続・サンタロガ・バリア  (第145回)
津田文夫


 久しぶりにオーケストラを聴きに行った。オケは地元広島交響楽団で、指揮は飯森範親。ソロイストがヴァイオリンの松田理奈。プログラムはバーバー「弦楽のためのアダージョ」コルンゴルト「ヴァイオリン協奏曲」にベートーヴェンの5番「運命」というちょっと変わった組み合わせ。
 前半のアメリカ20世紀音楽はロマンチック系で、バーバーを生で聴くのは久しぶり。20年くらい前にスラットキン/セントルイス交響楽団で聴いたのが印象に残っている(実はアン・アキコ・マイヤースのスタイルを鑑賞に行ったのだが)。広響は小規模な弦楽セクションでの演奏。悪くない。
 コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は初めて聴いた。コルンゴルト最近流行です。チェロを弾く友人は好きだといっていたが、当方の感想はハリウッド的だなあというもの。そのハリウッド的な音楽を作った張本人がコルンゴルトなんだけれど。ソロイストはヴァイオリンをよく鳴らしていてオケに埋もれることなく弾ききっていた。アンコールは短い技巧的な曲だった。パガニーニあたりか。
 ベートーヴェンは最近流行のすっきりした演奏で、しつこいフィナーレもネバつかず、もはや「運命」というタイトルはいらないんじゃなかろうか。まあ、無理矢理興奮させる演奏も嫌いじゃないが。アンコールは「G線上のアリア」。バーバーではじめたので、妥当なところ。コルンゴルトでは、楽章間拍手がなかったのに、「運命」でフライングという変な客層だった。

 CDの方はジャズはひと休み。ワールドカップ便乗かブラジルポップの1000円盤が大量に出ていたので、数枚聴いてみた。
 とりあえずエドゥ・ロボが聴きたくてトニーニョ・オルタの代表的なセルフタイトル作と一緒に買ってきた。なんでエドゥ・ロボかというと、洋楽を聴き始めた中学生の頃好きだったセルジオ・メンデスとブラジル66が歌うエドゥ・ロボの曲が耳に残っていたから。「ウパ・ネギーニョ」とか「カント・トリステ」とか「カサ・フォルテ」などだ。これらはエドゥ・ロボが60年代に作った曲だけれど、今回聴いた「テンポ・プレゼンチ」は80年作品。セル・メンがアメリカ受けするポップなアレンジで聴かせるのと違って、ブラジル仕様で作られたアルバムはちょっと取っつきが悪いが、エドゥ・ロボがブラジルの新しい音楽の波を支えた音楽家のひとりであることは、この中のタイトル作はじめとしたいくつかの曲が証明している。
 トニーニョ・オルタの方も80年の作で、さすがにこちらの方が勢いがあって面白い。エドゥ・ロボもオルタも自作自演作と一緒に他人の曲を取り上げており、ゲスト・ヴォーカルを使っているところや、インスト作品がきちんと作られている(トニーニョ・オルタのはパット・メセニーが参加)ところなど、共通したアルバム構成があって、こういう互いにゲスト出演するのが普通なんだなあと思わせる。ちなみに、エドゥ・ロボの声はあまり魅力的ではないので、ドリ・カイミとデュエットするとドリ・カイミの声が勝ってしまう。
 その後聴いたのが、ナラ・レオン「美しきボサノヴァのミューズ」71年作とカエターノ・ヴェローゾとガル・コスタの競演作かつ二人のデビュー作である「ドミンゴ」67年作。まあ、男の後は女の声が聴きたいということだね。ナラ・レオンのはジャケットに見覚えがあったので選んだ。カエターノとガルのは、ガルのソロ作でもよかったのだが、2001年当時のリマスタリング担当者オノセイゲンが「ドミンゴ」がやりたくて引き受けたみたいなことを書いていて聴いてみようと思った次第。
 ナラ・レオンはパリ録音で、ナラがみぞれの中を歩く印象的なジャケットもパリらしい。24曲も入っていて、もとは2枚組だった。中身はほぼ期待通りのボサノヴァだったけれど、ややクールすぎかなあ。
 「ドミンゴ」は日曜日という意味らしいが、ここでの男女のヴォーカルは少しも楽しそうじゃない。それでも聴いていて何か想いがあふれそうな感じのあるところがスゴい。若いのに苦みがあって、初期ボサノヴァとは違った歌だ。

