全6巻プラス京都のホテルの原画展で配布された冊子に掲載された新章を読んで、その勢いでレムの原作をマンガ化した森泉岳土『ソラリス』上・下も読んだけれど、疲れたので感想は次回に。


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