内 輪   第331回

大野万紀


 THATTAの梅田例会といえば、もともとはKSFA(海外SF研究会)の例会として40年以上前に始まり、色々と場所を変え、しだいにメンバーや内容も変わりながら、いまだにほぼ毎週(!)開かれている例会です。もっとも毎週参加しているのは水鏡子と青心社の青木社長くらいで、ぼくなどはもう何年も月1のみの参加としています。
 その梅田例会に、牧眞司さんが東京から特別参加されました。取材で関西に出張されたついでに顔を出されたのですが、おかげでいつもなら株や書庫の話ばかりの例会が、久々にSFの例会らしくなりました。
 たまたま話の出たティプトリーについて、水鏡子がまたもや独自のティプトリー論を展開。第一短篇集と第二短篇集の間にあるギャップについてとか、ティプトリーのもう一つの筆名であるラクーナ・シェルドンとティプトリーの作品の違いについてとか、確かにあり得るのかも知れない面白そうな話が聞けたのですが、残念なことに今のところ水鏡子が「そう思った」という以上の根拠はなく、その辺をちゃんと調べてから、どこかに発表してほしいものです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ディレイ・エフェクト』 宮内悠介 文藝春秋
 芥川賞候補作となった(逃したけど)「ディレイ・エフェクト」を始め、「オール読物」掲載の「空蝉」と「阿呆神社」の3編を収録した(短めの)短篇集である。
 表題作が圧倒的な傑作だ。音楽で使われるディレイ・エフェクトというのは、前の音をテープやコンピューターで今の音と重ねて繰り返す効果だが、2010年の東京に、まるでディレイ・エフェクトのように1944年の戦時下の東京が重なって見えるようになる。東京大空襲直前の東京の日常生活が、現在の日常生活に日付と曜日が重なって続いていく(1944年も2020年も閏年なので、76年前の同じ日が続くのだ)。
 主人公の家でも、廊下に古い台所が現れ、リビングが茶の間と二重になって、そこに子どもの姿の(義理の)祖母や、まだ若い曾祖母らが戦時下の日常を送っている。姿は見えるし、声も聞こえるが、それは物理的な存在ではない。触ることもできないし、録画や録音もできない。でも人間だけでなく、どうやら動物にも知覚できるようだ。
 この現象についてSF的なほのめかしはあるが、この小説の主眼はそこにはなく、真相が解明されることもない。後半では時間の逆転という、SF的に解釈しようとするとかなりアクロバティックな議論が必要な現象も出てくる(でもディレイ・エフェクトをベースに考えるなら、単にテープを逆回転しただけと考えればいいので、物語上の矛盾はない)。物語を動かしていくのは、過去の映像という一方通行の情報が現在の社会や生活に与える力である。主人公の一家では、東京大空襲の光景を子どもに見せることになっても良いのかと、夫婦の間で意見の相違が拡大していく。
 タイムトラベルではなく、過去の情報だけを取得するというSFはこれまでも書かれてきた。デーモン・ナイトの「アイ・シー・ユー」、T・L・シャーレッドの「努力」、クラーク&バクスター『過ぎ去りし日々の光』とその元になったボブ・ショウ「去りにし日々の光」など、いずれも名作ぞろいである。本編もそんな作品につながる一編となるだろう(もちろんその観点は大いに異なるが)。
 「空蝉」は若い頃に一緒にバンドを組んだ仲間たちに、15年後の主人公が一人のメンバーの死について、その真相を探っていく話。ミステリーというよりはもっと観念的な物語である。小品だが、心に残る。
 「阿呆神社」は作者のお茶目な面が出たような作品で、東京の小さな神社の神さまが、そこに関わる地場の人々の話を語っていく。その語り口が面白い。下町の人情話のようで、その奥には深いものがある。
 3編を読んで特に感じたのは、作者の「音」へのこだわりだ。これまでの作品でも音楽を扱った作品が多かったが、音楽だけでなく、「ディレイ・エフェクト」の祖母がつく玄米のトントンという音のように、生活に満ちている様々な音が、作品の中からはっきりと聞こえてくるようだ。