 片瀬二郎『サムライ・ポテト』は作者の地力が感じられる中編集。どちらかというとホラーよりだけど。表題作は、店先の宣伝マスコットロボットのプログラムに人知れず自意識が生じて・・・、というアイデア的には常套だけれど、設定や筋運び、視点の取り方など堂に入っていて、安心して読める。「00:00:00:01pm」は、ある日時間が止まったかのように、世界の動きが超緩慢になった日常世界で暮らさざるを得なくなった男の話だが、タッチは明らかにホラーだ。「三人の魔女」は斬新なSF幽霊譚。幽霊だけれどホラーじゃない。「三津谷くんのマークX」は一転して、しがないアルバイトの若者が、ガラクタっぽいけれども、本当に動くコントロール可能なリアルなレベルでの巨大ロボットを作ってしまう話。後で考えるといろいろ難のありそうな物語だが、読んでいる間は気にならない。カラオケボックスで同僚の女の子がけなげでカワイイ。最後の「コメット号漂流記」は、読んだ後では映画「ゼロ・グラビティ」にあやかった感じが強いけれども、話はとんとん拍子に強引に進められてしまうし、主人公の女子高生は性格悪いし、楽しく読める。フレンチブルのフグちゃんがどうして助かったのかよくわからないが、それをいえば主人公もよく生きているよなあ、と思いつつ「ゼロ・グラビティ」だってそういう意味ではツッコミどころ満載(それも作品のうち)なつくりにしてたので、そういうものとしてよくできたエンターテインメントだな、これは。

 何十年かの読書生活なかでも特に印象的だった作品がマーヴィン・ピークのゴーメンガースト三部作の『タイタス・グローン』と『ゴーメンガースト』。まさか第四部があろうとはビックリだ。マーヴィン・ピーク&メーヴ・ギルモア『タイタス・アウェイクス』がそれ。
 とはいえ、文庫で250ページもないのに35章もあるので、眉にツバをつけながら読み始めた。読んでみると、ピ−ク本人が書いた断章を、妻が書き継いだ形なんだけれど、前半と後半が全然違う小説になっている。前半のエキセントリックな道行きはいかにも『タイタス・アローン』の続編みたいにギクシャクしていて、読むのにものすごく時間がかかったのに、女流画家と出会って居候生活するタイタスの話はまるで普通の現代小説になっている。金原瑞人の解説にもあるように、「小説は、ストーリーを書くためにあるのでも、登場人物を描くためにあるのでもなく、ただ文章を書くためにある・・・」というのは本当だ。そのことは昔、石川淳に教えてもらった。

 漢字四文字タイトルをやめた大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 さよならの儀式』はますます厚くなって、値段も単行本並みになってきた。しかし、収録作を読めば、それも頷けるレベルのアンソロジーになっていることがわかる。
 藤井大洋「コラボレーション」は2長編を読んだ後では、いかにもこの作家らしい思考が窺える作品。個人的には疑問だらけの結論だけれど、いい作品だ。草上仁「ウンディ」は異星での演奏コンテスト(とはいえ、まるで勝ち抜きバンド合戦だけれど)という形で描かれた音楽SF、泣かせるいい話という以上に音楽が聞こえてくるところが立派。オキシタケヒコ「エコーの中でもう一度」は音響SFで、余裕のあるつくりだけど、草上仁の後だとちょっと弱い。藤野可織「今日の心霊」はタイトル通りプリクラ心霊写真もの。展開の方向がおかしい。小田雅久仁「食書」は本を食べると内容が体に入り込むという話をホラーで展開。作者コメントを読むと納得はするが、この作者にしてはやや妄想がベトついているような気がする。筒井康隆「科学探偵帆村」はいかにも筒井康隆らしいパスティーシュで、おどろおどろしい感触は薄いもののエスカレートぶりはいかにもだ。『1Q84』のテレポート精子を思い出してしまったぞ。
 荒巻義雄「平賀源内無頼控」はいかにもファンジンでしか載せようのないハメの外しようで、面白のかどうかさえわからない。石川博品「地下迷宮の帰宅部」は、全く知らない作家のラノベちゃぶ台返し的1作。まあ、そうだよね、というしかないが、ラノベ部分がよくできている。マンガ作品の田中雄一「箱庭の巨獣」は今やマンガの方がシチ面倒くさい設定を扱えるようになってしまったことを証明している。しかし読むのが面倒くさいともいえる。おっと式貴士「死人妻 デッドワイフ」を忘れてた。このプロローグから何が期待できるかはわからない。昔の友成純一なら期待はできたろうな。酉島伝法「電話中につき、ベス」はこの作者の特異な文章作法を見せるためだけでも掲載に値する。宮内悠介「ムイシュキンの脳髄」はロボトミーに想を得たSFミステリ。ドストエフスキー・ミステリなのかもしれない。円城塔は再読なので読まずにすまそうかと思ったが、読んでしまった。円城塔は『銀河ヒッチハイク・ガイド』が本当に好きなんだなあ。
 いまでもサイコダイバーものを面白く読ませることができると証明したのが、第5回創元SF短編賞受賞作(の片割れ)、門田充宏「風牙」。エンターテインメントとしては十分、SFとしては新味なし、というのが衆目の一致するところで、その通りな作品。
 宮部みゆきと冲方丁は再読せず。

