続・サンタロガ・バリア  (第153回)
津田文夫


 とりあえず定年ということで一度退職した後、また同じ職場に行くようになったが、身分証明書もなく、部屋には自分ひとりという状況だ。とりあえずは自分も含め、いなくなった人たちが残した仕事の後片付けが続きそう。

 相変わらずカエターノ・ヴェローゾを聞き続けているけれど、3月で去年発売された廉価版19枚が揃った。最後に聴いたのは、1979年作『シネマ・トランセンデンタル』、81年作『オウトラス・パラーヴラス』、82年作『コーリス・ノーミス』、83年作『ウンス』、86年作『トータルメンチ・ヂマイス』そして89年作『エストランジェイロ』の6枚。

 最初の4作は78年の『ムイト』で結成したカエターノのバンド「オウトラ・バンダ・タ・テーハ(「この地球のもう一つのバンド」という意味らしい)」を率いて録音した作品群だ。42年生まれのカエターノは30代後半をこのバンド活動に費やしている。パーマネント・バンドを組んだことでバンドとして食べていく上でも、ほぼ年1作のペースでアルバムを出し続けた。またアルバムをヒットさせるという意味でカエターノの全活動期間で一番ポップな時代だったともいえる。特に『シネマ・・・』『オウトラス・・・』『コーリス・・・』にその傾向がある。ジャケットにもその雰囲気があって、30代後半というのに10年は若いカエターノがそこにいる。『コーリス・・・』なんかはやり過ぎでしょ。
 『シネマ・・・』の1曲目に「聖ジョルジの月」という曲がある。歌詞は聖ヨハネの月を歌っているようだが、カエターノはジョルジュ・ベン(ジョール)を好んでカヴァーしていることから分かるように、まるでベンジョール賛歌みたいに聞こえる。「オウトラ・・・」は キ-ボード・ベース・パーカッションにカエターノのギターからなるバンド(本職のギタリストが中途で参加)だけれど、ロックというよりはブラジル・ポップスは勿論ジャズ・フュージョンもこなす腕達者なメンバーが揃ってる。このアルバムでは8曲目「君に夢中」でフュージョン系の演奏を披露している。解説でも『シネマ・・・』というタイトルどおりの視覚的な効果とサウンドで、カエターノがはじめて名実ともにポップスターになったとしている。
 『シネマ・・・』に輪をかけてポップになったのが『オウトラス・・・』で、オビの惹句でさえ「ポップ寄りになった気がするが、あの強烈なまでの個性は健在」と言い訳している。表題作の1曲目「別の言葉」から音が弾んでいて、最後の方の曲はディスコっぽいと解説されるくらいで、アルバムの売上げがカエターノ初の10万枚ヒットになったという。解説者は『ムイト』や『シネマ・・・』に比べ印象度が低いといっているが、ポップさに驚くという意味では印象的です。ジャケットの人気度ナンバー1という『コーリス・・・』は「色ども、名前たち」という意味で解説者は『シネマ・・・』を映画的と評したようにこちらは色彩的と評している。ここでも7曲目に「聖ジョルジの騎士」という曲があって「何の恐れも抱かずいつもナンバーワン」と歌っているように、これもジョルジュ・ベン賛歌だろう。2曲目が「彼は僕にリップ・キスをくれた」というタイトルで、後の『フェリ・フェラーダ』あたりにつながる妖しさが目立ってきている。この曲には「ディラン・ツィマーマンのキリスト教的三角は関心外だ」と当時ボブ・ディランが出した宗教回帰的アルバムを否定するセリフがある。
 バンド時代最後の『ウンス(ある者たち)』はデビュー時の『ムイト』を思わせる静けさを湛えたアルバムで、ジャケットもポップさとは縁を切って、少年時代のヴェローゾ兄弟があしらわれている。にぎやかな曲もあるが、アルバムの真ん中に置かれたカルロス・リラとヴィシニウス・ジ・モラエス作「もっとも美しいもの」と自作「美しい君」という2曲の恋のバラードがこのアルバムを代表している。また9曲目にバンド名をタイトルとした曲が置かれているのもバンド解散を意識して作ったアルバムであることを証明している。
 ある意味必要に迫られて多くの曲を作っていったバンド時代のカエターノは、そのおかげで印象的な曲をいくつも作り上げた。この時代がカエターノの創作力がピークを迎えていたといえるだろう。
 『トータル・・・』はギター1本のソロ・ライヴ。16曲中12曲がカヴァー。反権力的な「カンゼンに出来すぎ」という意味の表題作もカヴァー・ソングである。古い曲も多くヴォーカリストとしてのカエターノが満喫できる。そういう意味では『粋な男』へとつながるアルバムだ。
 『エストランジェイロ(異邦人)』はかのアート・リンゼイと組んだ第1作で、解説では「大傑作」と持ち上げられている。この後の『シルクラドー』に比べると新鮮で聴きやすい。表題作の1曲目は非常に長い歌詞が付いていて、それを早口で歌っている。のっけからゴーギャン、コール・ポーター、レヴィ・ストロースが歌われ、「青を 紫を 黄色を愛してるから、私の道と黄道との間には一つの輪が存在する」というセリフで終わる。なんだかよく分からないが、それなりにかっこいい曲である。解説情報ではこのアルバムには86年に再婚した若いカリオカ妻に捧げた歌と75年のアルバム『ジョイア』のジャケットでフルヌードを見せた前妻デデー捧げた曲があるとのこと。大したものです。またカエターノはこのアルバムをひっさげて90年に初来日講演をしたとのことである。ということは、たぶんアート・リンゼイつながりがなかったらカエターノは日本では一般的な人気は得られなかったということなんだろう。
 時間があったら1枚目から19枚目を順番に聴いてみて、自分にとってカエターノは何者だったか考えてみよう。
 マルコス・ヴァーリの69年作『ムスタンギ・コール・ヂ・サンギ(血の色のムスタング)』も聴いてみたけれど、アメリカ帰り第1作で当時の(すでに時代遅れな)アメリカン・ポップ・サウンドを取り入れたため、マルコスのアルバムとしては一番聴くに堪えない、陳腐な響きのアレンジが多い1作。あと未聴は70年のセルフ・タイトル作を残すのみ。

