続・サンタロガ・バリア  (第228回)
津田文夫


 前回映画でも見てこようとと書いたので、地元の映画館ではまだ上映中だった『孤狼の血 LEVEL2』を見てきた。1作目は大神刑事のお陰でなかなか重厚だったけれど、こちらはヤクザものファンタジーの度合いが強く、エピローグが、降格されて田舎の交番巡査になった主人公が、町の人々と山狩りに入って道に迷った先の祠の上に、ニホンオオカミの幻を見るところで幕切れとなっているので、作っている方も分かってやってるみたいだ。 映画はもう1本、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督版『DUNE』をみた。珍しく奥さんが見たいというので、二人して電車に乗って一番近い上映館まで行ってきた。
 映画は原作をほぼ忠実に映像化したといえるもので、ハルコンネン家とサーダカーによるアトレイデ家壊滅シーンがとても今風な映像だったわりにはモタモタしていてサスペンスに欠けていたのがちょっと不満なくらい。PART1なので、ポールが砂漠の民に受け入れられ多ところで終わっているのだけれど、これって原作を知らない人でも面白いんだろうか。
 当方は奥さんと矢野徹訳石森挿絵版『デューン砂の惑星』の思い出話が出来たのでそれで良かったけれど。

 すっかり忘れていた京フェスは、イマジニアンの会の宮本会長のメールで思い出した始末。一応登録してDiscodeをダウンロードしたまでは良かったが、当日はDiscodeの使い方が分からず、家の方でも気が散ることが多く、結局橋本輝幸さんのお話を少し聞かせてもらっただけで終わってしまった。何のコメントも残さずに終わったので、京フェスの皆さんにはお疲れさまでしたとここに書いておこう。

 SF読書歴が半世紀にわたるといっても、読んでない有名SFは例えば『鋼鉄都市』のようにいっぱいある。
 今回数ある積ん読有名作の消化に選んだのは『広瀬正・小説全集1 マイナス・ゼロ』である。昭和52年3月初版、学生時代に買いそろえた6巻本の1冊。
 本当に読んだことがないわりにはタイムパラドクスがスンナリ了解されてしまうのだが、まあ現在では当然のことだとはいえ、非常によくできた仕掛けであることには変わりない。しかしこの物語の衝撃は、1963年の主人公が行った昭和7年(1932)の東京銀座の風景描写に代表されるリアリティにある。
 1963年すなわち昭和38年が主人公の基準点となっているが、その昭和38年よりも昭和7年の東京がこの物語を支えている。ハインラインが示したタイムパラドクスの面白さを自家薬籠中にした作者のSF魂は、しかしVRでは再現できない東京の風景/風俗を想像できたことで永続しているのだ。
 広瀬正がこの処女長編を出したのが昭和45年(1970)で46歳の時。そして2年余り後に亡くなっている。
 ちなみに県立図書館HPで県内公立図書館横断検索してみたら、現在この全集を所蔵しているのは1館だけでそれは県立でも広島市でもなく福山市だった。見事に忘れ去られているなあ、といささかショックであった。

 SFプロパーの新刊が少ない時期に読んだのが、文庫化された多和田葉子『地球にちりばめられて』。この作者の作品を読むのは『献灯使』以来、2冊目。
 裏表紙の梗概に「留学中に故郷の島国が消滅してしまった女性Hirukoは、大陸で生き抜くため、独特の言語(パンスカ)をつくり出した。(中略、彼女は知り合った言語学専攻の青年と共に)世界のどこかにいるはずの自分と同じ母語を話す者をを探す旅に出る」とあるが、実際の作品は(パンスカ)が汎用スカンジナビア語を意味する様に舞台はほぼ北欧と南欧だけだし、目次を見れば、各章題が「クヌートは語る」「Hirukoは語る」「アカッシュは語る」「ノラは語る」と、ちょっと変なのも混じるが各視点人物の語りで一つの物語が進行するというコメディもしくはミュージカルに近いタイプの作品である。
 SFファンにアピールするような「消滅した島国」自体に関するあれこれに登場人物の関心が向くことはなく、あくまでHirukoと同じ母語を話す人物を探し出すことだけが物語の主眼である。そのような軽味を前面に押し出したリーダビリティの高い作品にもかかわらず、読後感は石沢麻衣『貝に続く場所にて』によく似ている。いや『献灯使』に似ているのか。
 解説で池澤夏樹が『日本沈没 第2部』を引き合いに出しているけれど、さすがに比較にならないでしょう。

