内 輪   第312回

大野万紀


 8月27日(土)、名古屋の椙山女学園大学にて開催された、名古屋SFシンポジウムに初めて参加してきました。2014年から始まり、今年で3回目ですが、合宿はないものの、パネルディスカッション中心の真面目な集まりで、東京のSFセミナー、京都の京都SFフェスティバル、そして名古屋のSFシンポジウムと呼ばれるように、長く続くことを期待します。
 午後から始まり、大学の教室を会場に3つのパネルがありました。別室では、SFや幻想小説の新刊や古本、ファンジンの販売、サイン会も開かれていました。

 最初のパネルは「10000光年は遠すぎる~SFミステリを語る」と題して、作家の太田忠司さん、書評家の大屋博子さん、司会は名大SF研出身の若手レビューアー片桐翔造さん。アシモフの「SFミステリはフェアか」という問いかけに始まり、様々な作品についてSFとミステリの双方の観点からの深い論考がありました。基本的に、ルールがはっきりしていてそれが物語のロジックの中で守られているなら、魔法の存在するファンタジーでも、テレポーテーションができるSFでも、ミステリとして問題ないということでした。興味深かったのは、太田さんの「90年代にひとつのエポックがあった」という指摘で、新本格の問題も含め、詳しく聞きたいと思いました。

 二つ目のパネルは「再・SF入門」。翻訳家の中村融さんを中心に、SFシンポジウムの中心人物のひとり渡辺英樹さんが司会で、若手代表に20代の名大SF研会員・太田貴大さんを加えて、福島正実『SF入門』、筒井康隆『SF教室』から、『別冊奇想天外』、サンリオの『SF百科図鑑』、KKワールドフォトプレスの伝説的なムック『SF兵器カタログ』、自由国民社の『世界のSF文学総解説』、最近の各種の総解説本まで、ひとつひとつ解説していきます。ぼくの執筆した記事が含まれる本もあり、めちゃくちゃ懐かしく、ちょっと気恥ずかしいパネルでした。渡辺英樹作成の「SFベストの変遷」という資料もあり、オールタイムSFベスト10がどのように変遷していったかという非常に面白い分析がありました。また、中村さんからは、何とチャールズ・ハーネス『パラドックスメン』の翻訳が出るという最新情報も。

 最後は「奇妙な味とSFの薫り~異色作家を読む」と題するパネル。翻訳家・ゲームデザイナーの安田均さんを中心に、翻訳家・作家・編集者の植草昌美さん、そしてイラストレーターのYOUCHANさん、司会がツイッターでは舞狂小鬼(マイクル・コオニ)として有名な洞谷謙二さんと、学生の道山千尋さん。このパネルはもう安田さんの独壇場。今世紀になって少し余裕ができたので、古い海外小説を読みあさっているとのこと。今年はちょうどサキ没後百年、ロアルド・ダール生誕百年にあたり、あらためて「奇妙な味」の小説を読んでみるのもいいかも知れない。植草さんの編集した「ないとらんど通信・特別号」の「奇妙な味のブックリスト」があり、ハヤカワの〈異色作家短篇集〉から国書刊行会〈バベルの図書館〉、河出の〈奇想コレクション〉といった叢書、海外作家や日本作家の作品が網羅されていた。お勧めとして、植草さんは中村融編『街角の書店』やE・F・ベンスン『塔の中の部屋』、安田さんは〈異色作家短篇集〉や〈バベルの図書館〉の作品、YOUCHANさんはジーン・ウルフ『ジーン・ウルフの記念日の本』や海野十三の諸作品、太田忠司『伏木商店街の不思議』をあげていました。