 しばらく新しい音を聴いていないので、新譜でちょっと気になったのを聴いてみた。新垣隆&吉田隆一『N/Y』フライング・ロータス『ユー・アー・デッド』ビョーク『vulnicura』
そしてキング・クリムゾン『ライヴ・アット・オルフェウム』
 『N/Y』は堀晃さんのブログで知ってたけれど、その後CDジャーナル3月号で裏表紙+7ページの特集という、ハロプロ/アイドル/アニメを除けばほぼメインの扱いだったのに驚いて注文した。吉田のSFファンぶりと冒頭の「野生の夢-水見稜に」という曲のプログレっぽさががお気に入りだが、 バリトン・サックス×現代音楽風ピアノのアンサンブルは結構面白い。「皆勤の徒-酉島伝法に」の方はかなり具体的なフレーズで作品のユーモア/グロテスクを表現しようとしている。新垣のピアノは綺麗な音でジャズっぽさは少ないが、反応の早さとストックの広さはさすがである。
 フライング・ロータスは中身のリーフレットを広げて見てびっくり。すべて駕籠真太郎のスプラッタ/ゴア・イラストで埋め尽くされていたのである。音楽の方もそれに対応するかのようなプログラミング/切り貼りたくさんのジャズ・フュージョン(って、表現が古いな)。1曲ハービー・ハンコックが入っているところがミソ。本来は大ボリュームで聴くような音楽だが、安普請の日本家屋ではムリな話。ビョークの方は生ストリングスとプログラミングをバックに声を聴かせる作り。全体にスローな曲が多い。ビョークを買うのも『ヴェスパタイン』以来10年ぶりくらいだが、50歳になるのにあの声は相変わらずお化けだ。
 ジャッコとメルが入ったスタジオ盤が結構な出来だったクリムゾンだが、なぜかライヴは『アイランド』から2曲、『レッド』から2曲そして『コンストラクション・オブ・ライト』から表題作と懐メロだけ(インプロ曲もあるけど)。ということで嬉しいんだけど肩すかしな1作だった。ドラマーが3人もいるんだが、理由がよく分からない。

