内 輪   第329回

大野万紀


 NHKのコズミックフロントNEXTに出演されたり、舞台に立ったりもされている、超ひも理論の専門家、大阪大学の橋本幸士先生が、ご自身のFBで「インスタント麺の折りたたみ構造がDNAの折りたたみ構造に似ていることを見つけた気がする」と書かれている。「いろいろなインスタント麺でフラクタル次元を計算して比較したら、イグノーベル賞になるかもと思います」とも。
 面白そうだから、誰か研究して下さい。
 ・・・という内容をツイートしたら、橋本さん本人からも「専門家連絡乞う」というRTが。興味のある研究者の方、どうぞよろしく。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『脳の意識 機械の意識』 渡辺正峰 中公新書
 「我思う、ゆえに我あり」の時代から、意識とは何かという問題は哲学的にすっきりした答えの出ない大問題だった。とはいえ、哲学者ではないぼくらには、意識とは何かなんて、普段それこそあんまり「意識する」ことのない問題だった。
 また、ある時期「脳科学」というのがブームになって、何だかすごく怪しげな本が山ほど出たせいで、この手の本はずっと敬遠していたこともある。
 でも、現代SFの最大のテーマのひとつって、まさに本書のタイトルどおりの「脳の意識」「機械の意識」じゃないですか。グレッグ・イーガンしかり、ピーター・ワッツしかり、神林長平しかり、瀬名秀明しかり、いや、このリストにはきりがない。それをちゃんと理解しようと思うと、やっぱりしっかりした知識が必要となる。SF読みにとっても、もはや避けては通れない問題なのだ。
 そんなわけで、科学から迫る意識の問題が、今はどこまで来ているのかと、久しぶりに手に取ったのが本書だったが、これが大正解だった。
 意識というものを、科学的・客観的に扱える形で再定義し、それをひとつずつきちんとした手続きの実験で確認していく。本書の大部分は、そんな脳と意識の問題についての研究史や、実験の具体的な内容についての、一般読者向けにていねいに書かれた入門書となっている。結論ありきではなく、議論の経緯が科学的にはっきりと説明されていて、とても納得のいくものとなっているのだ。一部にはやや難解なところもあるが、それはわかりやすく書こうとして、かえってわかりにくくなったということかも知れない。
 だから本書は科学的事実と思弁とをきちんと分けて書いてある、まったく怪しげなところのない科学解説書なのだが、著者自身が「こんなイケイケな本にするつもりはなかった」と書いているくらいで、大変に面白く、刺激的な本となっている。最後の方なんかはもう完全にSFそのものである。「ひょっとして、これで、いけてしまうんじゃないの?」とその気になってしまった、とあるとおり、著者ばかりでなく読者もその気になってしまう。もちろん、それはあくまでもひとつの仮説であり、方向性が論じられているだけなのだが、うん、現代SFの方向性もおおむね間違ってはいないみたいだな、と思ってしまうのだ。それがつまり「人工的に意識は作りだせるのか?」問題であり、「意識の機械への移植」問題である。著者は、思いっきり肯定的なのだ(もちろんここでいう「機械」は今のコンピューターの延長線上にあるものとは限らない)。
 その話の前に、自分が見ていると思っている世界は実は脳が作り出した仮想現実だ、とか、自由意志というのは基本的に錯覚であって、後付けで編集されたものだ、とかあっさりと書かれているのだが、実験結果で明示されていることでもあり、よく聞く話でもあるので、まあそうなんだろうなと思える。
 とはいえ、感覚刺激が意識にフィードバックされるところは後付けであって、自由意志じゃないといわれても別に平気だが、あれこれと時間をかけて思索し判断するような事象については、全体的にそれを統制しているのはやはり自分の「自由意志」だといいたくなる。そんな主観的な「意識」があることは明らかなので、それをどう客観的に検証するのかというのが問題だ。それが「意識のハード・プロブレム」である。
