内 輪   第303回

大野万紀


 京フェスの後、大阪駅前のグラン・フロント大阪で開かれていた「[世界を変えた書物]展」へ行ってきました。
 これは金沢工業大学が所蔵する科学技術関係の稀覯本を入場無料で多数展示し、しかもフラッシュをたかなければ写真撮影が自由というものです。これはすごい。
 会場は、分野やテーマごとにコーナーが分かれ、それぞれガラスケースに入った初版本が展示されています。右の写真は、ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』(1610年・初版)です。こんな感じで、ニュートンの『プリンキピア』、コペルニクス『天球の回転について』、ダーウィン『種の起源』、そしてアインシュタインから湯川秀樹まで、みんな実物であり、本当に圧倒されます。
 日曜日の昼下がり、大勢の人が熱心に、静かに列を作って見学していました。
 それにしても、これだけの稀覯本が金沢にはあるんですね。びっくり。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『明日と明日』 トマス・スウェターリッチ ハヤカワ文庫SF
 アメリカの新人作家のデビュー長編。8月に出た本だが、何かもう一つという評判だったので、読むのが遅れた。もっと早く読めばよかった。面白かった。特に前半は。
 近未来のアメリカ。ピッツバーグが核テロにより壊滅。そこで妻を失った主人公は、ドラッグに溺れ、在りし日のピッツバーグをアーカイヴした仮想現実に入り浸っている。彼は保険調査の仕事をしているが、アーカイヴの中で調査対象の女性の死体を発見し、過去の幻影と現実とが混淆する凄惨な事件に巻き込まれていく。
 SFミステリである。近未来が舞台で、刺激的な仮想現実空間が描かれていることから、SFには違いないのだが、ストーリーは女性の連続殺人を追うハードボイルドな犯罪ミステリで、それも後半やや腰砕けになるところから、もう一つという評判になったのだろう。だが、特に前半のブラックな近未来社会の描写は、なかなかのリアリティがあって、ぞっとするような魅力に満ちている。
 とにかくモラルとかプライバシーとか、そういうもののタガが外れた社会である。今でも現実にそんな傾向があるが、大統領だろうが犯罪被害者だろうが、あらゆるプライベートなディテールがネット上に暴露され、公開され、悪趣味な視点で面白おかしく攻撃され、炎上させられる。それが当たり前となっている。
 人々はアドウェアというプラグインを頭に埋め込んでいるのだが、その名のとおり、街を歩き、何かを見るたびに、その人の感じ方に応じてリアルタイムで変化する広告が、3Dで現実世界にオーバーレイされて表示される。仮想現実のアーカイヴも、監視カメラや一般の人々がその目で見た光景が集められて編集され、再構成されている。だがそれが、訪れる人のアドウェアとインターフェースして、インタラクティヴに動きを変える。基本的には現実の過去の記録なのだが、それが心象風景と呼応して幻想を生み出していくのだ。
 この悪夢的な未来の描写がすさまじく、何だか本当に実現しそうでイヤな感じに印象的だった。

『天空の約束』 川端裕人 集英社
 これは個人的に読むのを楽しみにしていた本。気象の動きを見ることができ、気象を予知する能力を受け継ぐ一族を描く「気象SF/ファンタジー」である。以前に出た傑作『雲の王』と設定を同じくしているが、続編ではなく、スピンオフ作品という位置づけだ。
 比較的短い8編と、長めの1編「分教場の子ら、空を奏でる」からなる連作短篇集だが、実質は1つの長編である。それだけで独立した中編として読める「分教場」を除くと、他は小さなエピソードの断片的な描写であり、それらが時間と空間を越えて響き合うことで、毎日見上げる空の雲のように、壮大でありながら切なく日常的な物語が見えてくるのである。
