続・サンタロガ・バリア  (第255回)
津田文夫


 1月には年を拾うのだけれど、今年はなぜか奥さんがオタマトーン(明和電機の四分音符型電子楽器)で息子が『大人の科学ベスト プラネタリウム』をくれた、古稀前のジイサンとしてはウレシイんだかカナシイんだか。

 それはさておき、誕生日の翌日広島市へ映画を見に行った。原作が大分昔に読んだアラスター・グレイの作品で、タイトルも同じヨルゴス・ランティモス監督『哀れなるものたち』。映画館では、今日月曜日はメンズデーで1100円と云われたが、年寄りなので変わりはない。なかに入ると月曜日だというのに結構人が居て男性が8割方、当方と変わらない年齢が多いので、18禁に釣られたわけでもなかろうが・・・。
 映画が始まって、例によって原作の内容はほとんど忘れていたけれど、確かフランケシュタイン・バリエーションだったような覚えはあった。まあヒロインの育ての親である準主役の老博士が解剖学を講義しているし、フランケシュタイン映画に出て来そうなメイクでもあった。ペットたちを見るとモロー博士も入っているようだけど。
 最初に驚いたのが蒸気式馬なし馬車で、こんなのあったのかと思ったけれど、これは改変19世紀のイギリスなのでスチームパンクは当然なのだった。一番驚いたのは、いくら覚えていないとはいえ、こんなにヒロインのセックスに対する執着が強かったっけというもの。オナニーを覚えて以来、中年オヤジとの駆け落ちとパリの娼館でのエピソードは、フレンチカンカン風のBGMと相俟って全然エロくないけれど、それこそ48手(含む緊縛)みたいに延々とヒロインのセックスシーンが続く。それが主演女優の生身なのかCGなのかは置いとくとしても、18禁なのはよく分かる。あと、豪華客船の船首の下に衝角(軍艦の場合は敵に体当たりして破壊するサイの角みたいなヤツ)が付いているように見えたけれど、当時は客船にもあったのか(単なるスチームパンク・デザインか)?
 映画としては笑えるサタイア(後の席の人は時々笑ってました)で、女性に関する男性の思惑への揶揄と女性の性的自由への志向はそれなりに面白く見られるけれど、主演女優エマ・ストーンの演技が一番印象に残る。顔芸としては役所広司以上かも。
 帰りにパンフを買って読んだら、アラスター・グレイは2019年に亡くなっていた。これを見たら、多分喜んだだろうな。

 新刊SFが冬枯れ状態な上、ハヤカワ文庫のSFがあのホラー野郎しかない。岡本俊弥さんが書評に取り上げていたので、眉にツバ付けて読み出したけれど、主要登場人物が出揃う途中で早くも挫折、やはりコイツは読書リストから除外しておこう。

 時代物と云っても中世播磨国を舞台にした上田早夕里『播磨国妖綺譚 伊佐々王の記』は怪異が見えない陰陽師の兄とよく見える僧侶の弟が妖怪がらみの事件を解決する物語の第2弾。
 今回は副題にあるように、『もののけ姫』に出て来た巨大な鹿を髣髴とさせる伊佐々王と呼ばれる妖怪鹿が、まるで妖怪のような魔人に復活させられ、ヒトに恨みを晴らそうとする話がメイン。但し、それに絡む形での番外編的なストーリーもある。
 よどみないストリーテリングのお陰でスラスラと読めてしまうけれど、残念ながら伊佐々王の話はまだ終わってなくて、次巻に持ち越されている。

 積ん読にしておくつもりが、仕方なく手を出したのが、劉慈欣(リウ・ツーシン)『白亜紀往時』
 さすがにまだ内容を覚えていたし、あまり期待しないで読んだ。分量が増えてエスカレーションもそれなりに楽しめるけれど、基本的には(ジュブナイルより若い)子供向け物語であることがよく分かる1作になっていた。初期の作品はやはり古めかしい感じがする。

