続・サンタロガ・バリア  (第179回)
津田文夫


 前回も映画を見ようという気になるという話を書いたのだけれど、映画版『BLAME』を見に行こうと思ったら地元ではわずか二週間で上映が終わっていた。こりゃイカンとあわてて『メッセージ』を見てきた。
 テッド・チャンの原作の感触に比べると、映画は宇宙人の造形や設定(あの宇宙船のデザインはどう見たって柿の種だよねえ)に力が入っていて、原作の持つ緻密さが感じられないのだけれど、映画版のストーリーから浮かび上がる未来の経験が経験されるべきものであることを確信して、ヒロインがそれを(その不可能性にもかかわらず)「選択」するような意味合いが浮かび上がる演出に、ちょっと目頭が熱くなった。それはSF的にはあまりピンとこないはずの原作改変なのだけれど、感情的には安っぽくとも泣かせる話になっている。普通に見たらわかりにくい表現だと思うが。

 3月発売なのに買うのを忘れていた佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない It Don't Mean A thing (If It Ain't Got That Swing)』は注文したら再版が来た。うーん、売れているのか、佐藤亜紀。
 前作『吸血鬼』がシリアス&ダークだったので、今回はコメディ/サタイアでお題はタイトル通りジャズ。それもヒットラーの時代のドイツのブルジョア少年が、筋金入りの不良ぶりを発揮して、時代とのねじれたダンスを踊ってみせる。
 今回もとても面白いのだけれど、この作品は佐藤亜紀にしては珍しく、今までの作品では感じなかった日本の小説っぽさが漂っていて、それが受け入れやすさにつながっているのかもしれない。 It Don't Mean A thing (If It Ain't Got That Swing)というデューク・エリントンの曲は、スタン・ゲッツの『Stan Getz at the Shrine』に入っている演奏もいいけれど、モダン・ジャズ・カルテットMJQが再結成後にアトランティックに入れた『For Ellington』中のそれが一番のお気に入り。コニー・ケイ入魂のシンバル・プレイが最高。

 3週間近く抱えていたのが、キム・スタンリー・ロビンソン『ブルー・マーズ』。物語的には、第1作以来の「最初の100人」の話が延々と続くのだけれど、これはあまり面白くない。一つは作品発表から20年という時間が、現在の感覚からすると一種の古めかしさが主人公たちのモラルに感じられてしまうせいである。ヴァーリイみたいにはいかないにせよ、ここでの主人公たちは保守的な人生観を披露しているように見える。そして火星のテラフォーミングを巡る政治的物語も、最初の100人が「老い」に悩まされることも、ちょっと既視感が感じられるのだ。
 一方、この作品をテラフォーミング中の火星に生じた様々な景色を見せるトラヴェローグとして見れば、いまだに最高の美しさを誇っている。テラフォーミング中の火星をここまで具体的なイメージで描き出すことは、『火星の人』が見せた現在の観測データから描かれる火星の景色に比べ、本格的なSF的想像力による描写が要求され、それはキム・スタンリー・ロビンソンの得意とするところだ。この落ち着いた風景描写のリアリティに魅力を感じることが出来れば、これは時間を掛けて読むに値する1作だろう。

 いまやアンソロジストとして名シェフぶりが期待できるようになった中村融編『夜の夢見の川 12の奇妙な物語』はやや地味な表紙だけれど、読み終わればこのアンソロジーの内容をよく反映していることがわかる。
 クリストファー・ファウラー「麻酔」は、いわゆる歯医者ホラー。まあ、誰だって歯医者のドリル音には身の毛がよだつわけで、これはそれを地で行っている1作。
 ハーヴィー・ジェイコブズ「バラと手袋」はいじめられっ子の執念は怖いぞというところ。キット・リード「お待ち」は久しぶりの再読。不気味な感じがよく出ている。
 これに較べるとフィリス・アイゼンシュタイン「終わりの始まり」はオーソドックスな怪談だ。ここら辺から解説にWispers とかQuark とか、20代の頃古書店や洋書屋で見かけたなつかしいオリジナル・アンソロジーのタイトルが出てくるのがうれしい。
 そのQuark/#1に収録されていたエドワード・ブライアント「ハイウェイ漂泊」は全然SFっぽくないけれど、登場人物の会話にブライアントらしさを感じる。
 キット・リード作品の解説で安田さんがその作風を、「シャーリイ・ジャクスンとケイト・ウィルヘルムの中間に位置する」と評した紹介されているけれど、その一方の極ケイト・ウィルヘルム「銀の猟犬」は、なんでそういう話なのかはよくわからないが、妙に納得してしまう不思議な作品。再読。
 スタージョン「心臓」はいかにもスタージョンといった小話。このひん曲がった過剰さが50年代スタージョンだな。
 フィリップ・ホセ・ファーマー「アケロンの大騒動」は西部劇パステーシュ。よくやるなァ。
 ロバート・エイクマン「剣」とカール・エドワード・ワグナーの表題作は、男視点女視点の違いはあれ、セックス臭が強く漂うホラータッチの怪奇もの。
 チェスタトン「怒りの歩道―悪夢」はなぜか横田順彌の横断歩道の話を思い出す。
 ヒラリー・ベイリー 「イズリントンの犬」はイギリス人らしいイケズなサタイア。犬がしゃべるとロクなことはない。
 以上、結構楽しめました。

