内 輪   第339回

大野万紀


 恒例となっているハヤカワの「SFが読みたい!」年間ベストアンケートの締切が11月26日で、それまでに何とか話題作、注目作を読もうとしているのですが、今年もたくさん積み残してしまいました。昔にくらべて、とにかく読むのが遅くなっています。これは電子書籍でも紙の本でも同じで、電書だから早く読めるということもないようです。
 で、アンケートに答えるのに以前に読んだ本を読み返したりしていて、ますます新刊が後回しになります。そんなわけで、今月の書評は3冊のみ。でも、ごっついのを何とか読み終えたので、良しとしましょう。とはいえ、『零號琴』などほとんど第一印象みたいなもので、これを消化してちゃんと納得するには、もっと時間がかかるんだと思います。
 そんなこんなにもかかわらず、ついつい面白そうな本を目にしたら買ってしまう。特に一般向けの科学書はいつ読めるかもわからないまま買い込んでしまいます。たいてい奥さんの方が先に読んじゃうんですけどね。
 そんな中でこの前本屋で見かけて衝動買いしてしまったのが、最新版の『理科年表』です。以前はよく買っていたのですが、たいていのデータがネットで見られるようになって、ご無沙汰していました。本として買ったのはいったい何年ぶりでしょうか。でもパラパラ見ているととても面白いのです。えっと驚くようなデータがあって、好奇心を刺激されます。
 巻末に対数表がついていて、その昔は丸善の対数表にとてもお世話になったのを思い出します。さすがに今はほとんど対数表を使う人なんていないんでしょうね。本屋にはもう売っていませんでした。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ハロー・ワールド』 藤井太洋 講談社
 著者曰く本書は「私小説」である、ごく近未来の、IT技術者と世界との関わりを描いた連作長編。小説現代に掲載された4編と書き下ろし1編を含む。
 タイトルは「ハロー・ワールド」だが、もちろんこれは、Hello, World! のことである。その昔ぼくもお世話になった、カーニハン&リッチーの名著、かつてのプログラマーのバイブル『プログラミング言語C』に出てくる、一番最初のプログラムだ(ただしK&R版では hello, world だったはず)。
 今からほんの数年後――ほとんど現在の話であり、それはこうあってほしいという、今からつながる未来の物語でもある。
 主人公は著者自身を思わせる(「私小説」!)特に専門を持たない何でも屋のITエンジニア。プログラムも作ればドローンの営業もする文椎泰洋(ふづいやすひろ)だ。彼は決して凄腕のハッカーなどではなく、色んなことを少しずつできるが、専門のプログラマーにはとてもかなわない、エンジニアとしては並以下であると思っている――いや、それってすごい謙遜でしょう。彼は十分な能力のあるプログラマーだ。ま、とりあえずウィザード級じゃないってことだろう。彼はエッジ社という企業に一応所属しているが、相当に自由な社風の会社で、一つのプロジェクトにかかりきりではなく、好き勝手なことをさせてもらえている。
 表題作の「ハロー・ワールド」では、そんな彼が趣味で作ったiPhone用の広告遮断アプリが、インドネシアの一部地域で異常に高い売り上げを記録する。彼と仲間たちは疑問に思って、その理由を調べるのだが……。
 この作品で描かれる主人公の自由や公正への視点、見えない人々とのつながりや無償の支援という方向性はその後の短篇へも引き継がれ、後半になると彼の生き方を強く左右するようになる。しかし、それは例えば政府と衝突することになっても、反体制を命がけで貫くといったものではなくて、生きること、普通に生活することをこそ重視する姿勢なのである。とはいえ、それは権力に尻尾を巻いてあきらめるということではない。自分にできる範囲で、したたかに、少しずつでもより良い方へと世界を変えていきたいとする。それも自分が(そして協力してくれる人々が)実際に手を動かして作り上げたアイデアと技術の力によって――。これにはとても共感を覚える。