 牧真司編の短編集が面白かったので、文庫になった篠田節子『はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか』を読んだ。四つの中編のタイトルは著名SFのもじりになっている。篠田節子はエンターテインメント小説を書く技術が非常に高く、サタイア本来の安っぽさと便乗感が好ましいもののように錯覚させるくらいだ。『年間SF傑作選』掲載のどの作家にも負けないくらい技量がある。SFはSFの上に作られると云ったのはドナルド・A・ウォルハイムだけれど、いまやSFはSFの上下左右どころか裏や表にも作られてるっぽい。
 解説で大倉貴之が牧真司編『ルーティーン』の衝撃を語っているが、篠田節子の何でもSF化能力の高さを証明しているともいえる。

 なぜか新刊翻訳SFがとぎれたような感じだったので、伊藤典夫新訳版レイ・ブラッドベリ『華氏451度』を読んでみた。
 宇野利泰訳を読んだのはいつのことだったろう。このあいだ京都にいったとき、同志社SF研OBが6人ほど集まってダベっていたのだが、同期の西尾氏に伊藤さんが『華氏451度』を新訳したよと話したら、西尾氏がいきなり宇野訳の出だしの1行「火を燃やすのは愉しかった(これは伊藤訳)」を暗唱したので、ビックリしてしまった。それくらいのインパクトを70年前後に中高生だったSFファンに与えていた宇野訳だったが、伊藤さんには不満だったらしい。
 などと考えながら、読み始めた『華氏451度』は、再読とはいえない新鮮な読み物だった。今回気づいたのは、まずこれは大人の読み物であり、夫婦の危機の物語であり、文化の価値を考察する物語であり、第三次世界大戦ものであり、そしてブック・ピープルは必ずしも作品のイメージの決定的要素ではないということだった。
 本書は伊藤さんも云うごとく大きな活字で270ページ足らずの短い長編であり、必ずしもバランスのとれた小説ではない。ブラッドベリ節はほとんど感じられない代わり、ある意味ディックに先行したディック的作品といってもいいかもしれない。
 大昔にしか読んでない人は伊藤訳で再読すべし。

