続・サンタロガ・バリア  (第237回)
津田文夫


 新型コロナ・ウィルスの感染者が20万人越えだとか、もはや唖然としか云いようがないですね。ま、年寄りは早々と4度目のワクチンを受けましたが。でも、先日行きつけの安い喫茶店に行ったら、十数人の妙齢のオバ様たちが店の中央の大テーブルに陣取ってワハハギャハハの大騒ぎで、久しぶりに店内エコーを耳にしました。まあ、コロナなんてどこ吹くカゼな人たちもいるわけです。
 とはいえそういう自分も、広島交響楽団の地元公演には行ってきたわけですが。1600人入るホールに500人も入っていないスカスカ状態だけど、なぜか一番聞きやすい中央通路うしろ寄りの一列が全席埋まっていた中で聴く羽目になった(ってオマエがそこを選らんだからだろう)。
 今回は、以前東京のすみだトリフォニーで大曲「死刑台上のジャンヌ・ダルク」を聴いたクリスティアン・アルミンクの指揮、曲は前半がモーツァルト「アダージョとフーガ ハ短調」に交響曲第38番「プラハ」後半がプロコフィエフのバレエ組曲「ロミオとジュリエット」で全曲から10曲の抜粋(全曲だと52曲もある)。アンコールは1曲、タイトルが思い出せない。
 広島交響楽団の演奏水準は無いものねだり以外はほぼ文句なし。アルミンクの選曲のお陰で18世紀モーツァルトの曲と20世紀第1次大戦後につくられたバレエ曲によって、音楽の響きが担うものがだいぶ変わったことがよく分かる。プロコフィエフのバレエ組曲「ロミオとジュリエット」を生で聴くのは何十年ぶりかも。1曲目が「モンタギュー家とキャピュレット家」で、これはEL&Pが90年代復活第1作『ブラック・ムーン』に入れた曲。エマーソンの編曲は原曲に忠実だけれど、冒頭の不協和音の全奏(トゥッティ)は省いている。

 オリジナル・アンソロジーかと思ったら、再録アンソロジーだった伴名練編『新しい世界を生きるための14のSF』は、編集後記を入れると800ページを超える分厚い1冊。 予想に反して、伴名練は各掲載作解説および序とあとがき全部含めても大したページ数を使っていなかった。それにしても各作品末に「SFのサブジャンル紹介となるコラム」を付けたという「序」のうたい文句があるものの、掲載作のSF的アイデアをSFのサブジャンルに割り当てて、これまで書かれた代表的作品と最近作を紹介するというスタイルを読んでいると、なんだか半世紀前のSF入門に戻ったような気がする。これはこれで意外と便利ですが。
 冒頭の八島游舷「Final Anchors」は、避けがたい衝突コースに入ってしまったAI搭載車2台の、コンマゼロ何秒の間に行われるAI同士のやりとりをテンポ良く描いたもの。シチュエーションは違ってもこのアイデアで書かれた短篇を最近読んだ気がする。
 斜線堂有紀『回樹』は、エキセントリックな女性同士の恋愛と死を、人間の遺体を取り込む「回樹」を通して告白劇に仕立てたもの。アイデアは面白いのだけれど話自体にはあまりハマれない。
 murashit「点対」は、読み始めて文章が2行目につながって無くてビックリするけれど、2行セットで2視点から同じ現実を語っているんだろうなと見当が付けば、まあ読めるようになる1作。なかなかの実験作だけれど、話自体が面白いかは別。
 宮西建礼「もしもぼくらが生まれていたら」は再読。広島の人にはシンミリする話だ。
 高橋文樹「あなたの空が見たくて」は、わずか15ページ。ティプトリー「たった一つの冴えたやり方」のある種のバリエーションに見える。いい話だ。
 蜂本みさ「冬眠世代」は熊が工場に勤め、恋愛をし、冬眠したりしなかったり、冬眠中の夢の可能性を語ったり、と「熊生」を扱った一編。結末でSF形式なことが分かる。
 芦沢央「九月某日の誓い」は、大正時代を思わせるお屋敷でお嬢様に仕える語り手の女性の物語。殺人事件に見えない殺人が絡むSFミステリ。伴名練が書いてもおかしくない1作。
 夜来風音「大江戸しんぐらりてい」は、いわゆる人力素子計算機バリエーションのバカ話。ちょっと長すぎるけれど、和歌分析に有名和算家と水戸光圀を絡ませ、人力素子計算機を発明、改暦へと行き着く。オチが付いているのもバカっぽさを強化している。
 石黒迩守「くすんだ言語」はある種の翻訳ソフトが人の死をもたらすホラーっぽい仕掛けだけれど、作品自体は技術の暴走が招く悲劇をうまく描いた1篇。再読。
 天沢時生「ショッピング・エクスプロージョン」は、格安大型ドラッグストアチェーンの自己増殖する商品が引き起こしたハチャメチャな発展と滅亡を登場人物たちの漫才と共に描いた黙示録。この作者のコンビニの話を思い出す。漫才をするのがセロニアスとハービーなので、ジャズ繋がりかも。
 佐伯真洋「青い瞳がきこえるうちは」は、視覚障害者の天才的卓球プレーヤーをSF的に描いた注目の一作。とはいえSFとしての目新しさよりも卓球プレーの描写にその才能が見えるような気がする。
 麦原遼「それはいきなり繋がった」は、コロナ禍のこちらの世界がある日川を挟んで鏡像世界と繋がったという設定で始まる。いわゆる『鏡の国のアリス』ものだけれど、この作品は並行世界との接触が日常生活という形を取って展開していくシリアスな物語。
 坂永雄一「無脊椎動物の想像力の創造性について」は再読。最近読んだ短篇では「SFは絵だねえ」を髣髴とさせる力作。
 トリは琴柱遙「夜警」は、願い星で願ったものが浜辺に打ち上げられるという場所で育つ子供たちの話。夜空を見張るので「夜警」だけれど、ジュヴナイルSFとしてはティピカルな1作。
 未読のものが多くて楽しめました。