『アルテミス』 アンディ・ウィアー ハヤカワ文庫SF
 「今度は月だ!」と帯にあるが、『火星の人』のアンディ・ウィアーの2作目は近未来の月が舞台のテンポのいい活劇だ。元気いっぱいだがやんちゃではねっ返り、無茶ばかりするヒロインが活躍する、ハードなSFクライム・ミステリーである。
 5つのドームに2千人が住む月面都市アルテミスは、大森望の解説にもあるが、開拓時代の西部の町みたいな雰囲気がある。地球から独立しているわけではないが、事実上地球の法律は適用されず、この町の町長ともいえる統治官のもと、保安官役の治安官(ルーディという、カナダの騎馬警官出身のこの治安官がすごくいい)が、この小さな世界を取り仕切っている。
 ここはケニアの宇宙産業が建設し、地球の金持ち相手の観光業が最大の産業となっている町だ。インド洋やカリブ海のリゾート地みたいな感じだが、作者自身がそれをモデルにしたと、解説にある。住民は世界各地から集まった労働者が中心で、決してエリート集団ではなく、ドーム内のあまり環境の良くない、狭苦しい空間に住んでいる。
 主人公のジャズは、サウジアラビア生まれだが、子どものころからこの町で育ち、1/6の重力に適応してしまっているので、地球へ追放されることを恐れている。というのも彼女は密輸や非合法な活動で金を稼いでいるからだ。優秀な溶接工でイスラム教徒である厳格な父から逃げだし、気ままな一人暮らしを続けている。いつか金持ちになって、いいところに住んでやろうと心に決めているのだ。そんな彼女が、知り合いの大富豪から、とびきり非合法だが金になる仕事を持ちかけられる。何と月面でのある企業に対する破壊工作だ。報酬に目がくらんだ彼女はそれを引き受ける。ところが……。
 ヒロインは美人でとても頭がよく、何でも自分で工夫し、前向きで行動的である。にもかかわらず、その性格は26歳になっても自己中な悪ガキのまま。アホな行動やホラー映画の殺され役みたいなことばかりする。そこが読んでいてすごくイラつくのだが、そのことは本人も自覚しているようで、そのうちしおらしい一面も見せるようになる。そして、そんなこんなも、実はこの物語の伏線だったとわかる。まあちょっと出来すぎで、予定調和という言葉も頭に浮かぶけれど、楽しいエンターテインメントSFだから、それはそれでかまわないのだ。
 テンポが速くて、次から次へと問題が発生し、自分の知恵と仲間たちの力を借りてそれを解決していく。『火星の人』でも話題になった「おっぱい」もまた出てくる! ところが、このとても面白いストーリーは、実をいえば本書の重要なポイントではなく、作者が本当に書きたかったのはアルテミスという月面都市そのものなのだ。本書の本当の主人公はジャズではなく、アルテミスなのだ。
 本書は、実際、月面でのアルミ精錬(そしてそれが月面環境での生活や社会や経済にどう関わるのか)というとても地味なテーマをとことんリアルに描き、それを読み応えのあるエンターテインメントにするという離れ業を演じた作品だといえる。要するにオタクな設定厨の夢が詰まっているということだ。この時代にスター・トレックの知識がどれだけ通じるのか、というところはちょっと気になったけどね。
 『火星の人』ほどではないが、十分満足できる作品でした。ぜひシリーズ化してほしいと思う。

『無限大の日々』 八木ナガハル 駒草出版
 コミケやコミティアで作品を発表していた作者の初単行本である。いつとも知れない遠い未来を舞台にした8編(〈人類圏〉シリーズというのかな)が収録されている。ネットで評判になっていたので買ったのだが、コミックながらしっかりとハードSFのイメージがあって面白かった。
 絵柄はいかにも同人誌的というか、ふわふわとした可愛い女の子と、異形のものたちと、それにリアルで細かなイラスト的な絵が混ざるというものだが、ぼくとしては許容範囲。