 同名のアンソロジーにも収録された「行き先は特異点」は、主人公の本業であるドローン販売の話だ。アメリカへ営業へ行って、片田舎で自動車の接触事故を起こす。そこで彼の見たのは、GPSのプログラムのバグ(現実では対応済みのはず。例えばここ)により、特異点へと引き寄せられる機械たち――自動運転車、ドローンなど、GPS情報をもとに制御される自動機械たち――の姿だ。物語の末尾の、ドローンたちが渡り鳥のように群れる光景はすばらしく美しい。ぼくは読みながらじーんときた。知性があろうとなかろうと、機械たちだってこの世界に生きている。この感動は現実のものであり、そして優れたSFのものである。
 「五色革命」は、以前に藤井さんが講演で語っていた、タイで実際に遭遇したというデモに題材を取っている。文椎はバンコクのホテルで街中を埋め尽くすデモ隊に遭遇する。ホテルに入ってきた学生たちのリーダーは、彼の持っていた営業サンプルのドローンを奪い、デモの指導者の生中継を試みる。ところがそれが重大な事態を招く……。
 豊かさと自由には関係がない。その言葉が大きく、そして困難な意味をもって語られる。それはまた本書の基本的なスタンスでもある。文椎はここでその後の協力者となる人脈を手に入れる。
 「巨象の肩に乗って」では、中国におけるインターネット検閲への対抗手段となる技術の物語。現実には今中国でツイッターへのアクセスはできない。特殊な方法を使えば可能だが、その場合でもツイッター社が中国当局の検閲に協力しているとの噂がある。ここではそのツイッターが中国で解禁される。ということはツイッターが当局の検閲を認めたということだ。
 インターネットは自由であるべきだとする文椎はこれに憤り、マストドン(実際に存在するツイッターの代替となるシステム。その上に乗るから巨象の肩に乗ってなのだ)をベースに、通信を暗号化し、いくら検閲されてもすぐに別ルートでアクセス可能となる、通信の自由を守るシステムを、海外のNPOのサービスとして立ち上げる。一躍反検閲のヒーローとなった彼に、官憲の手が伸び、ついに彼は日本を脱出して国家に囚われない自由なインターネットの民となる。
 最後の書き下ろし「めぐみの雨が降る」はその後の集大成となる物語で、今度は『アンダーグラウンド・マーケット』で描かれた、国家の統制によらない仮想通貨がテーマだ。文椎は半ば拉致されるように中国へ連れて行かれ、中国が国家として推進しようとしている仮想通貨の立ち上げに協力するよう要請される。現在の、投資家のオモチャになってしまって、本来の通貨として普通に使える物ではなくなってしまった仮想通貨へのアンチとして、新しい構想の仮想通貨がここで描かれる。
 その仕組みは精緻で、ちゃんと理解しようと思うとかなり難しいのだが、それは国家のもつ納税といった力を利用しつつ、国家に統制されない、自由で無尽蔵で、モノやサービスと交換する時のみ価値をもつ、つまり投資対象ではない普通の通貨となるのだ。そしてビットコインのような膨大なコンピューターリソースを必要としない、どこまで現実的に可能なのかぼくの知識ではわからないのだけれど、そんな夢のような仮想通貨のシステムが実現する。ユニバーサルインカムも含まれていて、まさに普通の人々にとって「めぐみの雨が降る」ようなシステムなのだ。
 少しずつの、地味なアイデアと改良が、世界を大きく変えていく。様々なアンバランスが残っていても、不自由や抑圧がいつまでもなくならなくても、全体として少しずつ世界は以前より住みよいものとなっていく。アイデアや知恵を生み出す人々の科学が、そして現場で手を動かし汗を流す人々の技術が、未来をより良いものへと進めていくのだ。この希望こそ、作者がずっと描き続けているものであり、ぼくが読みたいと思っているものなのだ。
 それにしてもこのオープン・ワールドへの信頼感。それは、『Gene Mapper』の、何が起こるかも気にせず世界へ危険な情報を公開してしまう登場人物のように、危うい面もあるだろうし、批判的、冷笑的に見ることも可能だろう。でもぼくだって、ハロー・ワールド!と世界に向かって挨拶したいと思うのだ。

『などらきの首』 澤村伊智 角川ホラー文庫
 『ぼぎわんが来る』から続く〈比嘉姉妹シリーズ〉の短篇集。そうか、〈比嘉姉妹シリーズ〉というのか。なるほど。
 比嘉姉妹というのは、霊能力者の琴子、真琴、美晴で、とりわけ長女の琴子はすさまじい霊能力の持ち主だ。みんなキャラクターが立っていて面白い。また彼女らと関わるオカルト雑誌の編集者、野崎も出てくる。本書の収録作には比嘉姉妹と関係なさそうな作品も含まれているのだが、ぼくが読み落としているだけで、ちゃんと関係しているのかも知れない。