 1989年出た美麗な箱入りの初版本を持ってるはずなのに結局文庫で読んでしまったのが、中野美代子『契丹伝奇集』。1933年生まれの中国文化史の専門家でいまや北海道大学名誉教授になってしまった作者だけれど、この作品集は1960年に「三田文学」に発表した中華幻想小説から1985、6年に書かれた1ページの短文作品7つをまとめた「翩篇七話」まで著者の四半世紀にわたる短篇を集めたもの。
 まだ20代半ばだった頃に書かれた1960年「青海 クク・ノール」や「敦煌」を読むと、その想像力のたくましさと瑞々しさが感じられて、これが福島正実のアンテナに引っかかっていたのかが気になった。この短編集の冒頭に置かれた1980年の『海燕』に掲載された「女俑」などは最早手練れによる魔術的な作品へと変貌していてオールタイムベスト級の仕上がりを見せている。
 著者が跋や文庫版あとがきでいつか書くであろうと云っていた『塔里木秘教考』は、どうやら2012年に出版されていたようなので、何時になるか分からないけれど読んでみよう。

 ゆっくりだけど着実に書き続けているらしい門田充宏『蒼衣の末姫』は、帯に謳われているようにファンタジー(いわゆるハイ・ファンタジー)。おまけに典型的なボーイ・ミーツ・ガール(不定冠詞がいるな)みたいな惹句なので、あまり目立たない作品のように思われそうだが、けっこう分厚い舞台設定/世界構築が成されていて読み応えがある。まあ、少女が少年と出会う話しにゃ違いないが。
 バーサーカーみたいに執拗に人間族を殺す生物群がいて、人間側はその生物を殺す特殊なやり方を心得た女性たち(姫)と護衛部隊が防禦するのだが、かれらを支える人間集団はいくつかの職能集団に別れており、それぞれの集団に属す一般住民は他の職能集団とあまり付き合いがない。そんな中、低能力の姫の一団が戦いに敗れ、姫はあらゆる生き物に毒だという川に流されるも、この世界で使われている便利生物の餌をつくる集団の少年に助けられる・・・。
 こんな冒頭のあらすじの中に現れるひとつひとつに分厚い設定がなされていて、それがSF的な感触をもたらす。多数の登場人物たちのコントロールもよく、作者の上達ぶりが窺える。
 気になるのは『蒼衣の末姫』というタイトルがパッと見に読みにくく、地味な印象なので損をしているかも知れないということ。

 永享11年(1439年)と年代を明らかにして始まるのが、魔が見えない陰陽師の兄と魔が見える坊主の弟が活躍する連作短編集、上田早夕里『播磨国妖綺譚』。2019年から今年にかけて『オール読物』に発表した6編をまとめたもの。
 妖怪譚としては以前の『妖怪探偵・百目』シリーズのような派手なエンターテインメントではなく、日常的な静かな暮らしの中に現れる妖怪やそれに類するものに兄弟が対処するという穏やかなスタイルで書かれている。
 第1話で人外のもが見える弟がその昔蘆屋道満の式神だったという鬼に見込まれる物語が語られるが、その後の話はこの鬼が弟とともに兄を助けて事件を落着させるというパターンを取る。
 丁寧に作られたエンターテインメントで、毎回40ページほどにきっちりと収めるワザも含めて、ベテランらしい仕事である。