 『雲の王』がはっきりとSF、あるいは理科小説だったのに比べ、本書は一族の人間的な側面に重点が置かれ、科学的な解明よりは、あるがままの幻想的な能力として描かれることで(それは一族の過去、歴史、人々のつながりに視点があるからでもあるが)、ファンタジー的な要素が強くなっている。小説としては、それは強みである。とはいえ、室内の微気候、ステージに積乱雲を作り出す雲の芸術、一族の温度や空気の動きを見る能力についての、ひとつの科学的示唆など、決して超自然的なもの、妖怪や化け物としてではなく、一般の人とは違っているが特殊で優れた能力をもつ普通の人間として描くことに揺るぎはなく、しっかりSFしているといえるのだ。
 高校時代の写真部の仲間と再会して、あのころの謎を思い出す「眠り姫は、夢で見る」もめちゃくちゃ切なくて愛らしくて好みだが、戦時中の長崎の分教場で、謎めいた元気な子供たちと新任の女の先生が出会う、微笑ましくて哀しく、恐ろしくてパワーにあふれた中編「分教場の子ら、空を奏でる」が傑作! だって、分教場でしょ、女の先生でしょ、謎の子どもたちでしょ、古いSFファンなら「ゼナ・ヘンダースン!」と叫ぶところだ。もちろん、こちらはもっとささやかな能力で、それがリアルな歴史の悲劇と直結している。そういえば、雲や気象を芸術作品にする話は、ヴァーリイの「カンザスの幽霊」もそうだったなあ。

『なんでもない一日』 シャーリイ・ジャクスン 創元推理文庫
 シャーリイ・ジャクスンといえば「くじ」や「ある晴れた日、ピーナツを持って」(本書では「なんでもない日にピーナツを持って」)のような人間心理をえぐる、ぞっとするような短篇や、『野蛮人との生活』のような日常的でリアルなドタバタ・エッセイでも有名だが、本書はそんな作者の様々なタイプの短篇23編とエッセイ5編を収めた短篇集である。
 奇妙な味の小説というものがある。江戸川乱歩の造語だけど、確かに彼女の作品にはぴったりくる。人間心理の恐怖、超自然のホラーから、日常の中のすき間、普通の人間のぞっとするような二面性……。
 コメディタッチの作品だって安心してはいけない。ブラックユーモアという言葉もあるが、笑いと哄笑、悪意には近しい関係がある。誰にも相手の真の心はわからない。人間は合理的なものではない。日常の中にも不条理は満ちている。なぜ、どうして、理由はわからない。理知的で常識的な人の中にも狂気は潜んでいる。
 そんな後味の悪い、嫌な気分にさせられる、でも恐ろしく魅力的な短篇群。前半にはまさにそんなおぞましさと不気味さを味あわせてくれる作品が主に集められている。「なんでもない日にピーナツを持って」がその代表だ。後半にはうって変わって『野蛮人との生活』の一編のような、実話っぽい日常マンガ的な、ユーモラスな作品が並ぶ。「S・B・フェアチャイルドの思い出」や「カブスカウトのデンで一人きり」などもう最高におかしい。だけど安心は禁物。同じものを視点を変えて見ているだけかも知れないのだ。人間たちの不思議さについては、恐怖もドタバタも、さほど違いはないのかも知れない。
 中には短かすぎて、わかりにくい作品も含まれている。でもその雰囲気はしっかりと伝わってくる。ストーリーラインは一つではない。語られないストーリーラインの方が重要なのかも知れない。

『神の水』 パオロ・バチガルピ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 水資源の枯渇した近未来のアメリカを舞台にした、アクションとサスペンス満載のハリウッド娯楽超大作――といった雰囲気の作品である。何だか揶揄しているように聞こえるかも知れないが、そうではない。面白くてはらはらドキドキで、ページをめくる手が止まらないという、そんな読み応えのある傑作なのだ。