 本書は、そんな「ハード・プロブレム」にも、科学的方法論で立ち向かっているところがすごく面白い。つまり実験手法を色々と考察しているのだ。そこからさらに、SFでもいつも問題になる、仮に機械への意識のコピーができたとして、自意識の一貫性・一意性はどうなるのかという問題もある。ポイントとなるのは夢を見ているときの意識や、左右の脳が分離された分離脳患者の意識である。ついにはすごくSF的な手法の思考実験も出てくる。
 意識というものは単なる情報ではない、というのも納得がいく。情報はそれを解釈するアルゴリズムがあって初めて意味をもつ。その動的なアルゴリズム(生成モデル)こそが意識に関連するというのは、ぼく自身常々その通りだと思っていたことなので、とても興味深かった。
 ところで著者は、意識のコピーができるとしても、記憶のコピーの方が実際問題としては想像以上に困難なことを述べている。これもなるほどと思われる。その解決策として提示しているアイデアがあるのだが、SF者としていわせてもらえば、これってグレッグ・イーガンの短篇「ぼくになることを」(『祈りの海』収録)そのものじゃないですか。ここからさらに先へ進めるのは、もはやSFの仕事のような気がする。
※このレビューは「シミルボン」にもアップしています

『破滅の王』 上田早夕里 双葉社
 戦前から戦中にかけての中国を主な舞台に、R2vもしくはキングと呼ばれる治療法のない致命的な細菌兵器(すなわち「破滅の王」)を巡る、科学者たちと軍人たちとの壮絶な苦悩と戦いを描く、重厚なエンターテインメント長編であり、すばらしく読み応えのある傑作である。
 731部隊に関わり、戦争の恐ろしい闇を体験したひとりの科学者が、人類など滅びてもいいという深い絶望の中から生み出した「破滅の王」。彼とその研究者たちはすでに死亡しているが、その真実の姿は軍からも秘匿されており、論文は分割して英仏独米日の大使館・領事館に届くようにされていた。それを巡って各国に疑心暗鬼と恐ろしい争奪戦が起こり、ついには世界中に菌が広がることを求めて。
 本書の主人公(の一人)は、上海自然科学研究所という、日本と中国の融和のために建てられた協同研究施設で、細菌学を研究する研究員の宮本である。日中戦争が始まり、研究所の中もきな臭くなってきたが、それでも科学は国境を越えると信じ、理想主義的な純粋科学を信奉する宮本だった。そんなとき、彼の友人だった六川という科学者が謎の失踪をする。そして宮本は、日本総領事館に呼び出され、断片的な論文の解読を命じられる。それがすなわち、キングの論文の一部だった。かくて彼はこの戦いに巻き込まれ、激しく苦悩することとなる。何とかキングの謎を解明し、治療法を発見したいという思い。と同時に、その治療法の発見は、細菌兵器としてのキングが完成し、安心して戦争に使うことができることを意味する。この科学の二面性に、いささかナイーブだった彼の倫理感は、厳しい試練にさらされることとなる。
 だが彼は、もう一人の主人公、監視役として派遣された灰塚少佐の、巌のような軍人ではあるが単に命令に従うだけではない、幅広い視野をもった男――このキャラクターがとても魅力的だ――の強い影響を受け、その厳しい考えに反発しながらも、確固たる自分の意志を見いだしていく。かくて物語は、1940年代の上海を始めとする詳細なディテールと、日本、中国、そしてナチス・ドイツの実在/架空の人物たちが入り乱れ、壮絶で濃厚な国家間のサスペンスをも描いていく。
 だがそれで終わりではない。
 本書の最大の衝撃は、一番最後の「補記」と書かれた短い章で訪れる。これをそのまま信じるなら、本書は完全にSFである。しかし、もう一つの別の歴史などという単純な話ではない。これこそが「現実の」歴史であり、.われわれが知っている歴史との食い違いは、隣接した歴史の見えない隙間に埋もれ、重ね合わされているのだろう。ちょうどクリストファー・プリーストが『隣接界』で描いていたように。

『シルトの梯子』 グレッグ・イーガン ハヤカワ文庫SF
 2002年に刊行されたイーガンの長編。『ディアスポラ』(1997)より後で、『白熱光』(2008)より前の作品だ。そして『ひとりっ子』収録の短篇「オラクル」(2000)、「ひとりっ子」(2002)とはほぼ同時期の作品で、本書はこの二作と内容的に(世界は違う)関連がある。