 去年でた世界文学系でもっとも気になっていた閻連科『愉楽』をようやく読んだ。いやあ、楽しい1作だったなあ。英文副題が「レーニンの口づけ」となっているように、レーニンの遺体を買ってきて観光客を呼ぼうという役人のアイデアを実現するために障害者ばかりの絶技団が結成され、そのもうけを遺体買い取り資金にする話というのはその通りだが、例によってこの物語はその設定に乗りながら見事に「語り/騙り」を爆発させて見せてくれる。中国本国でこれがベストセラーになっていたらもっと面白いのに。

 20世紀最高の短編作家のひとりであるフリオ・コルタサル『対岸』は、作家として助走期にあたる1937年から45年までのごく短い作品ばかり13編を集めた1冊。実質130ページしかない。はじめの1編が「吸血鬼の息子」というタイトルのひねりのきいたホラーで、奇妙な味というものがすでに存在している。2編目「大きくなる手」は本当に手が大きくなって行く話。リアリズムによった作品もあれば、いま読むと気の抜けたアイデアになってしまったものもあるが、のちに幻想派の巨匠と呼ばれるコルタサルの面目は躍如としている。

 西崎憲訳のファンタジーが読みたくなったので、『郵便局と蛇 A・E・コッパード短編集』を読む。昔から知った名前の作家だったけれどちゃんと読むのはこれが初めてだ。解説によると、コッパードは1878年ロンドンから100キロ離れた港町で生まれ、貧しい家庭に育ち、まとな学歴もないまま早くから底辺での労働生活を強いられたが、叔父を頼ってロンドンに出て、雑誌や詩を読むようになる。その後母の住むブライトンに移る。コッパードは足が早く競走会の賞金を稼ぐようなこともしていたという。ブライトンで結婚してすぐ1907年にオックスフォードの鉄工所で働くことになり、オックスフォードの学生たちと交流して文学趣味に目覚め、第1次大戦が終わりに近づいた16年、38歳の時にはじめて小説が雑誌に掲載され、結局短編小説を書いて身を立てようとした。
 冒頭の「銀色のサーカス」は、その作品名は知らなくてもその話自体はすでに古典的な短編の地位を獲得しているようなアイデアと語り口の物語である。表題作はわずか6ページあまり。これももはや古典的なアイデアと語り口の作品といえるだろう。10編の収録作品はどれも20ページくらいのまさに短編にふさわしい長さで強い個性を持っており、読み終わった後はよく出来た絵画展を見たような気分が味わえる。

 今度は創元SF文庫からでたラヴィ・ティドハー『完璧な夏の日』上・下は、原題の『暴力の世紀』より(日本人の感覚では)遙かに内容に即した正しいタイトルを持つ1冊。表紙絵も内容をよく表している。
 戦争の世紀である20世紀に、ある実験によって各国に超能力者が出現、能力を持つ者は探し出されて国家への貢献が求められる。イギリス人たちはその能力者たちを一種の諜報活動に利用。自在に霧を操れる主人公はそのひとりである。いろいろな戦争(第2次世界大戦のヨーロッパ戦線が最大のものであるのは当然だが)を背景に、いかにもイギリス人らしい内向的な性格の主人公と彼に恋愛的感情を持ちつつ友情を保つやはり内向的な(物体をどこかへ消せる)能力者の相方(男)との関係を主軸にストーリーが語られるが、そこに「完璧な夏の日」能力の持ち主であるドイツ人少女(ある実験をした博士の娘)が主人公の前に現れる。能力者は長命であり、まるでタイム・トラヴェラーのように戦争の20世紀を生きていく。しかし物語は「完璧な夏の日」を選んだ主人公とそれを許す相方に収斂し、昔のフランスギャング映画みたいな効果を発揮して終わる。新しくて古いエンターテインメント小説の鑑みたいな作りだ。

 帰ってきた森見登美彦『有頂天家族 二代目の帰朝』は7年ぶり(そんなに経っていたのか)の続編。ここ数年はモリミー自身が自らスランプにはまっているようで、なかなか大変そうだが、できあがった物語は結構楽しく読める。読んでいると、モリミーはどこかで書き方を間違えているような感覚が生じるけれども、主人公をはじめとしたタヌキの神通力によりそんな感覚も忘れてしまう。「面白きことは良きことなり」、平成の文人モリミーに神様のご加護があらんことを祈る。