 決して浅薄な物語ではない。〈社会派〉バチガルピらしい、重くて深いテーマを描いている。それは、アメリカ南西部ではすでに近い未来の現実として見えてきた、渇水による農地や都市の崩壊、そして大量に発生する難民問題(原因は違うが、シリアやイラクやアフガンの難民とまさに二重写しになる光景が展開する)、それらによる市民的秩序の崩壊だ。これから先の未来が、今と同じではあり得ないというものだ。
 娯楽大作の形をとって、日常の中で少しずつ進展し、ある日なだれ落ちるように臨界を越えて、今の当たり前の生活が二度と返らない過去のものとなってしまう、そんな問題の存在を突きつけ、警鐘を鳴らすことこそ、作者の意図したものなのかも知れない。
 現代の日本ではなかなか身近に考えられないかも知れないが、水資源や水利権を巡る問題は昔からそこら中にある深刻な問題なのだ。図書館戦争ならぬ水道局戦争。ぼくの住む街でも、その昔、村同士が用水を巡って激しい戦いを行ったという記念碑が残っている。
 本書は3つの物語が並行して語られ、それがからみあい結びついて、最後は1つに収束する。主人公は、いかにもハリウッド映画のヒーローになりそうな、ダークな、それでいて優しさも秘めたマッチョ男、ラスベガスの水工作員(ウォーターナイフ)であるアンヘルと、フェニックスのスラムに住み込んで身の危険も顧みず権力の闇を暴こうとする、正義感に満ちたジャーナリストのルーシー(しかも美人)、そしてテキサス難民の娘で、底辺にいながら様々な危険に巻き込まれる少女マリアである。
 残虐な死、悲惨な事件、激しい戦闘、そして彼や彼女たちのほのかな恋。中国資本によって建設中の、富裕層の人々が豪華で清潔な暮らしを営む巨大な閉鎖環境都市の、あからさまな美しさ。そういったいかにも映画的な魅力に満ちている。ストーリーにSF的な要素は乏しいかも知れないが、背景となるテーマはSFそのものであり、読み応えは満点。
 なお、メインとなるストーリーラインはというと、これは典型的な宝探し、謎解きもの。みなが追う宝の秘密は、伏線がばっちりなので早めに想像がつくのだが、三つどもえ四つどもえ、裏切り、偶然、人間的な弱さやミスもからんで、まさに波瀾万丈。しかし、こんな状況になっても、法的な権威が優先されるものなのだろうか。先日見たニュースでは、日本でも湖の権利を巡って、江戸時代に下された権利と今の法律が争うような話があったけれど。あと、とにかくカリフォルニア人が一番悪者だということはわかった。

『シャッフル航法』 円城塔 河出書房新社NOVAコレクション
 長編『エピローグ』、『プロローグ』とも関係の深い、SF寄りの作品10編が収録された短篇集である。書き下ろし日本SFアンソロジー『NOVA』から4編、ハヤカワSFシリーズJコレクションから1編、『SF宝石』から1編、SF大会記念アンソロジー『夏色の想像力』から1編が収録されている。他は電子書籍から1編、『GRANTA JAPAN with 早稲田文学』から1編、そして表題作が『現代詩手帳』からの収録である。
 しかし、SFが7編、他が3編というわけではない。いずれの作品も、そして『エピローグ』と『プロローグ』も、同じ多宇宙(マルチバース)を〈言葉〉を手がかりに、作者の興味のおもむくままに探求した、いわば〈テキスト・ワールド〉での知的冒険を描いた作品だといえる。
 根本のテーマは同じであっても、複数のレイヤーに、フラクタル的、カオス的に分かたれ、さらにそれらが畳み込まれているので、読後感は当然異なる。
 まずは遠未来の叙情的なSFとして読める「内在天文学」。これは遠い未来に、南極オキアミだかイカだか土ボタルだかによって認識されてしまい、イーガンの「ルミナス」みたいに物理法則も変わってしまった宇宙を、科学的な考え方で認識しなおそうとする老人と子供たちを描く作品だが、男の子と女の子のほんのりとしたラブストーリーとしても読める傑作だ。
 「イグノラムス・イグノラビムス」はグルメSFで、ワープ鴨とか宇宙クラゲとか火星樹の葉とか、関西のSF作家が好きそうな単語が飛び交うが、これも意識と「あらかじめ定められた世界」がテーマの尖ったSFである。