 一番面白かったのは冒頭の「SCF特異昆虫群」。平行進化から思いっきり空想をたくましくして超光速通信にまで話を広げている。でも面白かった理由は、この作品が一番ストーリーがしっかりしていたからだ。次の「蟻の惑星」も異星の蟻の群知能を扱っていて面白かったが、ストーリーはほとんどなく、要するに設定とこのアイデアを表現したかったのだなと思える。他の作品もそうだ。でもそれは短篇SFとしては欠点ではなく、ストーリーよりアイデア重視というのは「海外SF小説がメインのハードSF者」であるという作者の「かなりニッチな作品」として問題ないと思う。それをこのふわふわした少女たちに語らせることこそ、帯にもある「漫画だから表現できるSFのかたち」なのかも知れない。
 「ツォルコフスキー・ハイウェイ」は地球から静止軌道までらせん状に伸びるハイウェイを描くが、その背景に人類の集団行動を支えてきた宇宙的な超知性とでもいうものの存在を仄めかしている。「ユニティ」は機械知性と人間の想像力の問題を、いかにも現代SF的な、常識を逆転させたような切り口で描く。「幸運発生機」はレムやニーヴンがギャグとして描いたような確率のコントロールを、自由意志の問題と合わせて描くが、ちょっとわかりにくかった。「病院惑星」は少しブラックな雰囲気があり、自己同一性に関するありがちなアイデアをユニークに表現している。「鞭打たれる星」はタイトルはフランク・ハーバートそのままだが、軌道エレベーターの落下というテーマに、他の作品でも出てきた集団知性による行動支配というテーマを掛け合わせたものだ。絵としては面白く、迫力もあるが、やはりちょっとわかりにくい。「巨大娘の眠り」は夢がテーマの小品。女の子が可愛いからOK。
 ふわふわしたたぶんポストヒューマンな女の子たちと、異形のものたち、そして異世界の風景。おそらく彼女たちの語る物語にはほとんど意味はなく、その世界の情景そのものが物語なのだ。数式も科学的説明もないハードSFはあり得る。科学や技術から想像力によって構築された新しい世界のイメージ。ストーリーさえなくても良い。SFは絵だとは、そんなところからもいえるのではないだろうか。
 どの作品も面白く読んだが、読者のわがままとしては、ここからもう一歩、背景となっているものをもっと深掘りして、一貫性のある、長編は無理だとしても、連作短篇を読みたい気がする。

『百万光年のちょっと先』 古橋秀之 集英社
 かつての「SFジャパン」誌に数編ずつ掲載されていたショートショート47編とプロローグ、それに書き下ろし1編とエピローグを加えたショートショート集である。プロローグとエピローグを除く全編が、いつとも知れぬ遠い未来の家の中で、古くなった家政婦ロボットが「百万光年のちょっと先、今よりほんの三秒むかし」と、子どもにおとぎ話を語り聞かせる形式で統一されている。
 そのお話というのが、死に神に会ったどちらが前かわからない古い宇宙船の話や、兵士たちが生まれる前から徴兵されてしまう戦乱の惑星の話、宇宙の全てを知っているという究極百科事典に挑む勇敢でハンディなポータブル百科事典の話、重機や戦車や艦隊やいろんなものに化けてしまうものまねお化けの話、ある惑星の害虫駆除業者のぼんくらな甥の話、などなど、どれもおとぎ話というよりはSFで、それも部分的にはハードSFといってもいい傑作ぞろい。それがまた、おとぎ話の文法にちゃんと収まっているのだ。これだけの数の作品で、本当に外れがないのにはびっくりしてしまう。
 お話には星新一やオー・ヘンリーのような雰囲気もあるが、根本にあるアイデアはより現代SF的で、どちらかといえば海外SFの、スタニスワフ・レムの泰平ヨンや、イタロ・カルビーノのコスミ・コミケの読後感に近い。しかし超然としているわけではなく、ロボットや超人やコンピューターや、異星生命や惑星や重力の穴が主人公なのに、とても人間的で親しみやすさがあるのだ。