 「ゴカイノカイ」は貸事務所に「痛い、痛い」という子どもの声が聞こえるという怪談。オチはちゃんと真琴が締める。
 「学校は死の匂い」は学校の怪談もの。小学生の美晴が少女探偵の役を果たす。始めはそんなに怖くないが、だんだんと不気味な話になってくる。美晴はどこか危うく、オチはちょっと後味が悪い。それも含めて、本書の中でも読み応えのある一編である。
 「居酒屋脳髄談義」は居酒屋で、会社の部下の女性一人を囲んで聞くに堪えないミソジニーな会話をする男たちが、いつの間にか、という会話劇。ドグラマグラがモチーフになっていたり、そういう意味でも面白い。オチは痛快だが、たぶんこの女性は……。
 「悲鳴」は大学のホラー映画サークルを舞台にしたミステリタッチの作品。オタクってキモくってやーね、という話でもあるが、それが自己言及的にぐるぐる回っていく。というわけで、やっぱりあの後輩女子って……。でもはっきりとは書いてないよなー。これも読み応えのある作品だった。
 「ファインダーの向こうに」は心霊写真もの、というか、逆心霊写真という方がいいのか。ここには野崎と真琴が出てくる。恐怖よりも哀しみを感じさせるしっとりとした作品だ。
 表題作で書き下ろしの「などらきの首」は短いが、傑作ホラー。「ぼぎわん」とか「ずうのめ」とか「などらき」とか、こういう奇怪な4文字がタイトルにつくのは傑作のしるしだ。少年時代の野崎が謎解き役を果たすが、田舎の伝説をテーマにした不気味な話だ。それをオチがよけいに際立たせている。行ってはいかんというところに行くのはホラーの定番。それが来てしまうのは作者の定番か。野崎がちょっとカッコ良すぎる気もするが、まあ問題なし。

『零號琴』 飛浩隆 早川書房
 著者16年ぶりの第2長編と帯に書かれていて、それって売り文句なのか。SFマガジンでの連載終了からでも7年。まあご苦労様といいたい。ぶ厚い本で、しかも中身がぎっしり。「基本、お気楽な読み物」(著者あとがき)であるはずだが、読み終わったらとにかくお腹いっぱいになった。ちゃんと消化するにはもう少し時間が必要だろう。
 というわけで、以下はとりあえず思いついたメモのような書評である。勘違いもあるかも知れないが、それはそれで面白いかも。
 ぱっと読んだ印象は、90年代から00年代にかけて主にイギリスでひとつの潮流となった〈ニュー・スペースオペラ〉を思わせる。ストロスやレナルズの作品が代表的だが、そこではテクノロジーと政治の融合、悪ふざけ的パロディやユーモア感覚、クトゥルー神話やゴシックホラー的な要素のハイブリッド、そしてシンギュラリティを越えたポスト・ヒューマンの活躍などが描かれていた。またそれより少し古いが、奇怪でぶっ飛んだ設定を背景としたベイリーなどの〈ワイドスクリーン・バロック〉も想起させられる(確かにスペース「オペラ」よりもワイドスクリーン「バロック」の方が近いかも知れない)。だが何よりも、日本のオタクなら誰でもわかるように、本書にはその上に日本のマンガやアニメ、特撮、戦隊もの、魔法少女ものといった、オタク的アイコンが無数に散りばめられていて、さあマニアたち、発掘してみなさいといわんばかりなのである。これはすごく魅力的な誘惑だが、そっちに入り込むと抜けられなくなる恐れがあるので、ここでは深入りしないことにする。そもそも頻出する手塚治虫ネタならだいたいわかるのだが、本書で中心的に描かれるプリキュアネタはあまりよく知らないもので(登場人物もそういっています)。
 時ははるかな未来の銀河系。人類よりはるかに進んだ超技術をもつ〈行ってしまった人たち〉が残した全長八千光年の〈轍(わだち)〉と呼ばれる銀河の一角に版図を広げた人類は、もう数百年以上もそこで興亡を繰り返している。〈行ってしまった人たち〉が残してくれたものには、多くの居住可能な惑星と、それらを結ぶ超光速の航行技術があり、人々はそこで戦いと繁栄を続けていた。