 前作が中々重たかった荻堂顕『不夜島 ナイトランド』は、それとは打って変わって、終戦後の沖縄は与那国島久部良を前半の、そして後半は台湾を舞台にした改変歴史ものとしてのサイバーパンク・ハードボイルド。資料の調べは今回も抜かりはないが、改変歴史物としての重みは前作ほどなく、どちらかというとわかりやすい方向に流れている。
 主人公の眼を通して、多数のキャラクターを持ち込んで見せるところは相変わらず上手いが、主人公の生い立ちによる性格付けが複雑すぎて、やや鼻じらむ。結局この物語自体の真実性が那辺にあるかは読者の思い込みに任されているので、SFプロパーとして読むとやや底が浅い感じもする。エンターテンメントとしては充分な面白さではあるけれど。

 なんでこんなものが好きなんだろうと思いながら、今回も楽しく読ませてもらったのが、シオドラ・ゴス『メアリ・ジキルと囚われのシャーロック・ホームズ』。新☆ハヤカワ・SF・シリーズで出た19世紀ロンドンから始まる有名マッド・サイエンティストを父に持つモンスター娘たちの集まり〈アテナ・クラブ〉シリーズ3部作の最終巻。
 云うちゃーなんだけど、このタイトルは内容からして決して嘘ではないけれども、物語の本筋からすればかなりのズレがあるといえる。ホームズが行方不明という前作のラストシーンから続く捜査の結果、ここでは囚われて人事不省のホームズが出てくるだけ、ワトソンもすぐにケガをして寝たきり状態にさせられて、物語はひたすらモンスター娘たちの活躍に専念する、って、この物語の作法からしてそれが当たり前。モリアーティも前半で大物として顔見せしているが前半だけで姿を消す。後半でも、ホームズは眼を醒ましたけれど、相変わらず囚われのままで活躍することなく、メアリに重大な告白をするだけの存在である。
 原題の方をみると“THE SINISTER MYSTERY OF THE MESMERIZING GIRL”と、幻惑する娘は単数形なので、主眼はメアリの家〈アテナ・クラブ〉から誘拐されたメイドのアリスにあるのだろう。もっともアリスの能力はその母親や古代エジプトの女王にもあるけれども、彼女らはガールとは云えないからね。
 3部作の訳者が第1巻で鈴木 潤, 原島 文世, 大谷 真弓, 市田 泉の4人、2巻は原島文世で、この3巻は鈴木潤になっているけれど、メアリ・ジキルを始めとしたモンスター娘たちの口ぶりはここでも引き継がれている。ただ娘たちが増えすぎて読む方がやや混乱するところがある。
 昨年はこの3部作やN・K・ジェミシンの〈破壊された地球〉3部作やユーン・ハ・リーの〈6連合〉3部作が完結したけれど、そういう意味では3部作が豊作だった年とも云えるか。まあこういう3部作では星雲賞が取れるのか疑問だけれど(昨年はアシモフの新訳版〈銀河帝国〉3部作が取りましたが)。