 閉会後は懇親会が開かれ、久しぶりの懐かしい顔ぶれにも会えて、とても楽しい時を過ごしました。

会場 10000光年は遠すぎる~SFミステリを語る 再・SF入門 奇妙な味とSFの薫り~異色作家を読む

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『筺底のエルピス4 -廃棄未来-』 オキシタケヒコ ガガガ文庫
 何と読み終わってから3巻を読んでいないことに気づいたが、まあいいか。
 主人公たちが徹底的に敗北する話である。超人たちの異能バトルが続くが、何しろ相手が圧倒的に強すぎ、邪悪すぎる。バチカンの祓魔師たちもすさまじい戦いを繰り広げるが、歯が立たない。すでに敗れて敗走中の〈門部〉の主人公たち、少年少女たちにも恐ろしい運命が待ち受ける。そして鬱々とした結末へと情け容赦もなく物語は進んでいく。
 ぶ厚い。このぶ厚い4巻はそんな悲劇をこれでもかとばかりに描いていく。もちろん希望(エルピス)はある。本当にか細く、残酷な希望だが――それは次の巻へと続くのだろう。
 というわけで大変面白く読んだのだが、正直いって、ちょっと基本設定がきつすぎる。あと、異能バトルのシーンは大変迫力があるのだが、何が起こっているのか、わかりにくかった。動体視力は、まあ関係ないけど、読書における動体視力的なものが要求される。若い人はすっと入っていけるのかな。本書での異能は、〈柩〉というガジェットによるもので、一言で説明が難しい。直感的にわかりにくいものだから、何かピュンピュン飛んでるみたいな感じしか伝わってこない(というかぼくの理解が追いつかない)。
 より困っちゃうのが基本設定で、本書はまさにサブタイトル「廃棄未来」そのものの話なのである。これだけのページ数を使って語ってきたこと、傷つき、戦い、多くのものを犠牲にしてきたことすべて、それがぽいっと廃棄してすべてをやり直すためのもの――ちょっと待ってといいたい。最後の彼女の言葉「それでも、あそこが私の生きた世界なの」がすべてでしょう。これは希望でも解決でもない。何とも悲しすぎ、残酷すぎる。廃棄された時間線が消えてしまう、なかったことになると誰がいえるのか。並行世界で分岐した時間線はなくなるわけじゃない。なくならないから並行世界なんだ。話は違うが、イーガンの短篇で、アウシュビッツの虐殺がなかった時間線を作り出しても、虐殺のあった時間線は放置されたままとなる、その全てを救うことができないのか、という悲痛なものがあった。もし次巻でやり直したとしても、本書で起こった悲惨は解消されないだろう。なんと残酷な話なのか。でも傑作だ。

『ずうのめ人形』 澤村伊智 角川書店
 日本ホラー小説大賞を『ぼぎわんが、来る』で受賞した作者の受賞後第1作。続編というわけではないが、同じ登場人物が登場し、重要な役割を果たす(オカルト探偵というか、退魔師というか、そんなシリーズにできるんじゃないかな)。
 オカルト雑誌で働く若い編集者の藤間は、異常な死をとげたライターの残した原稿を読むことになる。それは不幸な家庭に育ち、ホラーが好きで周囲から孤立し、いじめにもあっている中学生の少女、里穂を主人公にした小説で、初めは彼女の辛い日常がリアルに描かれているのだが、そこに「ずうのめ人形」という都市伝説が恐ろしい形で立ち現れてくる。
 本書は、藤間を主人公にしたリアルタイムのストーリーと、彼が読んでいるこの小説のストーリーとが交互に描かれ、そしてついに現実と小説とが入り交じっていく。ずうのめ人形に呪われた藤間を助けようと奔走するのが、前作でも登場した、オカルトライターの野﨑と、彼のパートナーで霊能力のある女性の真琴である。やがて、藤間の読んでいる小説がフィクションではなく、真琴の過去の事実ともからんでいるのがわかる。
 若い藤間がいい。彼は共感できるキャラクターだ。また、小説内小説に登場する里穂も、不幸な境遇にあっても健気に生きる少女だ。彼らの前に現れるずうのめ人形の脅威はとても恐ろしい。ただ、本書の後半、テーマが明らかになってくるあたりから、少し印象が変わってくる。最後まで読めばなるほどと思うのだが、途中までは、彼らがなぜずうのめ人形に呪われなければならないのかよくわからない。そして主題は、個人の問題から、都市伝説のシステムの問題へと移っていく。
 小野不由美の『残穢』や、とりわけ鈴木光司『リング』がそのまま出てきて、本書の基本テーマを作り上げている。それは、情報には人を殺す力がある、ということであり、情報は「感染」するということである。
 こういえばすごくSF的なテーマに思えるだろう。実際、本書には直接的で物理的な形での怪異、超自然現象はほとんど現れない(クライマックスでは確かに猛威を振るうのだが)。怪奇映画、都市伝説、実在の小説、すべては情報であり、情報が怪異を呼び寄せる――人の心の仮想現実の中に。そして何らかの媒体(メディア)を通じて、それは人から人へと感染する。
 実は本書にはそこにミステリー的なトリックがあり、それゆえ、怪異が物理的な力を振るうところでは、基本テーマ(と勝手に思っているものだが)からの逸脱があって、少し引っかかりを覚えた。