 アンソロジーで2作のSFを読んで結構気に入ったので読んでみたのが、深緑野分『カミサマはそういない』というタイトルの短編集。こちらは『小説すばる』に発表された6編に書き下ろしのショートショート1編を加えたもの。ちなみに収録作品にタイトル作はない。
 タイトルからする軽めのコメディかサタイアを思わせるが、実はノワールな味わいのイヤミス的なストーリーがならんでいる。
 冒頭の「伊藤が消えた」は、ルームシェアをしていた3人の若者のうち伊藤が部屋を引き払って出て行ったのだが、残った方の視点人物に伊藤の父親から息子と連絡が取れないという電話がかかってくる・・・。典型的なノワールで昔のフランス映画を思い出した。
 次の「潮風吹いて、ゴンドラ揺れる」はその叙情的なタイトルとかけ離れたループ・ホラーなダーク・ファンタジー。遊園地のゴンドラで目覚めた視点人物の少年はどこか見覚えのある黒焦げの死体を目にする・・・。視点人物の語る内容は「伊藤が消えた」の視点人物と同様に非道なもので、作者のノワール愛好ぶりが窺える。
 「朔日晦日(ついたちつごもり」が書き下ろし。神無月、兄の目に砂のような斑点が見えだし、それは眼を覆うように増えていく・・・。ヨーロッパに子供の眼をくりぬく魔物の話があるけど、こちらはカミサマが絡む。
 他の収録作のタイトル「見張り塔」「ストーカーVS盗撮魔」「「饑奇譚」の3作は物語こそまったく別だが、どれもSF/ファンタジーのディストピアものと云っていい。そして視点人物に救いはない。この3作はどれも年刊SF傑作選の候補になるレベルと思われる。
 最後の「新しい音楽、海賊ラジオ」は、大都市が海中に没した時代に電波も制限されてひと月5曲しか新曲が聴けないなか、海賊ラジオの噂を耳ニした主人公の少年が海賊ラジオ局を探しに行く話で、希望を感じさせる結末を迎える唯一の作品。
 こうしてみるとこの作者の短篇には、過去にあった物語のアイデアに更に一ひねり加えて新しい物語を紡いでいるような、そんな感触がある。

 最近出た翻訳SF3冊が充実した読書時間を与えてくれたので結構嬉しい。
 国書刊行会のスタニスワフ・レム・コレクション第Ⅱ期の初回配本が、『インヴィンシブル』で、あの『砂漠の惑星』のポーランド語原書からの新訳。
 『砂漠の惑星』を読んだのは20歳くらいの時で、もちろん早川SF全集版。『SFマガジン』で大野万紀さんも書いているように、小難しい『ソラリス』より、「キュクロプス」と「雲」の戦闘シーンの大迫力に圧倒された記憶が強く残っている。
 45年ぶりに新訳で読んでみると、レムのテクノロジーに対する目の確かさとソラリス同様宇宙は人間のためにあるのではないという信念に貫かれていることがよく分かる。小説としては非情にシンプルで『ソラリス』のような多面体的旨味はないけれど、その分レムの伝えたいことはストレートに伝わるし、エンターテインメント性も高い。しかし、年寄りになって「キュクロプス」と「雲」の戦いを読むと、若いときに圧倒された大迫力が、そういえばスズメバチに巣を攻撃された蜜蜂は大集団でスズメバチに取り憑いて体温を上げることで倒すんだっけなどと余計な知識が邪魔をして、散漫なっていたのは残念。まあ、若いときほど集中力が無いのは当然だから仕方ないか。
 60年近く前の作品なので、テクノロジーにデジタルが使われていないけど、SFとしてのリアリティに不足がないというのはすごい。『インヴィンシブル』と『デューン 砂の惑星』(個人的には『わが名はコンラッド』も)がほぼ同時に書かれていたなんて、いま思うと目眩がしそうだ。

 出るまで気がつなかったのが、牧眞司編/R・A・ラファテイ『町かどの穴 ラファティ・ベスト・コレクション1』で、ちょっとビックリ。
 ラファティを注目すべき作家として意識したのは、もちろんSFマガジン1972年8月号のラファティ特集だったけれど、メリルの年刊傑作選で読んだ「せまい谷」と「カミロイ人の初等教育」が面白かったので、むしろSFマガジン掲載作は分かりにくかったような記憶がある。
 そういう意味で、この牧眞司さんの渾身のセレクトである目次を眺めていると、編者の「アヤシイ編」という思いとは別に、「ハード編」という感じが湧いてくる。あれから50年、いまは読者もソフィスティケートされているから、いきなり表題作や「山上の蛙」を読んでそのスゴさが了解されるんだろうけれど、まあ、これだけ剛速球を投げ込まれて満腹しない読者もそうはいないとおもわれる。
 ということで数編を除いて再読再々読3読ばかりだけれど、1作1作がガチガチのラファティ世界で出来ているので、超ヘヴィな読後感が続いている。はやく「カワイイ編」を読まないと地面に沈んでしまうぞ。

