内 輪   第321回

大野万紀


 ツイッターで、山岸真さんが昔の〈SF宝石〉について書かれていて、そこでコラムを執筆していた「マルコ・飯田」とは「安田均/大野万紀でした」と明かされていました。ずいぶん昔のことなので、うーんそんなことがあったかな、と思ったのですが、どうも創刊号に書いたのがぼくで、他のはたぶんどれも安田さんだったような記憶が。こういう古いコラムや紹介記事なんてのは、書いた本人にもよくわからなくなりますね。

 テッド・チャン「あなたの人生の物語」を原作にした、映画「メッセージ」(監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ)を見てきました。評判通りの素晴らしい映画でした。でも原作を読んでいると「あなたはもう結末を知っている」状態なわけで、まさにテーマそのものを追体験している気分にも。
 ★以下、ちょっとネタバレです!
 本編が始まると、暗い平面が広がり、それから視点が下がって、明るい四角な窓が現れます。まるでスター・ウォーズのオープニングのような視覚的印象を受けたのですが、さっきのはこの部屋の天井だったのです。この四角な窓(ウィンドウ)のイメージは、映画の中で何度もくり返されます。それはこちら側のインナースペースと、あちら側のアウタースペースとの界面であり、それを通して世界を見るという、意識のあり方を象徴しているようです。
 というのも、この映画の大きなテーマは、未来が定まっている時、自由意志による選択はあり得るのか――というもので、それはすでに内容が確定している映画をスクリーンを通して見る観客の意識そのものでもあるわけです。そりゃ、映画の観客には映画の内容についての選択肢はないけれど、それでも別に問題ないですよね。初めての時はもちろん、何度見てもやはりハラハラドキドキするだろうし、感動や笑いや涙もあるだろう。結末からさかのぼって全体の意味を理解したりもできるわけです。
 テッド・チャンの原作では、光の経路に関するフェルマーの原理をもとにして、物理学の変分原理のように、最終的な(未来から見た)全体を見通すことのできる意識形態(そしてその言語体系)をもった異星人(ヘプタポッド)が出てきます。決定論的な未来と自由意志というテーマは、かつてのヴォネガットのトラルファマドール人の世界観がそうだし、最近ではイーガンの『アロウズ・オブ・タイム』もそうですが(イーガンの場合は物理法則が違うんだけど)、テッド・チャンはそこに変分原理をもちこんでその根拠とした上で、「あなたの人生」を幸福も不幸も含めて全て全体で引き受けるという物語にしたところが素晴らしかったのです。
 映画ではその変分原理の説明などは省かれていて、ちょっともの足りない気もするのですが、映画としてはそれはそれで別にかまわないと思います。そこは母と子のカットバックでうまく表現されていて、とても衝撃的で感動的な場面となっています。原作を知らない方がより驚きと感動を味わえるかも知れません。ただ、未来がわかっていても、定まっていても、自由意志でそれを選択するという「選択」の意味が少しわかりにくいように感じました。確かに注意深く見ればわかるようにはなっているのですが。
 前半はまるでホラータッチで、ヘプタポッドたちがいかにもおどろおどろしい不気味な存在として描かれています。それがだんだんと可愛くなってくるんですよね。あと、音楽と音響のすごさ。これはやはり映画館で見るべき映画でしょう。

 ところで「メッセージ」を見て思い出したんですが、その昔、菊池さんとだったかバカ話をしていた中で、意識とは死ぬ間際に観測者にとっての人生の全てが収束し、過去にさかのぼって再構成されるものだという話をしたことがあります。まるで走馬燈のように、というわけです。
 この時は並行宇宙の収束という話題からだったと思うのですが、それとは別に、決定した未来と自由意志ということでは、有名なリベットの実験から、自意識というのはリアルタイムに存在するものではなく、下位にある各種センサーから神経系などへの複雑な情報伝達の結果として、いわばディレード処理されて後付けで存在するものだということがほぼ確実となっているようです(ただその時間差はほんの0.数秒だということですが)。視覚も聴覚も触覚も、ローカルに独自の処理系をもっていて、それが筋肉組織などのアウトプット系を意識を介さずに直接操作できるが、意識はそれらの複数の情報を統合的に解釈して判断し、ある時間内であれば割り込むこともできるといったところなのでしょう。だから意識は時系列にのって線形に処理されているとは限らず、むしろ様々な部位が並列処理され、つじつまがあうように再構成された結果が自意識というものではないか――次にすべき動作の大きな方向性をさだめ、細かいことは下位レイヤーに勝手にやらせる。方向性をさだめたこと自体もそれが意識にのぼるのには時間差がある。ならば、その自意識の全てがずっと未来の、すべてが確定した時点から遡及して発生したとしても、区別はつかないんじゃないだろうか――それがヘプタポッドの言語を取り入れて思考回路が変わってしまった人間の意識だ、なんてことをぼんやりと考えていました。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