 入手するのに暫く時間がかかったのが、なかむらあゆみ編『巣 徳島SFアンソロジー(そっとふみはずす)』。一般書店売り、ネット大手での販売がないので、ググってみたら地元ではJRで小1時間かかる鈍行のみが停車する駅のそばの店にあることがわかったが、チャンスがない内に時間が経ったので、松山の書店からネット購入した。
 有名作家は、徳島にゆかりがあって徳島の文学賞の審査員をしているという小山田浩子と吉村萬壱の2人のみ。あとは編者を含めて徳島ローカルを活動の中心に置いた作家たち(含む、歌人・写真家)。
 さすがに小山田浩子「なかみ」吉村萬壱「アウァの泥沼」は、いかにもの作風をそれぞれ示していて、各自の短編集に収録されて当然の作品になっている。
 また巻頭・巻末の徳島の写真や小説作品も掲載されている田中槐のお酒日記(インスタですね)は、徳島のローカリティを読者に印象づける役に立っている。
 小説に移ると、歌人という田丸まひる「まるまる」は、幼稚園児の子供を持つ母親のフレイルさを散文詩にしたもの。「隕石」と「地球破滅」が象徴的に出てくる。間に「/」や「●」からなる三十一文字が出てきて、それは丸まったダンゴムシのイメージと重ねられて表題を為したと思われる。
 久保訓子「川面」は、日常生活の風景の中に一寸法師の夫とのやりとりが飄々と進む。綺譚ではあるが、凹凸はない。
 座談会は編者がリードする形で進行、徳島をテーマにしたSFを、と依頼されて誰もSF作家ではないので、SFを(そっとふみはずす)にしたらとういう吉村萬壱の提言に編者は救われたという旨の発言がある。吉村萬壱や小山田浩子は当方の視点ではSF作家みたいな者に見えているけれど。
 やはり歌人でもある田中槐「3月のP」は、視点人物の家に現れた宇宙人の話。もちろん宇宙人と話は通じないのだけれど、それが素数の日に現れるのに気づくと、なんとなくコミュニケーションが取れ始める。が、結局宇宙人は3月最後の素数の日に去って行く。ということで、タイトルの「P」は素数の英語Prime NumberのPと思われる。
 高田友季子「飾り房」は、街に住む女性のところに、母の田舎にある無住となった寺の総代から墓参りに来るように葉書が届く。車で寺に行くと総代は墓を開けてお骨を持って帰れと言い出す・・・。オーソドックスなリアリズム小説に読めるが、総代の雰囲気やその後に起こる事件が空虚感をかもす。
 竹内紘子「セントローレンスの涙」は、人間同様の意識を持ったいわゆる町猫の視点から、偶然意気投合した飼い主二人が暑気払いに山の上でキャンプする事になり、そこへ昭和2年の日米親善使節のアメリカ人形(当方の住む街にも2体現存する)が絡んで、キャンプ場で知り合った天文部の高校生に誘われて、山の上でペルセウス座流星群(セントローレンスの涙)を見る話。『E.T』とか『未知との遭遇』の頃のささやかなSFという感じがする。
 編者なかむらあゆみ「ぼくはラジオリポーター」は、引退した人気リポーターの女性が、彼女に憧れてラジオリポーターになろうという少年と彼の初仕事で共演するために復帰する。これは女性リポーター側からみた1篇。少年が時折見せる意識障害風のセリフが時間SF的な雰囲気を纏っている。
 以上、奥付までいれて170ページしかない薄いアンソロジーだけれど、記憶には残るかも。

 今回最後に読み終わったのが、長らくご無沙汰のモリミーこと、森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』
 読み始めてすぐビックリするのは、ワトソンが語り手として京都でホームズと組んでいる日常が語られる設定。さすがに無理があるけれど、モリミーは翻訳小説であるはずのホームズ物の登場人物を次々と出してきて、一切をモリミーワールドの住人としてしまっている。ホームズはハドソン夫人の経営する下宿の寺町通221Bに住んでいるし、京都警視庁にはスコットランドヤードとルビが振ってある。最初は重ね合わせ技法かと思ったが、京都はやはりモリミーの京都でワトソンは当たり前の生活空間として京都を描いているので、これはさすがに大した力業だと感心する。
 物語の方は決定的なスランプに陥ったホームズをワトソンが語り、ワトソンが描くのは探偵小説ではなく、ホームズの世界を借りたホームズとワトソンという主人公たちの自己対決の成り行きだった。こう書いてしまうとなぜこのタイトルなのか疑問にも思えるけれど、たぶん、2018年の雑誌連載終了時から約6年を費やして整えたこの作品は、モリミー自らのどうしようもなさからの回復をそのまま反映しているように思われる。
 このような事態は以前にも朝日新聞に連載した『聖なる怠け者の冒険』と同じような経過をたどっている。ただ、こちらの方がより手堅い形で再構成されているようだ。荒唐無稽なお話しが実は私的な状況の反映として成り立っているというのは、ティプトリーを思わせますね。
 何度も云っている通り、当方はホームズ物の原典を1冊も読んだことがないので、この話の最後の章でさまざまなホームズ作品の登場人物が羅列されていても何の感慨もわかないのだけれど、これがモリミー渾身の1作であったことはよく分かる。
 因みに、当方が唯一読んだかも知れないホームズ物は、小学生高学年のとき友達が貸してくれた『鍵と地下鉄』だった。そんなタイトルは見あたらないので、子供向けのリライト・タイトルだったのかも知れない。もちろん内容は一切覚えていない(いまググったら、なんと山中峯太郎のパステーシュだった。ということで、ホームズ物は全く読んだことがないと判明した。そうかホームズ物は昔から日本人作家も書いていたんだな)。