 というわけで、本書は現実のこちらの宇宙とストレートにつながる二万年後の世界を描いた、ポストヒューマンSFの傑作である。我々の子孫である人類は出てくるが、生身の肉体は重要ではなく(重要だと考える一部の人たちはいるけれど)、ほぼデータ存在、ソフトウェア存在となっていて、光速度による転送、コピー、バックアップが当たり前となっている。性別もなく、数千年生きることができ、生や死の意味も変わっている。でも個人という概念は重要で、ほぼ何でもありの多様性の中で、自分の意識というものがかけがえのない意味を持っている(ここではコピーやバックアップも含めて自分の同一性、継続性を示すものが「自分」なのである)。性別はないが恋愛やセックスはある(愛する二人は互いに適合する性器をその肉体に生成するとか、ウケる描写あり)。ただし、惑星の上で普通に肉体を持って生活する人々も多いし、またアナクロノートと呼ばれる、はるか古代からずっと宇宙船で飛び続けている、時代に取り残されたような人々もいる。
 物語は第一部と第二部に分かれ、第一部では量子グラフ理論の研究者であるキャスが行ったある科学実験の結果、想定外の時空〈新真空〉――いわば別の宇宙が生まれて、それが事前の予想のようには消滅せず、光速の半分の速度で広がって行く。その先にある惑星も何もかもを飲み込みながら。人々はその境界面が到達するより先に、自らをデータ化して光のビームとなって逃げ出さなければならない(この宇宙には、当然ながら光より速いものは存在しない)。
 その数百年後の第二部では、境界面にぴったり寄り添う形で光速の半分で進むプラットフォーム、リンドラーが舞台となる。そこには境界面の研究者たちが集まっているのだが、彼らには大きく二つの派閥がある。境界面を消滅させようとする人々(防御派)と、境界面の向こうも別の興味深い宇宙なのだから、共存するべきだとする人々(譲渡派)だ。主人公のチカヤは譲渡派。そして四千年ぶりに再会した幼なじみのマリアマはどうやら防御派だ。性別はないとはいえ、どうしてもチカヤが男性で、マリアマが女性に見えてしまう。チカヤはいつもマリアマの積極性に後れを取って、うだうだと動揺してしまう、というのが、本書がボーイ・ミーツ・「ツンデレ」ガールと評される所以だろう。でもこのあたりの物語って、普通に面白い。物理学の部分を読み飛ばしても楽しめるというのは本当だ。
 なお、ある人は、この第一部をまるまる読み飛ばしてもかまわないと書いているが、ここはそんなに難しいところじゃないと思う。いや、いきなり「はじめにグラフありき」と架空のサルンペト則の話が始まるので、難しいには違いないのだが(このあたりは巻末の前野「いろもの物理学者」さんの解説が参考になる)、今話題の「宇宙の真空崩壊」といった話に近いので、さほどびっくりするところではない。ついでに言えば、この〈新真空〉と真空崩壊で現れる新しい真空とは同じものではなく、真空崩壊の方は、こちら側の物理学で話ができるが、新真空の方はイーガンが任意に定めたものなので、理解できなくても何も問題ないはずだ。

 この後はちょっとネタバレになります。ネタバレしても面白さに影響ないと思いますが、気になる方は読後にお読みになることをお勧めします。
 人類は結局、境界面の向こうと情報をやりとりする方法を見いだす。もちろん物質的存在としては行き来できないので、かなりややこしい手順で情報のみを送り込むのだ。グラフを記述して(ここでグラフというのはプログラムや数学定理のような意味)、向こう側にその結果となる構造を作り出す。ぼくはホログラフィック宇宙論を思い浮かべた。境界面の向こう側はこちらの宇宙とは全く違い、物理法則も異なっていて、ちょうど「ルミナス」の世界のように、こちらの物理学は通用せず、互いに共存ができない。でも、あちらにはあちらの「構造」があり、その「構造」をベースとして、イメージとしては一種の宇宙船〈サルンペト〉を組み立て、チカヤ(の意識)とマリアマ(の意識)、それにすごく賢い人工知能がそれに「乗って」未知の世界を旅するという話になる。一方で、防御派の過激分子が最後に放った〈プランク・ワーム〉により、向こう側の宇宙には崩壊の危機が迫ることになる。