 今月は長編SFが読めないせいもあり、ちょうどよいタイミングで赤坂真理『東京プリズン』が文庫化されたので、早速読んでみた。メインテーマそのものは前回紹介した新書『愛と暴力の戦後とその後』で語られたものとほぼ同じ。むしろ新書の方がテーマが露骨でわかりやすいだろう。しかし小説には小説の効用があり、赤坂真理は予想したとおりエロティシズムを感じさせる(あからさまな性行為はなくても主人公の少女は常にシンボリックなエロティシズムを抱え込んでいる)文体の持ち主で、幻想体質は持っているけれども、そのコントロールは不確かだ。
 中学生から高校生になるときアメリカ東北部メイン州(カナダのモントリオールが近い)の田舎町にホームステイした少女は1980年から81年という時間に生きており、大人になった彼女は2009年から2011年までの時間を生きている。物語は、アメリカの校長から日本について発表することを条件に少女を年齢相応の学年に編入させることとしたが、社会科学教師から与えられた公開ディベートのテーマが「天皇の戦争責任」という非常識なものだったことにより、それに関する学習が少女の母の秘密に、また自分がアメリカへ留学させられた理由へとつながって、何度も挿入される幻想的なエピソードと絡まり合って、大人になった少女が、少女の母親となって少女からの国際電話に出ながら、クライマックスのディベートへと突き進んでいく。
 テーマ自体の扱いはやや不器用だし、幻想から現実への着地は投げっぱなしにされているが、それを上回る衝迫が読者を引っ張っていく。小説の効用は確かである。
 解説で池澤夏樹が冒頭いきなり「小説は本来個人の心を書くものだ」「だから小説は、社会制度・歴史の解釈・科学の価値などを扱わない。少なくとも直接的には」と、その昔、『文藝春秋』などが、大衆小説(読み物)と小説を分けて目次に掲載していた時代を彷彿とさせる定義を持ち出してきたのが印象的だった。もちろん『東京プリズン』をほめるための仕掛けであるが。 

 ノンフィクションは、今月も古本屋で買った1冊から始めよう。横田順彌『雑本展覧会 古書の森を散歩する』日本経済新聞社2000年3月初刷。横田順彌のよい読者ではないので、こんな本があるとは知らなかった。装丁が晶文社(平野甲賀?)風だったのが目を引いた。中身は800字程度の日本経済新聞コラムと筑摩書房の新刊紹介雑誌『ちくま』で連載された雑多な古書の紹介エッセイ。すべて見開き2ページ(例外あり)。
 ほぼ毎回のように、SFが本業で古書を集めるのは押川春浪を中心とする明治期日本SF研究のためと云うことをいいながら、本当に雑多の古書を紹介しているが、基本的にはどんな古書でも集めたからには何か読み得があるものだというところに落ち着く。本書でなければ、永久に日の目を見ないような古書が多いので、それはそれで面白い。

 ノンフィクションは基本的に受け身の読書なので、小説よりもずっと読みやすいことが多い。特に新書は読み飛ばすことができるような書き方/編集がされている。

 仕事が海軍系なので、陸軍系も少しは読むかと有馬哲夫『1949年の大東亜共栄圏 自主防衛への終わらざる戦い』新潮新書に手を出した。戦後占領下の海軍復活の動きは「海上保安庁十年史」とか戦後掃海史あたりで、それなりにイメージしているけれど、陸軍側はイメージがなかったので、これを読んでわずかながらイメージがわいてきた。
 問題は作者が描いた大東亜戦争のはねっ返り高級将校たちの行動が、負けた戦争の亡霊のような胡散臭さを嫌になるほど証明しているにもかかわらず、作者は後書きで、彼らが今生きていたら今の日本をどう思うだろう、今の日本に必要のは彼らのような人材だ、などと書いていることである。敗残の高級軍人の陰謀的行動は、占領期日本の裏面史としてエンターテインメントのネタになるに過ぎない。

 あまりにあきれたので、同じ6月に出た大谷正『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像』中公新書を読む。こちらは膨大な資料を読み込んで書かれた立派なお勉強本。たぶん日清戦争の全体像を概観するには最良の1冊。とても新書には収まらない内容を無理を承知でブチ込んであるため、読むのも大変である。著者はまさに碩学といえようが、全体を包む視点は徹底的に日清戦争批判なので、鼻じらむヒトも多かろう。

 最近仕事場の未整理書庫で『文藝春秋』が1923年の創刊号から500冊くらいあるのを発見。バラバラに並んでいるので、嬉々として整理を始めたのだが、もとは長年蔵に入っていたらしく、付着したホコリやネズミの小便らしき浸み痕やかじり痕も多く、50冊も整理すると手が真っ黒だ。そんな中、昭和11年10月号の目次をあけてみたら、「アインシュタイン・アリバイ」というJ・E・ガートン作の翻訳が載っていた。「探偵小説」と銘打ってあるが、タイトルからしてSFっぽい。さすがに仕事場で中身を読むのははばかられるので、とりあえず国会図書館の近代デジタルライブラリーを検索したところ、なんと「アインシュタイ・アリバイ」と「ン」抜けであった。ということで関係者に業務連絡です。


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