 さて、ここからがノン・フィクションと云う事で、前回予告したカール・ポパー『開かれた社会とその敵 第1巻 プラトンの呪縛』及び『開かれた社会とその敵 第2巻 にせ予言者-ヘーゲル・マルクスそして追随者-』各上・下巻の話に移ろう。
 なんでこんなものに手を出したかというと、それは伴名練『なめらかな世界と、その敵』という表題から、そのもとになったという鈴木健『なめらかな社会とその敵 PICSY・分人民主主義・公正的社会契約論』を読んで、さらに遡ったということなんだけれど、実は鈴木健の本を読んだときは、ポパーのことは知らなかった。その後ググってタイトルの元ネタ本があることを知った次第。なので、昨年岩波文庫でそのタイトルを目にしたときは、へえっと思ったが、第1巻が出た頃、広島丸善で目次を見てなんじゃこれはと思い、買わずに帰った。

 それをどうして読む気になったかというと、Y・N・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』上・下が文庫になって、早速買って文庫に追加された「文庫版あとがき――AIと人類」をパラパラしてその内容があまりにも薄っぺらな感じがしたことで、ポパーの方を読むことにしたのだった。
 とはいえポパーは難物なので、さきに『サピエンス全史』を簡単にかたづけておこう。全体的印象はスペキュレィティブ・ノンフィクションというところで、基本的には読み物タイプの作品だった。
 読み始めてすぐに引っかかったのが、「7万年前の認知革命」というヤツ。これってモロ『2001年宇宙の旅』のモノリス神話じゃないかと思ったし、「認知革命」は心理学用語じゃないのかとググってみたら、ウィキペディアでさえ心理学上の「認知革命」を異論のある学説としているし、その手の心理学者からはハラリの「認知革命」の使い方に異論を挟んでいるものもあった。ということで、「文庫版あとがき」とこの冒頭の「認知革命」の大前提から、大真面目に読むのはやめて、スピード重視で読んだ。
 人類史から近代史まで「○○革命」はともかく、作者の視点はリベラリズムである。少なくともキリスト教国での軽いタブー破りくらいにはなっているようだが、現代の日本人には、少なくとも当方にはそりゃそうだ、という話が多い。もちろん知らない話もいっぱいあってそれはそれで面白く読める。この作者は大量の読書によって「いわゆる識者の云うところ」を自分流に流し込んで、歴史を「○○革命」で割り切っていこうとするので、作者自ら歴史に必然性はないとしながらも、どうしてもキリスト教的な進歩史観が顔を出す。
 その結果が、現代史と近未来に対する視点の軽さとして、科学とテクノロジーに支えられた一元的社会への道筋を思い描いたかのような、最後の19章「文明は人間を幸福にしたのか」及び第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」という表題に結実している。まあ、総タイトルの副題が「文明の構造と人類の幸福」なんだから当然か。「幸福」は「歴史」とも「科学」とも関係が無いのは、「心理学者と生物学者の意見」としてこの本で紹介されているとおり、「幸福とは『主観的厚生』」なので「人類の幸福」はただの謳い文句に過ぎない。歴史と科学をどう見るかはポパーの本の結論部分でもあるので、ポパーに取りかかろう。