 これまた竹書房文庫のSFらしいユニークな1冊が、デイヴ・ハッチンソン『ヨーロッパ・イン・オータム』。作者はイギリス人とのこと。
 ポーランドのレストランでエストニア人の雇われコックのルディが、店に来た台風のように物騒なハンガリー人の集団に、出した料理を褒められるところからはじまる。そしてルディはオーナーの紹介で店の用心棒組織のエージェントに言いくるめられ、ちょっとしたアルバイトとして謎の連絡網の見習いを始めた・・・。というところから、どんどん小国に分裂していく時代のヨーロッパの見えない組織に振り回されながら、ルディの活躍する世界はヨーロッパ全体に広がり、ルディ本人も最初のコックだったときからは思いも寄らない立場へと立たされる。
 オビにはル・カレとプリーストが合体したかのように謳われているけれど、ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』をノワール化したような印象が残る。今年読んだ翻訳ものでは拾いものな1冊だ。なお、冒頭に出てきたハンガリー人集団は終わりの場面で再登場する。

 大森望のアンソロジーで読んだ短篇が良かったので、斧田小夜『ギークに銃はいらない』を読んでみた。発行元は破滅社という聞いたこともないところ。
 中身は中短篇が4作で、それでも300ページのハードカバーになってる。ただし、大森アンソロジーの作品は入ってない。
 冒頭の表題作は、アメリカのパロ・アルト近辺に住むパソコンオタク仲間たちが、いろいろプログラムをいじっているうちにヒョンなことで学内暴力事件を目撃してしまう話。ヤングアダルト志向な1篇。
 「眠れぬ夜のバックファイア」は、浸襲型ほど強力でないソフトを使った睡眠時不安解消コンサルタントのオペレーターとクライアントの物語。クライアントの抱える物語が強すぎて、コンサルタント側のオペレーターがややホラー気味な傾向を示すまでになる。結末はいい感じで終わるけど。
 後半の「春を負う」「冬を牽く」は、冬は雪に閉ざされる辺境の村の、村長の子供の話とその子供が父親の跡を継いだ後の話という連作。ル=グィンが引き合いに出されるのは、その厳しい生活環境(惑星冬?)とそれを反映した親子関係、外から来るものの役割とかがちょっと似ているせいだろう。形式としてこれもヤングアダルトSF的作品になっている。

 オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』は、長編『キンドレッド』が面白かった作者のちょっと変わった構成の短編集。訳者(藤井光!)の解説によれば、バトラーの短篇は全部で10篇に満たないということで、ここには7,80年代の短篇5本と書くことについてのエッセイが2篇、それに新作と称する短篇が2作入っている。バトラーは2006年没とのことなので、新作は2篇は晩年の作と云うことになる。短篇にはそれぞれ作者あとがきが付いていて、何が書きたかったのか、どういうきっかけで書いたのかを明らかにしている。
 表題作はSF各賞を受賞した80年代SFとしてよく知られた1篇だけれど、あらためてよくできた作品だと得心がいった。異星で異星生物のもとに居候する人類の少年に作者が被せた多重性の鮮やかさ。
 「夕方と、朝と、夜と」は、特殊な遺伝病を抱えた少女と少年が、少女の親が入る施設を訪ねる話。ここでも作者は差別される疾病を抱える主人公たちと施設側の一種の賢人との会話に多重性を被せている。
 「近親者」は、仲の悪かった母親を亡くした少女と、いつもこの少女の味方をしてくれた伯父(母の兄)との会話劇(とはいえ、説明的描写もあるけど)。話の元が聖書のさまざまなエピソードにあったと作者あとがきにある。アメリカなら不謹慎と思う人間もいたろうな。作者はまたこの題名(原題)を「キンドレッド」としたことで、長編との関連を思う編集者がいたとか。まあ読めば関係ない話とは思うけれど。
 バトラーのもうひとつの代表的短篇「話す音」は、なんらかの原因で人々が発声能力を失い、暴力がはびこる世界で、子供たちに希望が宿る話。一筆書きに近いストーリーだけれど、荒涼とした世界にポッと灯る明かりを描くことに成功している。
 「交差点」はわずか7ページの掌編でSFではなく、最低賃金労働者の女の悲惨な日常の1シーンを描いたもの。1970年のクラリオン・ワークショップで書いたと作者あとがきにあるが、作品としては書けているけれど、SFとして買ってはもらえなかったろうなと思われる1作。でもロビン・スコット・ウィルソンが買ってくれたらしい。ロビン君には先見の明があったのだろうか。
 エッセイ2篇は、バトラーの作家として人生を切り開きたいと云う信念がヒシヒシと伝わってくるもの。ここまで作家になることに自らを賭けたその思いに感心する。
 新作2本は、前半のシリアスな作風からかわって、だいぶおおらかな余裕みたいなものがうががえる。
 「恩赦」は、地球を支配する異星人が提供する仕事に応募した地球人たちに、仕事の内容と採否を説明する異星人側で働く女性の視点で描かれた1篇。サタイアとして読むのが普通だけれど、バトラーはかなり複雑なことを書いているようである。
 「マーサ記」は、聖書世界のいかにもなパロディで、マーサと神の対話劇からなるユートピア探し。ユーモラスながらも夢オチにならない1篇。
 訳者あとがきによれば、バトラーの長編がこれからも訳されるとのこと、楽しみにしておこう。

 宮澤伊織『神々の歩法』は、収録中編4作中3篇が再読というあまりありがたみのない1冊だけれど、読めば面白いので無問題。
 既にプロデビューしているにも拘わらず、創元SF短編賞に応募するという、エンターテインメントSFの使い方がよく分かっている作者の自信と腕前が発揮された連作といえる。
 基本設定は異星人が地球にやってきて、地球人に入り込み他の異星人と対決する話のスタンダード『20億の針』/ウルトラマン(Qもある)のバリエーション。作者の趣味は山本弘『MM9』シリーズにかなり近いが、より百合系およびミリタリー系に傾いている。
 パターン通りを飽きさせず読ませる力というのは大したものだ。

 ずっと前宣伝が続いていた宝樹(パオシュー)『三体X 観想之宙』は、たしかにSF大会なりコミケットなりで売られていても違和感のない1作だった。いわゆる「小説になってない」だけれど、それがどうしたとういうことでもある。
 原作では三体世界に脳だけで送られた雲天明(ユン・ティエンミン)が、ここではほぼ出ずっぱりで、艾AA(アイ・エイエイ)、程心(チェン・シン)、智子(チーヅー)の美女3人を相手に、主に説明式に三体世界の裏話やその後を語っている。もちろんその外のエピソードもいくつもあるにしろ、読後感は雲天明視点の年代記みたいだ。