 ごめんなさい。今月はいろいろとあって、ちゃんと読み終わったのは結局これ一冊だけでした。キム・スタンリー・ロビンスンの『ブルー・マーズ』も読んでいるのですが、なかなか読み終わらないの。

『母の記憶に』 ケン・リュウ 新☆ハヤカワSFシリーズ
 『紙の動物園』に続く、古沢嘉通編・日本オリジナルのケン・リュウ短篇集、第二弾。16編が収録されている。藤井太洋の解説と、訳者あとがき付き(今回の翻訳は、古沢嘉通だけでなく、幹遙子、市田泉も分担している)。
 とにかくバラエティ豊かだという印象だ。ハードSFから奇想小説、ファンタジー要素のある中国歴史小説に、東洋風スチームパンク、知性あふれるSFジョーク、そして近未来ミステリーまで。いずれも傑作といっていい。そして彼の作品は、どんなに残酷な過去や、非人間的な未来を描いていても、そこに生きる人と人とのエモーショナルな関わりに重点がおかれており、読むものの心を打つのだ。
 一つ一つ見ていくとしよう。
 冒頭の、「烏蘇里羆(ウスリーひぐま)」は、傑作「良い狩りを」と同様、スチームパンク風というか、パンチカードでプログラムされた機械の馬を率いる日本軍の探検隊が、満州の奥地で巨大なウスリーひぐまと戦う話だ。ファンタジーと改変SFが溶け合って、何ともいえない余韻を残す。このファンタジー要素は、中国志怪小説の流れをくむものとして読める。連想される作品として訳者は「ゴールデン・カムイ」を挙げているが、それもあるけど、諸星大二郎+士郎政宗の雰囲気もあったりする。
 「草を結びて環(たま)を銜(くわ)えん」は中国歴史もので、清が明を滅ぼした際に、揚州で起こった大虐殺を扱っている。1645年といえば日本では徳川家光の時代。太平の世が始まったころに、こんな事件があったのか。事件そのものは戦争における残虐行為だが、それが名もない市民、ここでは娼館の女たちの視点から描かれる。ここにも確かに志怪ものの幻想的な要素があり、そして重要なのは、事件そのものよりも、権力によってその情報が圧殺されるなか、様々な手段でそれを伝え、広げていこうとする人々の強靱さだ。
 それは同じ事件を扱った「訴訟師と猿の王」でも同様である。こちらは百年後の乾隆帝の時代。虐殺の記録は封じられ、それを公にしようとする者は皇帝への反逆者として厳しい弾圧を受ける。ふとしたことからその禁書を手に入れた訴訟師の田は、拷問され残酷に処刑されるが、その記録はやがて日本へまで伝わることとなる。ここでは剣よりペンが、伝え、想像し、広がる言葉が、記録が、情報のもつ力が、強く心を打つのだ。それは文を書くものの責任ということを考えさせ、それは現代にもつながる、作者本人にも関わってくる問題でもある。もちろん読者へも。この作品の〈猿の王〉は『紙の動物園』収録の「月へ」と同じく、斉天大聖・孫悟空であり、トリックスターであり、反逆者の王である。
 中国史ではないが、中国人の歴史を強く感じさせる傑作が、中編「万味調和――軍神関羽のアメリカでの物語」である。これは、19世紀アメリカでの中国人移民と、東部からアイダホへ渡ってきた白人少女との交流の物語であり、中華料理の物語であり、語りによる中国人の伝説と歴史の物語だ。悲しい事件も起こるが、主人公であり、まさに関羽の顕現とも思えるローガンの陽気さと逞しさによって、とてつもなく強靱で明るい物語となっている。ある意味で移民国家アメリカの理想への賛歌であり、固有の文化を保ちつつそれを変革し、多様なものとする柔軟さを讃えるものである。それはまた作者の姿勢でもあるのだろう。SF・ファンタジー要素は少ないが、ローガンはおそらくただの人間ではないように思える。
 巻末のオルターネート・ワールドもの「『輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」(〈パシフィック・マンスリー〉誌二〇〇九年五月号掲載」という長いタイトルの作品にも、中国文化と西欧文明の独自性とその融合というテーマがうかがえる。これはまた、航空冒険小説としても傑作で、訳者もいうように特別な事件は何も起こらないのだが(せいぜい嵐に遭遇するくらい)、美しく、静謐で、そしてうらやましいくらいの夫婦愛が描かれている作品だ。