 『開かれた社会とその敵』全2巻は、作者の序や訳者あとがきによると、1942年に脱稿、1945年の戦後にイギリスで初めて第1巻が、その後間を置かずに第2巻が出版されている。その後何度も改訂されていて、その改訂版の英書から訳されたのが1980年の未来社版で、今回は若い日にその英訳にも関わった訳者が最新のドイツ語版から新訳したとのことである。
 冒頭にいくつかの序文が収録されているが、最初に置かれているのが最後(1992年)のもので、冒頭で、これを書き終えて50年を迎えたと云う90歳のポパー(2年後に死去)は、もともとこの著作はナチズムと共産主義/ヒトラーとスターリン/独ソ不可侵条約(1938年)に立ち向かうために書かれたものであると説明している。しかしこの本はそのふたりがもたらした全体主義に直接触れることなく、その淵源であるとするプラトンとその後のヒストリシズム(ポパーの造語、歴史に目的や法則があると考える)の思想家、特にマルクスに遡って批判を試みたとする。
 ベルリンの壁崩壊とソ連解体のただ中で書かれた言葉なので、やや上滑りしているけれど、2ヶ月近くかけて本書を読み終えた後で、読み返すとポパーにとって第2次大戦前夜のヨーロッパに対する絶望がいかに深かったかがわかる。なお、ポパー自身はキリスト教に改宗したユダヤ人の家庭に生まれた。この本の執筆は故国オーストリアから移り住んだニュージーランド(地球の反対側)で行われている。
 ただし、これ以前の序文ではそのことは書かれていないので、この著作は当然全体主義思想の始まりを作ったプラトン批判、その後の共産主義思想に土台を与えたマルクス批判の書として受け取られたのは当然で、そのことに対するそれぞれの哲学思想専門学者たちから総スカンを食ったのもさもありなんと思われる。
 全体構成は第1巻が、プラトンの、特に『国家』を中心とする後期著作が、民主主義を否定する議論(例:正義とは国家のためになること)で貫かれていることを証明するために書かれ、第2巻は、プラトンの後期思想からアリストテレスへ、中世を略して近代のプロシア腰巾着哲学者ヘーゲルについて否定的に短く述べた後、マルクス/マルクス主義が持つ全体主義的傾向に対する批判となっている。
 文庫でそれぞれ500ペ-ジ前後の上・下巻は本文が半分強を占め、議論の延長としての註が半分弱を占めているけれど、ポパーの書いていることは単純である。プラトンやマルクスは偉大な思想家であり、その思想の影響下に多くの人々が無批判にその影響を受け入れている。しかし、かれらの思想は全体主義を望ましいものであるとする考え方に貫かれており、プラトンは、その強力な知力を自らの思想的立場である哲学者の王によって当時のアテネをイデアに近かった時代(閉じた社会)に戻すことを熱望したために全体主義志向となったのであり、一方マルクスは、当時の悲惨な状態に置かれた労働者階級を救い出すために、当時の抑圧的な経済機構を資本主義と名づけ、その進行はプロレタリアート革命による階級消滅を必然的にするとしたことで、全体主義を呼び込むことになったとする。
 ポパーはこれらのことを云うために、特にプラトンについて呆れてものが云えないくらい、膨大な博引旁証すなわちプラトンの原典(もちろん古代ギリシャ語)を縦横に引用し、同時代の古代ギリシャ哲学のさまざまな文章を参照してポパー自身の論を支えることをしている。なので、本文では1行でも註の方が延々とページ数を費やすことも間々ある。
 プラトンについては、40年ほど前に岩波文庫から出た『国家』を読んだことがあり、そのことを大阪の喫茶店であったKSFAの例会で話したら、当時神戸大学SF研OBの島田君(だったと思う)が食いついてきて「洞窟の影の比喩はどうでしたか」と訊かれ、返答に窮したことがある。今はもう忘れたが、当方は当時『国家』の内容に困惑していたのだと思う。要はプラトン/ソクラテスが何を云っているのかよく分からなかったのである。その前に『饗宴』を読んで、美少年LOVEの話が面白かったので手を出してみたが、『国家』はとても歯の立つものでは無かったのだろう。
 それが今回、ポパーのプラトンと全体主義思想の批判を読んで初めてその40年前の時の印象に形が与えられたのが分かった。すなわち『饗宴』の基本的印象は明るく『国家』のそれは甚だしく暗かったのである。って、それだけかい、と云われそうだがボンクラな当方にはそれだけのことでも充分収穫であった。
 なお、膨大なプラトンの対話編からの引用はポパーが原典からドイツ語に訳しているようだったけれど、ボロアパートにあるオヤジの岩波版『プラトン全集』を持って帰って参照する気力はさすがになかった。 