 中村融アンソロジーの後で読むと頭がクラクラしそうなのが、新☆ハヤカワ・SF・シリーズのケン・リュウ『母の記憶に』。古澤嘉通さんによる日本オリジナル編集第2弾短編集。
 冒頭の「烏蘇里羆(ウスリーひぐま)」から「『輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」(〈パシフィック・マンスリー〉誌2009年5月号掲載)」まで、500ページに16編というヴォリューム。
 この短編集でもケン・リュウの短編作家としての実力が群を抜いていることは十分得心がいく。ケン・リュウの強みの一つは、中国人として中国の文化遺産を自在に扱い得ることだろう。ここに収録された短編のうちで強く印象に残るのは、やはり中国に関わる題材を扱ったものが多い。悲劇的な話から希望につながるひねりが作品の読み心地をよいものにしている。表題作のようにはっきりとSF的な設定を使ったものは、読ませるけれども上記のような作品に較べるとケン・リュウのうまさは通常のテクニックとして現れる。まあ、「上級読者のための比較認知科学絵本」みたいな作品からはストレートにSFらしさが横溢しているけれど。ミステリの「レギュラー」はやや教科書通りな作りがうかがわれた。

 映画は見逃してしまったけれど、それにちなんで編まれたオリジナル・アンソロジー 原作:弐瓶勉『BLAME! THE ANTHOLOGY』は、原作への寄り添い方はさまざまだけれど、どの作品も読んでいて楽しい充実した短編集になっている。
 九岡望「はぐれ者ブルー」は、原作の世界の片隅であったかもしれない1エピソードになっている。話のスタイルはオーソドックスで、他人からは無益と思われている青い塗料を探し求める主人公の一種の友情物語がすっきりと描かれて、これ自体がコミックに描かれているような印象が残る。
 小川一水「破錠円盤―Disk Crash―」はこの世界の構造を明らかにしようとする女/男役と特殊な環境にある旅籠の娘の交流を縦糸に、世界の成り立ちの一部が暴かれる物語。面白い。
 野崎まど「乱暴な安全装置―涙の接続者支援箱―」も原作の世界の片隅にあったかもしれないストーリーだけれど、ここでは火消し/消防組/消防団が存在する町での物語。かなりシニカル。
 酉島伝法「堕天の塔」は延々巨大なシャフト空間を落ち続ける話だが、作者の得意/特異な言葉遣いが炸裂していて、いかにも酉島伝法らしい1作。直接的な関係はないと思うけれど、山尾悠子「遠近法」を思い出す。
 飛浩隆「射線」はむちゃくちゃなスケールで進行するシノプシスみたいな物語。ひたすら描写だけでなりたっているので、SFでしかこんな無茶は出来ないだろう。

 ノンフィクションは一ヶ月以上抱えていた児島襄『朝鮮戦争』Vol1~Vol3のみ。だいぶ以前にいわゆる捨て本を拾ったのだけれど、かなり痛んだハードカバーが3冊。昭和52年刊。一時文春文庫に入っていたはすだけど現在絶版かな。
 以前に読んだハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』が、あまりにも戦闘現場のアメリカ兵に密着した作品だったので、やはり全体像も見ておきたいと思いようやく読んでみた。週刊現代に連載されていたと云うことで、読みやすいのだけれど、さすがに一気読みは出来なかった。
 この3冊本は、戦争の勃発から3年後の休戦協定まで、韓国(朝鮮)・国連(アメリカ)軍そして中国(日本も)と、まんべんなく扱って3年間にわたる戦争の推移を描いているうえ、今では忘れられた当時朝鮮(韓国側)で生じた様々な事件を描写しており、初めて知ることも多かった。ただし作者も云っているように、1977年当時利用できた資料はアメリカと韓国に限られており、そのうえアメリカ国立公文書館では文書作成から50年未満と云うことで、まだ公開制限があったため、児島襄は将来中国や北朝鮮それにソ連の資料がオープンになったとき、改めて誰かが朝鮮戦争史を書くべきだろうといっている。
 それがハルバースタムであるべきだったかどうかはわからないが、ハルバースタムが書いたのは忘れられたアメリカ兵の戦いだった。児島襄版を読むとハルバースタムが力を込めて描いた悲惨な戦闘は、この3巻本では最大の戦闘でもわずか数ページの小項目にしかすぎない。
 限定戦争とはいえ朝鮮戦争もその全体を描こうとすれば、膨大なものになることは明らかだ。朝鮮戦争が占領下日本の出発点の一つであることは、現在でも広く知られるべきだろう。


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