 「シャッフル航法」は文章がシャッフルされ、万華鏡のように様々な様相が現れてくる詩的な作品だが、独特なリズム感がとても心地よい。京フェスではこの作品を作ったプログラムが公開されていた。ランダムにくり返すカオスな組み合わせの中から不意に秩序や意味が立ち現れるところなど、まさに作者の専門分野に重なるところである。しかしそんな風に手の内を明らかにされても、そのアウトプットはとても面白く、ボコボコガンガン、支離滅裂に、心に残る。
 「φ(ファイ)」は、筒井康隆の「残像に口紅を」のように、しだいに宇宙の文字数が減っていって、最後は空になるという実験小説だが、それ以上に記号で作られた宇宙の論理構造を描く、数学小説でもある。小説も文字=記号で表現される世界だが、ここで文字の操作、演算、解釈を行っているのは一体誰なのかという問題がある。ここに至って、それこそが〈テキスト・ワールド〉の共通の執筆者だということがわかってくる。これも京フェスで執筆を支援したプログラムが公開された。
 「つじつま」は、産まれてこないまま大きくなって、母の胎内で暮らす息子という不条理な話。そこは無線LANで外界と通じ、彼のガールフレンドたちも訪問してくる。そんなあり得ない状況も、言葉でなら描くことができ、まあそんなものかと納得できるのである。
 「犀が通る」は、「喫茶店」小説にして「犀」小説。ここでは人々の不条理な会話を通じて、それを記録しているのは誰かという、おなじみのテーマに関わってくる。
 「Beaver Weaver(ビーバー・ウィーバー)」は、本書の中では古い作品(2009年)だが、物語や文章が世界を変容させるという意味では共通のテーマをもち、さらにいえば『エピローグ』とも直接につながる本格SFでもある。
 「(Atlas)3(ルービック・アトラス)」は、主人公が殺され続けるという奇怪なミステリ的場面から始まる。主人公は地図作成者。だがここでの地図(マップ)とは数学的な写像(マップ)と考えるのが妥当だろう。ある種の関数の欠陥によって、写像し変換した結果が矛盾していく。その関数とは小説を語る言語であったり、人間の意識を構成するものだったりするのだろう。この小説を支配している「カメラ」という存在は、観察者であり、ここでも主観と客観の矛盾が立ち現れている。これまた『エピローグ』のエピソードを内在した短篇だといえ、『プロローグ』とも直接関連している。
 「リスを実装する」は、ほぼ現代のプログラマーが仮想空間でリスを生かすシステムを作り上げるという、とてもリアリティのある話で、今時のIT小説としても読めるのだが、プログラムで記述するものとされるもの、クラスとインスタンスがどこかで交わり合い、交錯する。どの視点で見るかによって、書くものと書かれるものの階梯が変わってくる。
 「Printable(プリンタブル)」は、3Dプリンター小説であり、小説家と翻訳家、テキストの同一性と拡がり、その変容していくさま(まだ書かれていない小説の翻訳とは何なのか)を描いていく小説である。そこにはシミュレーション宇宙も現れる。
 本書ではコンピューターを使った執筆の手法をあからさまに描いた作品が、以前よりさらに具体的で私小説風に描かれており、それはまさに『プロローグ』へとつながっているように思われる。ただし、これは小説を書く、すなわち〈テキスト・ワールド〉を構築するという意味で興味深い試みだと思うのだが、楽屋裏をさらけ出す、開発現場を目の当たりにさせられるという意味では諸刃の剣となる危険性も備えているように思う。つまり、ちょっと白けるかもということだ。それでも十分面白いのだけれどね。

『プロローグ』 円城塔 文藝春秋
 「私小説」だという。雑誌連載の時系列にそって、コンピューターで作成した文章をネットワーク上のオープンなアーカイブ(普通はソフトウェア開発に使うGitHub)に登録しつつ執筆した小説だという。テーマはずばり、「わたし」。執筆する「わたし」、執筆される登場人物としての「わたし」、さらにはそれを読んで解釈する「わたし」。すべて実は文字列にすぎない「わたし」とは、何か。ああ、だから「私」小説なのか。