 島田荘司が広島県福山市出身ということで「ばらのまち福山 ミステリー文学新人賞」というのがある。まあミステリーに用はないんだが、昨年の第6回受賞作を本屋で手に取ってみたら、オビの惹句の「敗戦から6年、瀬戸内のある軍港都市で起こった女性連続殺人事件」が目に入り、「瀬戸内のある軍港都市」って、そんなのわが地元呉市しかないだろと黙ってツッコミを入れて、作者紹介を見るとなんと呉市出身の女性で京都在住とある。まあ、本業(卒業したとはいえ)に関わりがありそうだからと、川辺純可『焼け跡のユディトへ』を読んでみた。
 昭和26年の呉市には21年以来の英連邦軍占領軍(連合軍/進駐軍)と朝鮮戦争のために新たにK市を後方支援根拠基地とした英連邦朝鮮派遣軍(国連軍/駐留軍)が同居、これにGHQ下部組織のアメリカ軍による民生部(旧軍政部)もあった。とはいえサンフランシスコ条約の年でもあり占領軍はほぼ撤退状態で、朝鮮戦争のための兵士が多かった。この年はまた自前の船で石油や鉱石などの輸送を行うニューヨークのNBC(ナショナル・バルク・キャリアーズ)が、(占領下の)日本政府と交渉し、戦艦大和を造った優秀な造船技術者と造船設備の揃った旧呉海軍工廠造船部を安価で10年間使用することとなり、NBCの造船責任者であるエルマー・ハンがその責任者としてやってきた。そして翌年から世界最大のタンカーを次々と送り出している。
 この小説はこういう史実を物語の背景に取り込み、エルマー・ハンがモデルとおぼしき日本語のうまいアメリカ人を探偵役にし、主人公の日本人の青年を狂言回しとしてK市での物語を展開している。作者が描くK市の様々なディテイルから、10年前に自分が加わって編集した写真集呉の歩みⅡ-英連邦軍兵士の見た呉』を参照していることがよく分かる。こういうことであの写真集を役立ててもらえればつくった方も嬉しい。
 ちなみに小説では、探偵役の外人は主人公の姉と思われる子連れだが超クールな美女に惚れ込んでいる。現実のハンは呉市出身の女性と結婚した(この女性の旧姓は津田というが親戚ではない)。

 「なんとボクラノSF続いていました!(続きます!)」という裏オビのセリフに笑ってしまった佐藤哲也『SYNDROME シンドローム』は、よく見ると北野勇作『どろんころんど』以来のオリジナル・ストーリーだった。北野勇作の作品もすばらしかったが、久々に読んだ佐藤哲也のジュヴナイルも良い。話の筋は宇宙怪物パニック映画(オビいわく「宇宙戦争なんだ、とぼくは思う」)に範を取ったものだが、いかにも佐藤哲也が書きそうな思考パターンを持った主人公の中学生の恋の悩みが楽しく読める学園ものになっている。大枠をなす物語の方のエスカレートはいかにも今風でホラー/ショッカーも映画風であるが、主人公は常に恋に関する思考を止められないところがおかしい。しかしこの大枠の状況が主人公がいうような「愚劣な現実」であろうとも、物語内の現実は主人公の現実として機能し、そのように結末を迎える。これが読み手に大震災の物語であることを意識させるのだ。

 ハヤカワSFシリーズJコレ最新作は、第2回ハヤカワSFコンテスト最終候補作第2弾の倉田タカシ『母になる、石の礫で』。読み終わった後の感想は、これでも大賞を取れなかったのはスゴいことだなあ、というものであった。
 脳だけで地球を脱出した13人の科学者たちにつくられた子供たちの物語を、その取っつきにくいキャラクターに辟易させられながらも結末まで読み通すと、読み手の情動が変化する。SFとしてはオーソドックスなアイデアを現代的にきっちりと描ききっており、そのこと自体がSFファンの心の琴線をかき鳴らす。この子供たちの思考と行動をSFとしての設定とともに物語の最後まで丁寧に仕上げることで、読み手の目頭を熱くすることに成功していることをSFとしてどう評価するかは、評者それぞれのSFに対する思いで分かれるだろうが、これは支持したい。

 ノンフィクションも数冊読んではいるのだけれど、長くなったので覚えていたら次回に書きます。 


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