 以前から満州ものは嫌いだと云っていたら、その満州もので仕掛けてきたのが小川哲『地図と拳』。600ページを超えるハードカバーで、オビには「歴史×空想小説」とあるが、それって歴史小説(含むSF)って云ってるだけだよな。まあキャッチフレーズなんだから人目を引けばそれでいい訳だけれど。
 オビにはほかに「ひとつの都市が現れ、そして消えた」とあり、小さく「日露戦争前夜から第2次世界大戦までの半世紀、満州の名もない都市で繰り広げられる知略と殺戮」とあるので、本書の基本設定これだけでほぼわかる。「知略と殺戮」というところは、読後感からすると合ってないような気がするが。
 目次立てが「1889年、夏」からエピローグ扱いの「1955年、春」まで全18章。ほぼ20世紀前半の満州を扱って、若者が年寄りになるまでの、また親と子の2代の物語として主要人物は多岐にわたる。そのうち数人が主人公格として扱われているが、若者として登場しのちに重鎮となるまでを、第1章で軍人スパイの通訳として姿を現す21歳の細川が代表し、主要登場人物の子息として途中から現れ最後まで物語をひっぱっていく明男が後者を代表する。そして主要な舞台として戦争がらみで突然街となり日本の敗戦と共に消えゆく都市の現地側権力者孫悟空(ソン・ウーコン)とその娘丞琊(チョンリン)もその設定を反映し、一種の狂言回しにエキセントリックなロシア人神父がいるという案配である。
 この都市に係わる日本人は軍人もいるけれど、基本的には建築や都市計画の知識人タイプの者である。抽象的には街神話でありそれはこれまで欧米や南米で書かれてきたもののバリエーションである。もちろん満州であるからそこには日本の傲慢と敗退、現地の混乱そしてロシアと中国共産党の暗躍がある。しかし、満州ものとしてのリアリティは当方からするとやはり作りものに見えてしまう。まあ、それは当方の仕事柄仕方が無いとしよう。
 当方が現役時代にやっていた仕事は昭和20年代半ばから始まったものだが、当時その仕事をやっていたのは敗戦後地元に帰った満鉄図書館のOBだった。彼は満鉄からパリ大学へ地理学を学びに行き、満州の地理について論文を書き、満州地方の地理や接収した満州の図書館の調査などを担当していた。当方が90年頃にこの仕事に就いたとき彼は大分前に鬼籍に入っていたが、その仕事自体は昭和30年代に単独で編集執筆した3巻に及ぶ市史という形で残っている。ただし、彼が満鉄図書館のOBであることは知られていたが、生前の彼と付き合いのあった地元の人たち(今や故人ばかりだ)に聞いても彼の満鉄時代の話ができる人は居なかった。その名前は21世紀に入ってググれるようになると、日本支配下の満州図書館の研究や戦前の満州の様子を研究する論文などに散見されるようになった。

 いくらSF好きでもちょっと気分転換にと読んだのが、梨木香歩『椿宿の辺りに』。タイトルは「つばきしゅくのあたりに」と読ませる。以前読んだ『f植物園の巣穴』の続編らしいというので手に取った次第。朝日文庫7月の新刊で、親本は2019年5月刊。
 『f植物園の巣穴』の細部はとうに忘れているので、まったくの白紙状態で読んだけれど、主人公の曾祖父が植物園に勤めていたというのが前作との繋がりらしい。
 話者の語りは丁寧語的で勤め先が化粧品関係の研究所と云うので、てっきり女性かと思ったら山幸彦(通称山彦)という男性だった。かれは常時何らかの痛みを抱え、激痛時にはペインクリニックにとびこむという不便な生活を強いられている。彼には同様の体質を持つ海幸子(海子)という従妹がいる。となれば何でこんな名前を親が付けたのかという話になるが、その途中で行ったこともない遠くにある親の実家に住む宙幸彦から手紙が届き実家は空き家になったと知らされる。そこへ危篤状態の祖母の依頼や海子に紹介されたアヤシイ鍼灸師の霊媒系女亀子(カメシ)やらが絡んで、山彦は親の実家に出向く羽目になる。その場所は昔「椿宿」と呼ばれていた・・・。
 語り手こそ男性だけれど、取り巻きは基本女性ばかりで、いかにも梨木香歩のボワーっとしたスーパーナチュラルが炸裂する話である。SF疲れに読むにはいい作家だ。