 前作がとても面白く読めた「弊機」こと「マーダーボット」シリーズの長編、マーサ・ウェルズ『ネットワーク・エフェクト』はあいかわらず絶好調で、寝る前に読んでいると睡眠不足になる面白さ。日本翻訳大賞を受賞したという中原尚哉氏の名調子はますます磨きがかかっている。それにしてもARTってラジェンドラにそっくりだなあ。
 ということで、云うことはあまりないのだけれど、前に最近の女性SF作家の書くスペース・オペラがどうしてこんなに面白いのかSFマガジンで特集して欲しいと書いたら、この本の解説を担当している堺三保さんがそれについて書いてくれていた。
 引用すると、マーサ・ウェルズの作品の面白さの拠って来たる所は「つまり、SF的なアイデアの斬新さよりも、登場人物や社会の描き方の新しさで勝負しているところが、読みやすさとおもしろさにつながっているのだ」ということらしい。このあとさんぽさんは最近訳されて話題になった多くの女性SF作家の作品を挙げて、「いずれの作品も、銀河帝国や宇宙交易、異星人とのコンタクトや宇宙開発などといった、SFにとってはお馴染みの題材に、ジェンダー問題や異文化交流問題といった観点を絡め、現代的なアイデアを加えて語っているところが特徴的だ」と敷衍してくれている.あと引用はしないけれど、遠未来を舞台にするのは、近未来だとどうしてもディストピアものにしかならないからということもあるらしい。
 さんぽさんの解説にもあるように、昔は「男の子のもの」といわれたSF/スペース・オペラも書き手に女性がどんどん参入してくる時代になったわけで、昔ミステリに起きたことがSFにも起きつつあるということかも知れない。もっともこのあいだ読んだカリン・スローターなんかのミステリは、暗くて現代がディストピアであることを証明しているような物語だったから、遠未来を舞台にした楽しいSFが読めるのは幸せと云うべきか。

 順調に巻を重ねている『GENESIS 創元日本SFアンソロジーⅣ 時間飼ってみた』は、第12回創元SF短編賞の正賞、優秀賞受賞作を入れて全8編を収録。ほかに特別寄稿として鈴木力氏の創元SF短編賞のこれまでを振り返るエッセイが付いている。
 巻頭は小川一水「未明のシンビオシス」。タイトルからは何の話だか分からないが、「大分割(クラックド)」と呼ばれる巨大地震のような災害で守るべき人間家族を失ったアンドロイドが、そこへ泥棒に入ろうとした女性を新しい保護対象としてしまい、女性が目指す北海道への道行きをアンドロイド視点で描いたもの。一種のバディものといえるか。安心して読める。
 このアンソロジーの2巻目でデビューしたという川野芽生「いつか明ける夜を」は、月明かりを昼と呼ぶ闇に包まれた世界で、危機が迫るとき馬に選ばれた英雄がやってくるという云い伝えがあったが、実際にやってきたのは闇の中を走る少女を乗せた子馬だった・・・、というもの。作者はこの物語を「少女」「英雄」「館」などのタイトルをつけていくつもの短章に断片化して語る。なかなか新鮮な1作。
 宮内悠介「1ヘクタールのフェイク・ファー」はいかにも作者らしく、気がつくとアルゼンチンにいて、スペイン語も分からないのに何故か若い女性と同棲していて、ひょんなことから彼女を怒らせて家を追い出されてしまう、わずかな小銭と彼女の元カレの服を着たまま・・・。ということで、あいかわらず世界放浪の余録みたいなへんてこで甘い物語が進行する。
 「ときときチャンネル#2」とシリーズ名がついた宮澤伊織の表題作は、語り手の女子が同居人の天才科学者の女性をネタにユーチューバーみたいに配信して登録者数を稼ごうというスタイルのコメディ。今回は天才科学者の部屋になんだかペットの動物みたいなのがいて、それは時間だった・・・というもの。ハードSFネタの漫才ですね。
 集中いちばん長い作品が小田雅久仁「ラムディアンズ・キューブ」。人に道を聞かれやすいとか痴漢に遭いやすい体質らしいアラサー女性が、家のある越川市に帰る列車の中で、たまに見かけるKという男性と目が合ってしまい、何やら強烈なモノを感じてしまったがKもそうらしい・・・一目惚れでもないのにと気になった女性が、駅で降りたKをつけていたら、「ラムディアン・キューブ」が出現、越川の町はまるごと閉じ込められ、駅の真上に現れたラムディアンの箱舟から異形のものがやってきて人間たちを処分しはじめる・・・。と、なんだかよくわからないが、読んでいるうちに女性は宇宙卵をはらみ、Kはその守護者になっている。ちょっとケン・リュウの短篇を思い起こさせる異色作。
 高山羽根子「ほんとうの旅」は、いつも空いてると知人から聞いて乗った寝台列車が案に相違して超満員になって夜寝ることが出来るんだろうかと心配になるほどだったが、言葉はカタコトしか通じないにしても乗り合わせた女性とコミュニケーションすることで、この満員の原因が「ほんとうの旅」のせいであると分かる。視点人物は「聖地巡礼」みたいなものかと考えるが、相手の答えはいくら訊いてはっきりしない・・・。と、タイトル自体が謎な話になっていて、いかにもこの作者らしい1編。
 優秀賞受賞作、溝渕久美子「神の豚」は10数年先の台湾が舞台の近未来SF。SF的設定は控えめで、人間はもちろん犬や豚などにも感染するE型インフルエンザの流行後、豚もすべて処分されている時代という程度である。主人公の女性は街で働いているが、次兄から長兄が豚になったという電話も受けて実家へ帰る所から始まる。
 ストーリーのメインは、実家のある町に伝わる、各地区が捧げ物に大きな豚を出していた祭で、その祭はいまや本物の豚の代わりにハリボテなどを使うようになっていたが、主人公のグループは3Dフードプリンターで人工肉の豚を出そうと奮闘する、というもの。兄が豚になったという方の話の解決は作品内で現実的な結末を迎えることもあり、SFらしさは薄いが、小説としては抜群に面白く、高山羽根子の後で読んでも引けを取らない。
 その点、正賞受賞作松樹凜「射手座の香る夏」は、動物にヒトの意識を乗せることができるというガジェットを使ったいかにもよくできたSF作品で、あまりにもSFらしすぎて、いま書かれているSFとしては正統派すぎる感じがある。
 アンソロジーとしてはあいかわらずバラエティに富んでいて、今回は小田雅久仁作品が、評価は別として、突出した1冊となった。