 とにかくどれからでもいいので、読んでみてほしい。きっと気に入った一編があるだろう。おとぎ話の文法で描かれているので、例え残酷な内容の話でさえも一応のハッピーエンドがあって、楽しく読める。どれも面白かったが、ぼくが特に気に入ったのはこんな話だ。
 「韋駄天男と空歩きの靴」はひたすらせわしない、とてつもなく足の速い男の話。彼がある時手に入れたブーツは恒星間もひとっ飛びできるすぐれもの。嬉しくて走り回った男はいつしか帰り道を見失い、何とか故郷へ歩いて帰ろうとするのだが……。うーんティプトリーですか。これがちゃんと相対性理論を踏まえたおとぎ話になっているのだ。
 また「夢見るものを、夢見るもの」はある惑星の植物人たちが深い思考で夢見た宇宙のお話。植物人が夢見たのは恒星の中に住み、時おりプロミネンスの飛沫をあげて跳ね上がる少年の夢。その少年が夢見た小さな惑星、その惑星が夢見た超集積回路、その超集積回路が夢見た一人の少女……。こんな再帰的でフラクタルな物語がとても詩的に、SF的なイメージ豊かに語られる。
 「絵と歌と、動かぬ巨人」も傑作。これは星間戦争の超兵器として作られた巨人が、激しい戦いの末にある惑星に不時着し、そのまま丘の上で動かなくなって一万年の時を過ごすというお話。風の音や雨のしずくや小鳥のさえずりを聞きながら、いずれ来るかも知れない敵か味方をずっと待っていた巨人に、ある時幼い男の子と女の子が訪れる。男の子は絵を描き、女の子は歌を歌う。そしてまた一万年の時が過ぎる……。おとぎ話、メルヘンには違いないのだが、ここに溢れる詩情、切なさ、時の流れの感触には、優れたSFの感動がある。
 「墓守と風の幽霊たち」では、ある惑星の小さな墓地で、吹く風が墓石に刻まれた模様に触れて渦を巻き、ある種の生命体となって存在するさまが描かれる。そして数百年がたち、この惑星に大きな都市が建設されて大いに栄え、やがて衰退し、千年後には巨大なビルが墓標のように立ち並ぶ廃墟が残される。そこに吹き渡る風は……。ちょっとセンチメンタルだけど、わかりやすくて見事な本格SFとなっている。
 他にも笑える話やホンワカとした話、文明批評的な寓話や、心にしみるラブストーリーなど、お話のベースラインはバラエティ豊か。これを一冊にまとめてくれた出版社には感謝である。

『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』 ケン・リュウ編 新・ハヤカワ・SF・シリーズ
 ケン・リュウ編・訳による英語版の現代中国SFアンソロジーからの翻訳で、7作家、13編の短篇と、中国SFの現状に関するエッセイ3本が収録されている。またケン・リュウによる序文と、各作家の紹介文があり、最後に立原透耶さんによる解説がついている。まさに至れり尽くせりのアンソロジーである。
 英語版からの翻訳ではあるが、固有名詞などは立原さんの監修で中国語に合わせたルビが振られている。とにかく傑作ばかりのアンソロジーだ。中国SFというフィルターがなくても、現代SFのアンソロジーとして非常に優れた作品集である。もちろん、今の中国SFを幅広く知るという観点からは、まさに現時点で唯一無二といっていい。
 全体を通しての印象としては、多くの作品が英米SFや最近の日本SFと同様の、世界SFというべきものの基盤の上に成り立っており、中国固有のドメスティックなものというより、グローバルなテーマが描かれているように思えた。中国の歴史に材を取ったものや、今の中国の政治や社会を直接的に批判しているように見える作品(馬伯庸の「沈黙都市」だ)もあるが、ケン・リュウがいうように、それをより広く、現代文明全体の、人類や地球環境そのものの問題として捉える方が、実り多いといえるだろう。
 もうひとつ、これはケン・リュウの英訳というフィルターがあるせいかも知れないし、そういう情報によってよけいにそんな印象が植え付けられているのかも知れないが、ケン・リュウ自身の短篇集と非常に近い印象を受けた。