 本書の後半は、この向こう側の世界での冒険が描かれ、SFとしてはおなじみのファースト・コンタクトもあって、センス・オブ・ワンダーに満ちた、とてつもなく面白い物語となっている。そのうえ、一番最後にはさらにあっと驚く展開(それも嬉しい展開)が待ち受けている。というわけで、ストーリーはとても面白く、また難解な理論が出てくるわりに読みやすいハードSFの傑作となっているのだが、ぼくが個人的に読んでいてすごく気になったところがあるので、書き留めておきたい。別にそれが本書の瑕瑾となっているわけじゃなく、また物理学的・数学的にどうだというのでもない(それはそもそもぼくにはわからない)。あくまでもぼくにはピンと来なかったなかったというだけのことだ。
 まず、最初にぼくがとても気になったのは、境界面の拡大する速度が光速ではなく、その半分だというところだ。物質ではない現象が広がっていくのだから、普通光速でしょう。もちろん、光速以下でなければ小説として成り立たない(誰もその存在を事前に知ることができなくなるから)ので、あえてそうしたのはわかるけど、何かもっともらしい説明がほしかった。いやイーガンのことだからちらっと書かれていてぼくが読み落としているだけかも知れないけれど。
 それから、これはもう「ひとりっ子」の時からぼくがずっと気になっている「クァスプ」というガジェットの問題。本書といい、「ひとりっ子」といい、イーガンがこのころ自由意志(量子力学の観測の主体)と多世界解釈の問題にものすごくこだわっていたことがわかる。巻末のいろものさんの解説にも詳しいが、クァスプというのは、具体的な仕組みはわからないが、人間の意識と環境とを分離し、意識による多世界の分岐を起こらなくするという装置である。多世界解釈では次に何をするかという決断によって世界が無数に分岐していくが、そうではなくて、意識によって世界は分岐せず、その後の時間経過によってのみ世界は進んでいく。このことで自由意志が守られ、そして個人の決断が多世界の全てに責任をもつ必要がなくなる。うーむ、わからないではないけど、どうしてそこまでこだわるのかな。そのこだわりはすごいと思うけど、よくわからない。ピーター・ワッツのいうように、自意識なんて必要ないじゃんという方がありそうに思えるのだ。
 そして一番わからなかったのが、後半の新真空の内部の世界を描いた部分。ここが一番面白くて、SF的に美しい描写も多い、小説としてとても読み応えのあるパートなのだが、ここを本当に理解できる人って(作者以外に)いるのだろうか。普通に読めば、たぶん木星かどこかのガス惑星の雲海の下を、宇宙船に乗って飛ながら、様々な形態の雲や気流や光の川や、謎めいた異星の生物たちを眺めて進むトラベローグのイメージで読めるだろう(ちょうど、クラークの「メデューサとの出会い」みたいなイメージでぼくは読んだ)。でもそもそもこの世界ではこちら側の物理学は通用せず、光もなく、目で見たような描写は、すべてプローブが計測してきた情報からシミュレーションで仮想現実に生成されたものなのだ。大体「ヴェンデク」という、この世界で最重要となるものが一体何なのか、小説のイメージとしては何かわかった気になるが、イーガンもそれ以上のことは語ってくれない。話されている内容も、こちらの世界の言葉を使った何らかの比喩としてしか意味をなさないはずだ(でないと、光も物質も、時間も力も存在しない――というかこちら側とは違うはずの宇宙と、矛盾するものになってしまう)。いったい彼らは何を見て、何の話をしているのか。一番面白い部分だけに、もどかしさを感じてしまうのだ。
 タイトルにある「シルトの梯子」の概念はすばらしい。ぼくも本来の意味はウィキペディアで見ただけなのだが、正確に同じものを作ってつなぎ合わせていっても、曲率のある世界では、それがぴったりと一致しない。本書ではそれが人間の自意識やアイデンティティのあり方として描かれている。どんどん変わっていき、一致はしないのだが、それでも同じものであるという意味で。同じなのはパターンであり、構造である。イーガンは、そこに人間を見ているのだ。

『我々はなぜ我々だけなのか』 川端裕人 講談社ブルーバックス
 副題に「アジアから消えた多様な「人類」たち」とあり、国立科学博物館の海部陽介さんの監修で、主に21世紀になってからの発見を中心に、ジャワ原人、フローレス原人、澎湖人といった、ホモ・サピエンス以前に(あるいは同時期に)アジアに生き、そして消え去った原人(ホモ・エレクトス)たちについての最新情報を含む解説書である。