 先月はノンフィクションを何冊か読んだのだけれど、そのうちから1冊取り上げておこう。
 ジェニファー・ダウドナ/サミュエル・スターンバーグ『クリスパー CRISPR 窮極の遺伝子編集技術の発見』は御存じノーベル化学賞受賞者の一人が執筆協力者と共に書いた発見物語。原書が2017年でその年のうちに翻訳された単行本の文庫化。2ヶ月で訳したという訳者あとがきが可笑しい。文庫化にあたって手入れはしたと書いてあるけれど、まあそうでしょう。
 前半が発見に至る物語と、その後の科学界のてんやわんやで、後半がおそらく作者が願いを込めたところと思われるが、クリスパー技術の応用可能性とこの技術に関する社会的認知が正しい情報開示によって成立するように著者が行ってきた努力と希望を語っている。
 とはいえ読み物としては前半の発見物語がやはり面白い。著者はもともとスプライシング・リボザイムという、RNA分子を特定の部位で切断したり低分子の物質と結合させる働きを有する酵素活性をもつRNAに関する研究者だった(これはWIKIの説明)。また父の死因がガンだったこともあり、それが遺伝子治療に貢献するかも知れないと考えてはいた。そんな彼女が「クリスパー」を初めて耳にしたのが2006年で、当時UCバークレー校の同僚だがそれまで付き合いの無かった地球惑星科学部と環境科学・政策・管理学部兼任教授の女性がクリスパーを研究していて、RNA干渉に詳しい専門家を求めて同僚に著者がいることを知って連絡を求めて来たとき、はじめてクリスパーという言葉を聞いたのだった。
 そしてCRISPRがClusters Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats というバクテリアのDNA領域を指す略語(LASERみたいなもんですね)であることを知る。それは細菌の塩基配列の中に現れる回文構造のことだった。そして著者はクリスパーについてRNA干渉の専門家として熱心に研究することになり、その結果クリスパーRNAに細菌のDNAを正確に切断出来る可能性があることが分かったのだった。そして何がその正確な切断を可能にするのかという研究が、クリスパーDNAには必ず近くにクリスパー関連遺伝子であるCas遺伝子があり、これがDNA切断の指示機能を有しているらしいことが分かった。問題はどのタイプのCas遺伝子かと云うことになり、2011年、ここでもうひとりのノーベル化学賞受賞者エマニュエル・シャンパルティエが登場しCas9の可能性をほぼ探り当てた。実際は大勢の研究者がさまざまな実験をして発見につながったのだが、著者が原動力になったのは間違いなさそうである。
 本書の最後で著者は基礎研究の重要性を説いているが、セレンディピティはやはり基礎研究の宏大な領域の中で起きるらしい。
   


THATTA 402号へ戻る

トップページへ戻る