 柞刈湯葉『まず牛を球とします』は、作者あとがき(解題付)を含めて15篇、300ページたらずの短編集。ということでショートショートがいくつも入っていてなおかつ短篇も短いものが多い。
 既読は表題作と「ルナティック・オン・サ・ヒル」でどちらも大森望偏『NOVA』に収録されたもの。表題作は見学者に牛肉製造を見せる担当者のグチで読ませるが、じつはポストヒューマンもの。後者は月を舞台に月人と地球人が戦闘中というもの。「ルナティック」というだけあって、ちょっと狂っている。解題ではビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」もじりのタイトルといっているけれど、内容はピンク・フロイド『狂気』でしょう。
 「犯罪者には田中が多い」は人気が低空飛行の漫画家とその編集者の会話劇。レッテル貼りと人気の移ろいやすさをネタにしたサタイア。続く5篇はショートショート。
 「石油玉になりたい」は、人類が宇宙に進出した時代に、「石油玉」になりたいという女性と付き合っていた男性が、彼女の死後石油玉になった彼女を受け取る話。生物学ハードSFか。「東京都交通安全責任課」「天地および責任の創造」は作者が言うとおりどちらも責任をテーマにしたサタイア。前者は責任を役所勤めの職員が取るようになった世界。後者は天地創造時のヘビの悪知恵が圧倒的な話。「家に帰ると妻が必ず人間のふりをしています」はポストヒューマンな日常生活。「タマネギが嫌い」はタマネギぎらいの小惑星ハンターがタマネギ様のものを拾う話。作者はタマネギ嫌いなんだそうな。
 「大正電気女学生~ハイカラ・メカニック娘~」タイトルだけ見ると、女学生アンドロイドとの百合ものみたいだが、視点人物はヘッセを原文で読む4年生、そこへメカ大好きな5年生(最上級)が絡んで、4年生は彼女のためにドイツ語のアインシュタイン論文を読む羽目に、というもの。ヘッセを絡めてささやかで爽やかな1篇。
 「令和2年の箱男」は安部公房の『箱男』に範を取った話。主人公がVチューバー・デビューを果たした手足以外「箱男」が巻き起こす社会現象と21世紀となった現代の感覚を描いたもの。
 「改暦」となれば、また江戸時代かと思ってしまうが、これはクビライハンの大元時代での話。元といえども、日蝕などの予言は必要で、それは漢人の天文担当が担っていたが、実はそれまではある理由で日蝕予言が外れても問題なかったのに、西域の回教国では正確に日蝕を当てるらしいという話が伝わり・・・江戸時代物の後ではちょっと新鮮。
 本来のトリで本書に書き下ろしたという「沈黙のリトルボーイ」は、昭和20年8月6日、広島県物産陳列館(現原爆ドーム)のドームに不発のリトルボーイが突き刺さっているという悪夢のようなイメージが鮮烈な1作。
 「新タマネギの不在を乗り越えるために(あとがきにかえて)」は、新タマネギにこと寄せたSF論に、巻末のボーナストラックまでを含めた解題から成っていて、後で内容を思い出すのに便利である。しかしタイトルが長いねえ。
 「ボーナス・トラック・クロモソーム」はあとがきの「新タマネギSF論」を実践した1作。かなりハードな作品だけどちょっと感動する。

 これはうれしい現代スペース・オペラがまた始まった。
 林譲治『工作艦明石の孤独1』は、ワープが原理不解明のまま使用され、人類の宇宙進出が進んでいるものの、人口の集中、高度な知的インフラ及び先端技術の製品などは地球圏が一手に握っているという状況で、人口150万人しかいない辺境のセラエノ星系に地球の宇宙軍の偵察戦艦がワープアウトしたが、それは本来狂わないはずのワープアウト位置のズレを観測していたところから始まる。
 まだ第1巻なので、メインプロブレムは、ワープアウト異常が引き起こす、星系の孤立化懸念がメインだけれど、戦艦の艦長やセラエノ星系の首相また表題である工作艦明石の船長及び主たる技術者など全員が女性という登場人物配置は今風で、ハードな宇宙SFの側面を維持しながら、相変わらずイケイケな雰囲気が充満する。
 今回これを読みながら思ったのは、現代スペースオペラのリアルな宇宙に、意外と作者の個性が反映しているのかもということだった。それは林譲治の宇宙の黒と谷甲州の宇宙の黒は色が違うんじゃないかということである。当たり前といえば当たり前だけれど、今頃になって気がついた次第。ただし神林長平の「雪風」の宇宙は特殊なので、林譲治や谷甲州の宇宙とは較べられないと思う。
 ちなみに当方は現役時代、実際の「工作艦明石」に乗ったことのある工廠技術者(この方も今や故人)にインタビューして手記を書いて貰ったことがあり、ワイヤーでサメを釣ったりしてなかなか楽しそうであった。

 オビに「帝政ロシア×百合×SF」とあったので読んでみたのが南木義隆『蝶と帝国』。すごく特殊な育ち方をした少女の一代記だけど、当方にはお呼びでない作り方の作品なので、これ以上のコメントは無し。