『青い海の宇宙港 春夏編・秋冬編』 川端裕人 早川書房
 SFマガジンに連載されていた長編。これは理科的な想像力とその実践の物語である。傑作! 宇宙は好きだがロケットや技術の話にはあまり興味がない、という人にもぜひ読んでほしい。本書は小学生たちがロケットを打ち上げるという話だが、決してプロジェクトXなだけの話ではない。自然と人間、宇宙と人々がすなおにつながる、そんな美しい物語である。
 主人公は、東京から宇宙港のある種島へ1年の遊学に来た小学生の男の子。ロケットにはあまり興味がなく、それより虫や魚や自然が大好きな、野外活動系の理科少年である。そして、島の一部の人たちと同様、人には見えない何ものか(精霊?)の気配を感じ、見ることのできる力をもっている(ところで「種島」とは種子島のことだが、フィクションと断ってもそのままでは使えない事情があるのだろうか)。
 主人公のまわりには、島の活発な女の子、同じく遊学で来た北海道の、これはもう典型的な宇宙工学少年、やはり遊学で来た、フランス人の母をもつ大人しい少女(この子の母は宇宙飛行士で、ステーションに長期滞在中なのだ)。そして彼らを取り巻く大人たち、JAXAならぬJSAで広報の仕事をしているが、本当なら現場でロケットを作っていたい気持ちの押さえきれない男、過去にわが国の大型ロケット開発の先端にいた職人肌の老人、宇宙港のある島の、手に職を持つ様々な大人たち、里親、先生……。
 基本、本書で嫌なことは起こらない(起こりかけるけれど、大きくはならずにおさまる)。主人公たちは小学生なので、ほのかな気持ちはあっても、青春恋愛ものにはならない。そして最先端技術ではなく、枯れたローテクな技術を用い、小学生たちがたった1年で(事実上はたった3ヶ月で)大人たちの力を借りながら、本当に宇宙へ飛び立つロケットを作ってしまうのだ。少し未来の話ではあるが、ほぼ現在の延長にある日本が舞台で、本当にそんなことができるのかと思ってしまうが、技術的にもしっかりとした裏付けがあり、むちゃくちゃ実行力のある子供たちなら、やってしまうかも知れないなと思わせる。
 それだけではない。ロケットに乗せる小さな手作りの宇宙機は、太陽光に乗る自立する宇宙ヨットとなって、遥か太陽系の果てを、さらに恒星の世界へと目ざすのだ。後半を読みながら、本当にウルウルしてしまった。感動というのにも色々ある。がんばる子供たち、見守る大人たち、夢を思いだし、やる気を取り戻す青年、目の前の小さな自然が、地球全体やはるか宇宙にまでつながっているという感覚、そして、探査機はやぶさの帰還に涙した人ならわかるだろう、ちっぽけな機械が、人々の思いを乗せて、広大な宇宙の彼方を目ざして孤独に飛び続けるその姿。
 それにしてもこの子たちはいいなあ。はるかな昔に、2B弾や花火から火薬を抜いてロケットを作った遠い時代を思い出す(危ないのでやってはいけません)。