 よりSF的な作品としては、相対性理論によるウラシマ効果を母と子の関係に落とし込んだ表題作「母の記憶に」がいい。ショートフィルムの原作として書かれたというごく短い作品だが、凝縮された感情が心に染みる。ああでも同じテーマを「ロリコンの変態おじさん」的視点から描いた、ジョン・ヴァーリイの「プッシャー」も思い起こしてくださいね。
 「存在(プレゼンス)」は、訳者がいう〈ガジェットと家族関係〉テーマの作品。そういえば「母の記憶に」も機械としてのガジェットは描かれないが、同じテーマの変奏といっていいだろう。「『輸送年報』」もそうかも知れない。で、この作品では遠隔存在(テレプレゼンス)装置を使って母を介護するという、リアルで深刻な物語が、とても短い枚数の中で情感豊かに描かれ、介護経験者はもちろん、そうでない読者にもいろいろなことを自分に引きつけて考えさせられる傑作である。爪を切るという行為がいくつかのレベルで繰り返され、それが「あなた」という二人称によって読者自身に突きつけられるのだ。
 〈ガジェットと家族関係〉テーマのもう一編「シミュラクラ」では父と娘の関係の中にシミュラクラという異質なガジェットが入り込む。また「ループのなかで」では遠隔操縦兵器により、自分の手を汚さずに遠い国の戦場で人を殺すという、実際の現実にもある状況が、関係者にどのような影響を及ぼすかということを描いているが、そこにも父と娘の関係を含ませている。「ループ」はロボット兵器を動かすプログラムのコードのなかにあるが、その繰返しはまた、親子関係の中にも潜んでいるのだ。
 もっと伝統的なSFを意識したような作品もある。「重荷は常に汝ととともに」は異星の遺跡を調査する地球外考古学者に同行した公認会計士を目指す女性の話だが、彼女こそが異星人の残した文書の真の意味を解読する。
 「残されし者」はシンギュラリティ・テーマで、デジタル世界にアップロードされる(肉体は死ぬ)ことを拒んだ「残されし者」の物語。作者はこの話を重要視しているということだが、テーマはよくある普通のSFである。ただしポストヒューマンとヒューマンの単純な二項対立ではなく、多数者と少数者の文化的多様性と、それを維持するための様々な現実的な条件というところに主な観点があるように思える。
 「パーフェクト・マッチ」はまさに古典的なSFで、何でもかんでもサポートしアドバイスしてくれる(そして何もかもを監視している)AIと、それに反抗し〈自由〉を求める人間の対立を描く。まあ今のパソコンがいっぱいおせっかいなことをいってくることを思えば、同感だという人も多いだろうね。
 「レギュラー」はSFミステリだ。機械で改造した肉体をもつ女性私立探偵が、高級娼婦を狙う連続殺人事件を追う。硬質な文章でサスペンスもあり、ケン・リュウはこんな作品も書けるのだと驚く。SF的なガジェットも多く、とても面白かった。
 異色作が二編。「状態変化」は幻想的な奇想小説といっていい作品。人の〈魂〉が、生まれたときから「氷」や「蝋燭」や「タバコ」といった物として現れる。とても不思議な読後感の残る作品だ。「カサンドラ」は何とアメコミ小説。あのマントをひるがえして飛んでくるヒーローと、未来を見ることのできる女性との、正義をめぐる闘い。確かにそこには、あのタイムトラベルと失われた未来という、現代SFの描くテーマも見られる。これも面白かった。
 そして最後にぼくの大好きな作品が「上級読者のための比較認知科学絵本」。こういう作品は本当に好き。自分がSFファンで良かったと思わせてくれる。宇宙の様々な種族の思考についてと、知識を求めて遙かな世界を旅する船。そして親子。物語といえるほどのものはないが、まるで科学の言葉で書かれた詩のように、世界が広がり、未知の驚異が目の当たりにされる。読みながら、うっとりしてしまいます。
 それにしてもこれだけ多様な作品を書けるケン・リュウは、藤井太洋さんの帯の言葉通り「卓越した作家だ」といえるだろう。圧倒的だ。


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