 物語は、そんな惑星の一つ、〈美縟(びじょく)〉が主な舞台となる。この星では、首都〈磐記(ばんき)〉に配置された古代の伝説的な巨大楽器〈美玉鐘(びぎょくしょう)〉を復活させ、開府五百年祭に壮大な〈大假面(かめん)劇〉を開催しようとしていた。そこへ、〈行ってしまった人たち〉に由来する特種楽器の専門家、特種楽器技芸士のトロムボノクが呼ばれる。彼は、一見チャラい美少年のように見える〈第四類改変態〉のシェリュバン(実際チャラい美少年なのだが、極寒の惑星〈霜だらけβ(フロスティベータ)〉の出身で、恐るべき能力の持ち主なのだ)を伴っておもむく。ちなみにこの二人って、どうやら「どろろと百鬼丸」ですね。
 物語はその後、その假面(かめん)の意味や、古代〈美縟(びじょく)〉の神話や伝説、その神話に、〈轍(わだち)〉全体で強い人気のある『仙女旋隊 あしたもフリギア!』を取り込もうとしている〈大假面(かめん)劇〉の脚本家、それに反発する保守的な勢力、〈美縟(びじょく)〉にトロムボノクたちを招聘した大富豪フェアフーフェンと彼の相続者たちなど、横糸縦糸、さらに斜め糸までが入り組んで、めくるめく(時にはこんがらかってしまうが、場面場面はとても迫力があり、美麗な文章と相まって読み応えがある)物語が展開する。
 タイトルの『零號琴(れいごうきん)』とは、〈美玉鐘(びぎょくしょう)〉で演奏される〈大假面(かめん)劇〉の曲名だ。しかし、それなら本書は「音楽SF」なのかというと、必ずしもそうとは断言できない。というのも、ここには巨大な重低音の響き、高音のきらめき、空間に満ちた音響の轟きはあるのだが、人が作った、人が聴いて楽しむ、「音楽」はほとんど描かれないからだ。〈大假面(かめん)劇〉に集まった大勢の聴衆は、音楽を聴くのではなく、それをBGMとして体に感じ、そこで繰り広げられるアクションを見て、さらにそれを自ら演じる(演じさせられる)のだ。音楽よりも、物語が、自ら演じ体験するものこそが全てなのだから。
 もう一つ指摘しておきたいのは、〈大假面(かめん)劇〉の聴衆たち、『仙女旋隊 あしたもフリギア!』への熱狂、オタクたちの一体感に顕著に見られるのだが、古くからSFで描かれてきた「集合精神」(クラーク『幼年期の終わり』のオーバーマインドのような)へ一体化することへのあこがれと恐れである。ボトムアップに集合して集合知を発揮するならまだいいが、トップダウンに部品として使われるのは(個にとって)おぞましいことではないのか。本書では対立するどちらの側も指揮者というかマスターがいて、オーケストラを指揮するように集合体をコントロールしようとしている。そしてそれ自身が意識をもったかのような、自走する集合体自身の内部からの反乱が描かれる。
 その背景にあるのが、太古に残されたこの惑星の(人工)生物である梦卑(むひ)の存在だ。それは何にでも姿を変える、上書きされるべき存在である。明らかに手塚治虫の『火の鳥』に出てくる不定形生物ムーピーを意識したものだろう。それは必ずしも白紙の存在ではなく、ここでは〈美縟(びじょく)〉の神話・伝説の上に別のモチーフを上書きされる。そう、二次創作だ。〈大假面(かめん)劇〉が『仙女旋隊 あしたもフリギア!』の二次創作となるように、本書自身も手塚治虫やその他様々な成果物からの二次創作だといえる。そういえば、もとから〈行ってしまった人たち〉、去って行った巨匠たちの〈轍(わだち)〉の上に、この世界は成り立っているのだった。
 実は「無番」と題された章で、このあたりのいわばネタバレが語られる。本来は必要のなかった章かも知れない。でもそのおかげで、この世界の別のレイヤーから見た姿がわかるのだが――それもまた一つの二次創作なのかも知れない。
 ところで、本書の内容とは直接関係ないかも知れないが、地下に埋められた古代の鐘って、銅鐸じゃないのかしら。飛さんのいる島根では、日本で一番多くの銅鐸が埋められていた遺跡があったはず。銅鐸は祀りに使われたとか。祀り・・・そう、それは仮面劇だったのかも。
 最後にもう一つ。ここまで書いただけでも、とにかく漢字が難しい。ルビがないと読めないし、パソコンで変換もできない。本当に飛さんが書いたのか、酉島伝法か円城塔じゃないのか、などと愚痴っていたら、牧眞司さんから、飛さん自身がコピペ用にネットにアップしている(ここ)と教えてもらいました。これは便利。この書評を書くのにもバンバン使わせてもらいました。


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