 この海部さんというのがすごい人なのだ。アジアでの人類進化学の第一人者であり、ジャワ原人やフローレス原人などアジアの発掘現場での世界的な有名人で、また化石のCTスキャンやコンピューターによる詳細分析、3Dプリンタでのモデル作製など、最新の技術を駆使して研究を行う、発掘現場と研究室の両方で活躍する科学者なのである。その現場からのわくわくするような最新知識を、科学ジャーナリストとして、あるいはSF作家としての川端さんが、はっきりした問題意識をもって、わかりやすく咀嚼してレポートする。だから本書は読みやすくて、しかもすごく面白い。
 まず人類進化学の最新の全体像が描かれる。ここで、猿人、原人、旧人、新人といった日本語と、英語圏での分類の相違が示されていて、これが興味深かった。今の国際的な人類学では、もはや猿人、原人といった言葉はなく、学名で直接示すか、hominid(チンパンジーなど大型類人猿からすべての人類までを含む)、hominin(初期の猿人以降のすべての人類を含む)、そしてhomo(原人、旧人、新人を含む)という総称的な用語を使うのだそうだ。つまり原人以後は全部ホモ属なのだ。みんなお仲間である。
 次におよそ120万年前にアジアへやって来たジャワ原人の発掘史が、実際の発掘現場への旅行記を含めて詳細に描かれる。それからいよいよ、21世紀になって発見された、ホビットとも呼ばれる小さな原人、フローレス原人の話だ。子ども並みの体格しかなく、脳も小さい。でも石器を作るりっぱな原人だ。彼らがどこから来てどのように進化(小型化)したのかという研究の話も面白い。当初いわれていた、1万年前まで存在していたというのはどうやら間違いで、5万年くらい前に絶滅したらしい。だからホモ・サピエンスとの出会いはぎりぎりなかったのかも知れない。でも現地に伝わる、なんでも食べる小さなおばあさんの民話は、もしかしたらという可能性を想像させて本当に古代へのロマンを感じる。
 そして北京原人、ジャワ原人、フローレス原人につづく、アジア第四の原人、台湾の海底から発見された澎湖人の話だ。氷河期に台湾と大陸がつながっていたころの陸地だった海底から、漁船の網にかかって引き上げられた化石。19万年以前の古人類である。これまた従来の常識を覆すような発見であり、数十万年前のアジアが、アフリカと同様に、多種多様な人類の興亡・進化の地だったことを示している。さらにロシアのアルタイ地方で見つかった10万年から5万年前の謎めいたデニソワ人がいる。彼らは旧人の代表であるネアンデルタール人と共存していたのだ。
 そして今「我々はなぜ我々だけなのか」という謎への挑戦が描かれる。現在の地球にいる人類は、我々ホモ・サピエンスだけである。しかし、すぐ思いつく、我々が他の人類と戦って絶滅させたという物語は、具体的な証拠がなく、むしろ日本タンポポをセイヨウタンポポが凌駕していったような、生態学的なニッチの交代があったと考える方がよりありそうだと語られる。これは少しほっとする話だ。とはいえ、たったの数万年でアフリカを出てから極地を含む南北アメリカ大陸、さらに太平洋の島々までに広がったホモ・サピエンスの行動力はものすごい。サピエンスは、あらゆるところへ行こうとする意思をもち、一つところに閉じ込められず、それゆえに均質化している。多様性が大事だというのは、外部との交流による均質化こそがサピエンスのもつ特質だからである。ここで川端さんは、SF作家らしく、人類の宇宙への拡散にまで目を向ける。
 そして本書の最後では、消え去ったと思われた原人たちが、決して消え去ってはおらず、彼らは我々の中にいる、「我々は我々だけではないかもしれない」という衝撃的な可能性が語られる。
 人類学の知識をアップデートする意味でも、我々ホモ・サピエンスの未来を考える上でも、とても興味深く、刺激的な一冊だった。
 蛇足ながら、古生物マニアで人類進化オタクのうちの奥さんも、めちゃくちゃ面白かったといっていました。


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