 第2巻でのマルクス批判についてはあまり云えることがない。当方はマル経で経済学部を卒業したとは云え、先生方はマルクスを読めという風な講義はしてなかった。なので解説本を除けば申し訳程度に『経済哲学草稿』とかを読んだくらいである。まあ、少年時代にマルクスかぶれだったというポパーのマルクス批判はいまとなっては常識にちかいものといえるかも知れない。第2巻で面白かったのはマルクス批判の前に置かれた短いヘーゲル批判で、ポパーはヘーゲルをロクでもない者として片付けている。ヘーゲル学者にして見れば言いがかりにしか見えないだろうが、当方のヘーゲルの印象はポパーに賛成だ。 
 あと、註で延々と批判していて面白かったのが、ヴィトゲンシュタイン批判。ポパーは戦後ロンドン大学で教えていて、ヴィトゲンシュタインと顔をつきあわせて議論もしていたという。ポパーは『論理哲学論考』もその後の著作も一切認めない立場で、『論理哲学論考』など何も云っていないに等しいとする。両者の関係をググってみたら、腹を立てたヴィトゲンシュタインは火かき棒でポパーを殴ろうとした、とあったので笑ってしまった。『論理哲学論考』は昔読んだことがあるし、そこにちりばめられた断章の魅力的なことは覚えているので、ポパーの批判のために当方のヴィトゲンシュタイン株が下がることはなかった。
 ではポパーの支持する哲学者はいるのかというと、それは序と本文の間に置かれた、1954年英国はBBCラジオで放送されたポパーによるカント没後150周年記念講演「イマヌエル・カント 啓蒙の哲学者」ということになる。そして初期の対話編やクセノフォンの著書から伺える「無知の知」を慫慂したソクラテスこそ、後期対話編でプラトンの分身になってしまったソクラテスに対立するものとして激賞されている。ポパーにとってソクラテスはアテネの民主主義への批判者ではなく、アテネの民主主義を守るために死刑を受け入れた人物と云うことになっている。
 第1巻の巻末にはドイツ語版の校訂者による本書の出版までの経緯が収録されているんだけれど、これを読むとポパー夫妻がこの本を書き上げるためにニュージーランドで苦労し、さらに戦時中のイギリスで出版するためにイギリス在住の友人知人たちに次々と催促の手紙を出していたのを知るといかに本書が重苦しい雰囲気の中で書かれ、ポパー自身の必死さがこれらの文章に加わっていたかが理解できる。なので、この本の後で『サピエンス全史』を読むとその脳天気さが目立つのだった。
 しかし、ポパーが本書で一番いいたかったことは、プラトン批判でもマルクス批判でもなく、「開かれた社会」を選び維持することがいかに重要か、またそのためにはヒストリシズムが提唱する「ユートピア社会工学」に対してトライアル・アンド・エラー方式である「ピースミール社会工学」を推し進めていくのが最善ではないかと云うものだった。すなわち公正な選挙による民主主義こそ選ぶべき道ということをポパーはマジで訴えているのである。民主主義でも間違った政治が行われる可能性は高いが、その誤りに気づける市民は選挙によってそのような政治を追い出すことが出来る。われわれはそういう市民にならなければならない、ということである。これはこれで人間への買いかぶりが感じられないこともないけれど、この分厚い議論の果てとしては結構重みがある。そしてこれが東浩紀『訂正する力』に繋がっている事は明らかだろう。
 また本書の結論として最終章は「歴史に意味はあるか」と題されている。歴史に必然性も法則も目的も認めない徹底したヒストリシズム批判者であるポパーは、当然歴史に意味は無いとする。しかし歴史に意味を与えるのは人であり、いま居る人が歴史を意味あるものにすることが重要なのだと云う。これは歴史学者E・H・カーの有名な言葉「歴史とは過去と現在の対話である」に対応する言葉だろう。その点では『サピエンス全史』もまたその一例で、徹底したリベラリズムの視点が貫徹してるとは云いがたいがそれなりに過去との対話は成功しているのだろう。ポパーは通常「歴史」とされる英雄たちと暴力/政治権力の物語を否定し、新しい「歴史」を希求して本書を閉じているが、それ自体はいまだにこの地上には現れていない。その意味ではポパーもまたユートピアを希求していたのかも知れない。
 以上、ポパーといえば「反証可能性」の科学哲学のヒトとしか思ってなかったので本書を読んでビックリした次第。

 長くなったのでここらでいったん終わりとしておこう。

 第2巻上・下が昨年10月刊行で、その完結を待ったかのようにプラトン学者の納富信留が『国家』(納富は自著でこの訳題を使わない)を論じた『新版 プラトン 理想国の現在』が12月にちくま学芸文庫で出たので読んでみたけれど、気が向けば次回で取り上げます。


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