 読書する頭脳には、フィクション用とノンフィクション用のテンプレートがあるような気がする。少なくとも自分にはある。だから、それが混交するところ、私小説とか、創作エッセイとか、一種のメタフィクションとかは、意識的にそれを取り替えたり、レイヤーを分けて部分利用したりと、けっこうややこしいことになる(それはそれで面白い)。
 読み始めたとき、ぼくの脳みその処理系は、これを「小説」のテンプレートで処理しようとして、途中で失敗した。結局、著者の思考をつらつらと開示する「エッセイ」のテンプレートに変えて、何とかしっくりおさまった。これは単行本で読んだからであって、雑誌連載中にリアルタイムに読んだり、GitHubにアクセスしたりしていたら、もしかしたら「プロジェクト」のテンプレートが発動されたかも知れない。
 本書はどちらかというとノンフィクションよりで、それも私小説というより創作の舞台裏やツール、思考の道筋をそのままに描いた作品だ。コンピューターを道具(ツール)として駆使し、その使い方やTipsを示したり、まさに技術書として読めるレイヤーが最上位に来ている。ほんと、横書きにした方が読みやすいんじゃないかと思うくらい。『サルでもわかる小説エンジン入門』とでもいったタイトルの解説本があればいいのかも。いやダメか。
 プログラムの入門書であれば、その中にA君とBさんの会話がコント風にはさまったり、簡単なサンプルコーディングが別枠で示されていたりする。本書では、架空のAさんやBさんが本文そのものの中に現れ、フィクション部分は実装されたサンプルコーディングのように見える。もっとも本書では、それが入門書のようにはっきりと分かれているわけではなく、様々なレイヤー(それは作者の思考の様々な部分に対応する)で並列処理されていて、底の方にいたタスクがいきなり入れ替わって最上位にきたりする。シーケンシャルに読んでいると、いつのまにか舞台や話者が変わっていて話がつづき、ふわふわとした酩酊感をもたらす。それはそれで面白く読めるのだが、確かにちょっとめんどくさい。
 というのもテクニカルな創作エッセイ部分が非常に強いプライオリティをもっているので、どうしてもテンプレートの切り替えに脳みそのCPUを酷使してしまうのだ。さらに、本書の内容は、おそらく作者の現在の興味の中心にあるだろう、〈テキスト・ワールド〉の探求(言葉、情報、デジタルに還元されるコードなどによる世界の描出、それは作者や読者の意識すらもその中で記述されるものだ)に集中しているので、そのレイヤーがことあるごとに顔を出す。それは『エピローグ』や『シャッフル航法』の短編にも共有されているもので、とても重要なものだ(だから本書は『プロローグ』なのだ)。でも描かれているそれぞれの断片はとても面白いので、そこをエッセイなりテクニカルライティングなり小説なりに分離して取り出してくれたら、読む方はその方がありがたいように思う。なんか連載の時系列にも拘束されているようで、そこが窮屈で危うい感じがするのだ。
 薀蓄がいっぱいの衒学的な小説は好きだ。好奇心が刺激される。本書もオホーツク文化圏の歴史や、神話や古文書、和歌、そしてもちろんコンピューター(ただしここはすごくテクニカルな記述として読めるので、薀蓄というのとはちょっと違う)などの知識がちりばめられている。しかし、衒学的な小説のそれと違って、本書ではググって調べてみた、そこへ行ってみたといった、著者の思考の道筋がそのままに描かれているので、親近感があるというか、距離感は小さい。これは主にエッセイとして読んだせいもあるのだろう。


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