 次回まわしにしてもよかったんだけど、読み終わってしまったので取り上げておくことにしたのが、円城塔『ゴジラS.P シンギュラポイント』
 『本の雑誌』などで書きあぐねている様子が伝わってきていたけれど、読んでみればナルホドねえ、と思わせられる1作だった。
 アニメは見ていないので、映画の『シン・ゴジラ』からの類推しか出来ないけれど、人間界の事情はコメディ・タッチ、ゴジラ系統の現象を成立させる異次元現象「紅塵」はハードSF、そこへウルトラQにはじまる特撮ものも絡ませて、実際には繋がった話かどうかもアヤシイんだけれど、そこは芦原将軍伝説という意味不明な仕掛けとシンギュラリティなAIが語り手になることで読者を煙に巻いてしまうと云う離れ業。
 無かったことはなかったことにしておこうというのが教訓なのか。アニメは見るべきなんだろうなあ。

 ノンフィクションは1冊。
 前回ひと月に読めた本の数が減ったのは、『疫神記』のせいだと書いたけれど、じつはもう1冊、山本義隆『重力と力学的世界 古典としての古典力学』上・下のせいでもあった。昨年3月ちくま文庫刊。以前山本義隆訳のニールス・ボーアの論文集をとりあげたけれど、まったく数式が理解できないのにときどきこういうものが読みたくなることがある。これも以前感想を書いたラプラスの『確率の哲学的試論』とかね。高校から浪人時代に3年間も理系にいたトラウマかも。
 これはあとがきによると、山本義隆の初期単行本らしく、親本は1981年に現代数学社から出されていて、40周年記念に文庫化されたみたい。また著者はあとがきで本〈昨)年中80歳になると書いているので、傘寿記念の意味もあるかも。
 で、これは何かというと、副題に「古典としての古典力学」とあるように、大学などで教える物理学ではもはやいちいち、原典を読むようなことがなくなったのは学問の効率上当然だが、ここはまず原典を読みながら力学的世界像の変遷をたどってみようではないかという試みなのである。著者は「要するに、完成された体系としての力学理論ではなく、歴史形象としての、時代の世界観としての、古典力学を書きたかった」と巻末に書いている。もともと『現代数学』という雑誌に連載されていたというだけあって、数学音痴にはどういう操作をしたらそんな式に置き換わるのかサッパリわからない説明が頻出するのだけれど、「歴史形象」や「時代の世界観」の説明はよくわかる。
 西欧における重力と力学的世界観をみるのに、著者はケプラーの有名な地球の楕円軌道のアイデアから始めている。近代的物理学による世界観の始まりをケプラーにおき、ニュートンの距離の二乗に反比例する重力は2番目なのである。「コペルニクス的転回」はまだ中世側に置かれている。
 この作品を読んでビックリしたのが、ニュートンは自分の重力の発見を「重力は物の本質ではない」と言い切っていることだ。ニュートンは引力を発見し、それを定式化したが、カミサマの教え(教会の聖書解釈)に反する気持ちは、少なくとも表向きは、なかったということをはじめ、俗物的な言動と名声/悪名も手際よく紹介されている。
 もうひとつビックリしたのが、ニュートン/英国派とテカルト一派/大陸派の争いがいわゆるエーテルの存在をめぐるものだったとということ。デカルトはその論理の示すところにより媒介なしに力が伝わることを否定して、空間には何かが存在しなければならないとしてエーテルに理論的お墨付きを与えたと紹介されている。もちろん最終的にはニュートンに軍配は上げるのだけれど、18世紀に入っても大陸の数学/物理学者たちにはニュートンの重力は不評だったらしい。
 あと面白かったのが、かのオイラーの紹介の仕方だった。オイラーは18世紀に現れた数物理学の天才たちを代表する人物で、物理学から形而上学を追い出した業績を高く評価し1章を当てている。しかしその中身を読むと、数学者としての名声は生前から赫たるものがあり、その才能がもてはやされていたけれど、主な活躍の舞台はロシアとプロシアで、かなりの俗物根性の持ち主だったらしい。また、オイラーが数物理学史のビッグネームなのに、思想史ではまったく取り上げられないのはなぜかと云うことについて、オイラーの才能は数学(解析学)を洗練させた功績が大きいが、重力理論についてはほぼ最後まで大陸派として間違った力学的世界観を支持して、思想史的な役割を担えなかったからだとしている。
 この本が面白いのは、50年くらい前、一時人口に膾炙するようになったいわゆる「パラダイム変換」が、実例として非常に詳しく鮮やかに描かれているからだろう。


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