 それは、ハードSF的な風味、ドメスティックというより外部から見たときの中国的、東洋的なモチーフ、政治的な寓話にも読める日常の中の奇想や、一転して遥か宇宙の広がりや生命の進化に思いを馳せ、遠い時空を見つめる視線、そういったものが渾然一体となって作り上げる、21世紀の中国SFというものだ。それはたぶんケン・リュウが好むものであり、その作品が高評価を得ていることからもわかるように、われわれ日本の読者にもすんなりとアピールするものである。また、ヒューゴー賞などでの高い評価から、英米の読者にも同じように受け入れられたものだといえる。
 例えば陳楸帆の「鼠年」など、遺伝子改良された鼠がまさにあの可愛らしい鼠だというアイロニーと、その駆除を行う大学生たちの身も蓋もないありさま、そして背景にある科学性など、伊藤計劃が、そして藤井太洋が書いたと言われても、あるいはブルース・スターリングが、パオロ・パチガルピが書いたと言われても、さほど違和感はないのではないか。
 夏笳の「百鬼夜行街」は中国的な幻想味と現代SFが見事な融合を果たして、これまたケン・リュウの「良い狩りを」を思い起こさせる傑作である。作者は宮崎駿の影響を口にしているが、きっと「千と千尋の神隠し」のことだろう。同様に、ぼくには諸星大二郎の描く中華幽霊譚のイメージが浮かび上がった。作者が諸星大二郎を知っているかどうかはともかく、中国的・東洋的と言われるイメージも、このような現代における多国籍な文化の相互作用が生み出すものなのかも知れない。夏笳の作品は、近未来の高齢者介護を描く「童童の夏」も、遥か未来の廃墟となった世界で故郷を目指す自動機械の話である「龍馬夜行」も、その美しく哀しいイメージが鮮烈で、いずれもぼく好みの傑作である。
 郝景芳は、宇宙の様々な惑星を巡る小品「見えない惑星」(カルヴィーノ的とも言われるが、これもケン・リュウの作品を思わせる)も楽しいが、何といっても表題作である「折りたたみ北京」がすごい。北京が時間指定で折りたたまれる3つの階層都市になるという、スタージョンかディックかというような奇想もすごいが、その3つの階層を行き来する主人公の姿がリアルでとても前向きに描かれ、さらに折りたたまれる都市そのものの描写を、圧倒的なイメージ喚起力でもって描いているのがものすごい。そりゃヒューゴー賞も受賞するでしょう。
 劉慈欣はヒューゴー賞受賞の長編『三体』(未訳)の作者だが、本書の他の作家より少し年上(他の作家がみんな30代なのに、彼は50歳)で、いかにも書き慣れているというベテランの貫禄がある。『三体』からスピンアウトした作品だという「円」は、ハードSFというより奇想小説で、読んだ人は誰でも小川一水の「アリスマ王の愛した魔物」を思い浮かべるだろうが、秦代に膨大な人的資源を使って人力計算機を構築し、円周率を計算しようとする話だ。バカSF一歩手前といえるが、そのハードSF的な側面はとてもしっかりしている。もちろん傑作だ。でもぼくが好きなのは「神様の介護係」だ。突然空を埋め尽くした巨大宇宙船から、自分たちは神(人類文明を創造し、人々を導いた存在)だという老人たちが何千万人も降りてきて、人類に介護を求めるのだ。いやーこの神さまたちの情けないことといったら。しかし、後半ではとんでもなく壮大な宇宙の物語が語られる。傑作。一番脂ののっているときの小松左京が書きそうな話だと思う。
 他の作品には触れられなかったが、どれも魅力的で面白く読んだ。またエッセイも良かった。
 ひとつだけ、ピンと来なかったものがある。ケン・リュウの紹介文で、夏笳が自分の作風について語っているという「ポリッジ(おかゆ)SF」という言葉だ。おそらくハードSFに対して、ハードな科学的要素を背景に含むソフトな(文学的な)SFといったイメージではないかと思うのだが、それが「おかゆ」? おかゆに堅い芯が残っていたら、おいしくないのでは。そうじゃなくて、柔らかいオートミールのポリッジにトッピングする具がハードということなのかなあ。よくわからない。


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