『クララ殺し』 小林泰三 東京創元社
 『アリス殺し』の続編で、同じ世界観をもち、登場人物にも共通のものがある。本書だけ読んでもわからないことはないだろうが、やはり『アリス殺し』を読んでから読む方がいいだろう。設定の中で一番重要なのは、この地球(といってもあくまでも本書の中での「地球」だが)の他に、並行して不思議の国のアリスの世界や、本書で描かれるホフマンの世界(19世紀の幻想小説作家、E・T・A・ホフマンの小説の世界)が存在すること。そしてそれぞれの世界の人間には、地球にアーヴァタールがいる(全員かどうかはわからない)。そして、片方の世界の人間が殺されるとき、そのアーヴァタールも何らかの事故で死ぬことだ。
 並行世界の間には物理的な関係はなく、本体(どちらが本体かという問題はあるが)とアーヴァタールには直接の接触はない。だが普通、夢の中で相互にコミュニケーションができる。そしてそれが夢ではなく、アーヴァタールのいる別世界なのだということを理解している人々もいる(本書の登場人物たちは大体そうだ)。
 本書はそんな世界をまたがった殺人事件とその謎解きを描く、本格ミステリなのだ。前作もそうだが、本書にはさらにややこしい世界と登場人物間の関係、世界間のルールがある。またホフマン宇宙には魔法もあり、くるみ割り人形が人間と入れ替わったりもする、そんな中での、フェアな本格ミステリを描く試みなのである。
 前作はアリスの世界だったのでわかりやすさもあったが、今回はホフマンの小説ということで、知名度がもう一つ。でも、とても親切なことにホフマンの作品について巻末に作者の解説つきだ。
 ストーリーについては要約しても意味が無いので、読んで欲しいとしかいうほかない。ひたすらロジックにこだわるパズル的な作品ではあるが、そんな中で、とりわけ地球での主人公、井森のアーヴァタールであるアリスの世界の蜥蜴のビル(なぜアリス世界の存在がホフマン世界に物理的存在としているのか、そこはまた別の隠されたロジックがあるのだろう)が面白い。ホフマン世界では何しろ蜥蜴なので、おつむが弱いのだ。彼の言動と、それに対するまわりの反応が楽しい。
 本書のロジックをしっかりと理解しようと思うと、かなり大変で、ちゃんと図でも書いてやらないと難しいかもしれない。まあ、著者のハードSFと同じで、そこらを雰囲気で読み飛ばしてもそれなりに面白く読めてしまう、そんな小説である。

『死の鳥』 ハーラン・エリスン ハヤカワ文庫SF
 今度はエリスンか。しかし『世界の中心で愛を叫んだけもの』が1973年に訳されてから40年以上たって、これが何と二冊目の短篇集、しかもこれまでSFマガジンやミステリマガジンに訳されたものを集めた日本オリジナル短篇集だ。まあ色々とあったわけですね。たぶん。
 とはいえ、1編をのぞき収録作の全てがヒューゴー賞やネビュラ賞、アメリカ探偵作家クラブが授与するエドガー賞の受賞作であり、質的には間違いなくエリスンのベスト短篇集だといえる。65年の「「悔い改めよ、ハーレクイン!」とチクタクマンはいった」から、87年の「ソフトモンキー」まで、60年代後半から70年代の作品を中心に10編が収録されている。
 久々に読み返したわけだが、初めて読んだときの衝撃は再読してもほとんど衰えておらず、SFとして書かれた作品ではないものまで含めて、むしろ現代SFの文脈でも読めるということに驚かされた。
 かっこいい、はったりの効いたスタイルと激しく暴力的な内容にもかかわらず、失われたものへのノスタルジーと、それが取り返しがつかないことへの深い悲しみが、繰返し多層的に描かれている。その、姿を変えては何度も現れるモチーフ、現実世界をも引用するフラクタルな多重構造が、現代SFの最先端とも響きあうのだ。
 エリスンの作品では、重なり合った複数の世界が描かれていることが多いが、それは普通のSFの平行世界のように、くっきりと独立して存在するものではなく、この現実と重畳し、時間的にも空間的にも入り混じっている。複数世界が存在するというより、この現実自体がローカルで私的な複数の世界のパッチワークから成り立っているといった方がいいだろう。かつてはそれを幻想と呼び、内宇宙と呼んだ。今では、そんな区別は無意味に思える。現実と仮想現実に絶対的な違いを見つけることは難しく、意識も(魂も)リアルで確実なものとはいえなくなった。
 そんな今、エリスンの作品を読むと、それがまさに今の現実と重なっていることがわかる。当時のアメリカ以上に、21世紀の現実は様々な形態の悲痛な残虐行為やテロリズムによって多重化されている。彼の描く神や悪魔を、抑圧的な日常社会の空気と読み替えてもいい。いつまでも5歳のジェフティ、何十年も施設に閉じ込められていて人生を失った老婆、切り裂きジャックや、狼男や、楽園を追放されたアダムや蛇や、スロットマシンに閉じ込められた娼婦、そんな虐げられた魂たちの怒りと反逆。作品的にはもっともプリミティブなハーレクインでさえ、ゼリービーンズを武器にそれに立ち向かおうとする。
 むなしい行為ではあるが、そこにエリスンの求める自由、血みどろの魂の解放があるのだろう。


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