続・サンタロガ・バリア  (第129回)
津田文夫


 芝居なんぞ滅多に見ることはないのだけれど、クラシック仲間から、明日「テイキング・サイド」を見に行かんかい、といわれて、そういやフルトヴェングラーの話だっけなどどウル覚えだったけれど、たまにはいいかと思い、OKしたら、チケットが8800円で、会場のパンフを入れて10000円ちょうどだった。
 主演はフルトヴェングラーに平幹二郎、対するアメリカ軍の尋問官役に筧利夫。脇に小島聖、福田沙紀、小林隆、鈴木亮平の6人で上演。テレビドラマもほとんど見ないので、平幹二郎だけが子どもの頃見ていた「三匹の侍」以来のなじみがある。平の発声は筋金入りを感じさせる。他の人はよく知らない。時々テレビで見かける筧利夫の大量のセリフは凄いが、床を見ての一人ごとはやや聞き取りにくかった。話の筋はフルトヴェングラーがナチ協力者の疑いで尋問される。結論はない。
 午後7時から始まって休憩を挟んで終わったのが10時過ぎ。でも退屈はしなかった。雑音入りのフルトヴェングラーの有名な演奏がそこここで流されるし、最後もオケを振るフルトヴェングラーの後ろ姿で幕を閉じる。曲はベートーヴェンの第5交響曲で戦後無罪になって初めてベルリンフィルを振った時の録音らしい。
 話の流れでは、尋問役の少佐が誰またはどんな組織の意向でフルトヴェングラーの尋問役に回されたのかがとても気になった。ナチスドイツ下でクラシック音楽の象徴的指揮者だったフルトヴェングラーに一泡吹かせたい連中がアメリカのいたのは確かだろうなあ。

 戦争関連では他に、大和ミュージアム時代に知り合いになったお客さんからいただいたチケットで、「二つの祖国で」を見た。第2次世界大戦の日系2世部隊の活躍はこれまでにもよく知られているけれど(SFでは矢野徹さんが取り上げてなかったっけ)、これは対日本情報解読及び捕虜尋問に活躍、占領期にも活動し続けたアメリカ陸軍情報部に勤務した日系の人々についてのドキュメンタリー。見ていると目頭が熱くなるところがあって、辛い。映画館は第1回上映ということで、関係者と思われる人がチラホラ。チケットをくれたお客さんも当然来ていた。まだ30歳くらいの人だけれど、ご先祖様や縁戚関係の人やらがこの時代の日米関係の中で様々な運命と辿っていることもあり、何かと調べては報告して下さるのである。こちらも勉強になるのでありがたいことです。

 毎年年度末恒例になったチェロを弾く友人が参加しているアマチュア・オーケストラを聴きに行ったら、開演時間まで大分あったので、サテンで本でも読もうとウロウロしたが見つからず。100万人都市とはいえ広島駅の北側はちょっと離れるとコーヒーを飲むのにも苦労する。歩き疲れて戻った演奏会では、ドヴォルザークの交響曲第7番が熱演で良かったなあ。

 正月に「ヱヴァQ」を見たので、大和ミュージアムに「ヱヴァンゲリヲンと日本刀」を見に行く。「備前長船刀剣博物館」と角川書店のコラボ巡回企画展で大和ミュージアムとは直接関係がない。券売所もミュージアムの外にある。刀自体は全日本刀匠会が担当。ヱヴァに材を取った刀剣類が展示してあるが、メインはロンギヌスの槍。会場の前半に日本刀の歴史を示す新作刀が展示してあって、年寄りにはこちらの方が面白い。驚いたのは観客の大半が若い女性だったこと。お兄ちゃんが多いのかと思ったら、一人で見ている女性は勿論女性同士のカップルもチラホラいて、何なんでしょう。本格的な一眼レフで刀剣を真剣に撮影している若い女性を見ながら、世の中変わったねえと思いました。

 何で買ってしまったのかと思いながら、高価で重いキャサリン・M・ヴァレンテ『孤児の物語T 夜の庭園にて』を寝床で読み出したら、読み終わるのに10日も掛かってしまった。端正といえば端正なファンタジーで、物語の企みも十分。子ども王子に子ども魔女が語って聞かせる物語は、語りの中の話者から次の話者へと何度も物語が受け渡されて、時折どのレベルにいるのかわからなくなる。それが楽しいと言えば楽しい。しかし見晴らしはとても悪く、物語全体を考えることは無意味なようである。それぞれのエピソードに濃密な時間が流れているとも言い難いが、そんなことも含めての野心だろう。昔は幻視者だけが書き続けてきたような物語が、いまや明確な手法意識の元に紡がれる。マキリップのような本物の魔法の片鱗は感じないけれど、力業ではある。

 SF作家クラブ創立50周年も含めて60年代70年代の日本のSF短編が読めるようになったのはいいことだろう。まずは日本SF作家クラブ編『日本SF短編50T1963 - 1972』のラインナップは見事に当時の有名タイトルが並んでて、選択の妙味というのがイマイチ感じられないのだけれど、どのタイトルもとうに内容を忘れているので、全く無問題だ。この時代は1作家(SF内の)1ジャンルといわれていただけあって、ヴァラエティ豊かというか当時からのSFファンの目からは棲み分けがはっきりした内容の物語が並んでいる。風俗や用語の古さを別とすれば、どれも読んで楽しめる。この時代のSFは半村良「およね平吉時穴道行」に顕著なようにSFが書けることの喜びが生で顔を出す。この作品はその生な形でのSFへの言及がなければ、現在でも超一流の名短編だろう。60歳近くになって改めてこの作品を読むと、半村良が施した資料操作の手練手管が如何に凄いかよくわかる。この「嘘つきッ」っていいたくなるくらいうまいよね。でもこれは日本SFの青春時代の作品なのだ。それは豊田有恒「退魔戦記」や野田昌宏「OH!WHEN THE MARTIANS GO MARCHIN' IN」などにも明らかだ。その一方、石川喬司「魔法使いの夏」はあの時代をリアルタイムで過ごした者の空想が、やはり60を前にした読者に切ない感銘を与える。40年前に高校生だった時はとてもわからない感覚だろうなあ。今となってはSFを見つけて喜ぶプロの作家という存在自体が理解不能だろうが。

 復刊なった筒井康隆編『60年代 日本SFベスト集成』はSF作家クラブ編よりもエッジの立った作品が選ばれている。石原藤夫「ハイウェイ惑星」、荒巻義雄「大いなる正午」はダブり、「X電車で行こう」は読んで間もないので、さすがに再々読はしなかった。ここには、SFを発見した喜びがストレートにでてくるような作品は収録されていない。その分どちらかというとダーク・ファンタジーに近いニュアンスを持つものが多い。豊田有恒「渡り廊下」や小松左京「終わりなき負債」、平井和正「レオノーラ」などがその代表で、星新一の異色作「解放の時代」や眉村卓「わがパキーネ」、光瀬龍「幹線水路2061年」もどちらかといえば暗い。そう思うと再読しなかった3作が明るい感じがする。今回読めて嬉しかったのが、河野典生「機関車、草原に」かな。「バイオレンス・ジャック」から「ヱヴァ」までこの東京のイメージがあるよなあ。作品としては甘いけれど。それも魅力の内だ。筒井御大の「色眼鏡の狂詩曲」が今や全然笑えないサタイヤになっている現在の世界の状況が恐ろしい。

 失敗作でも面白いフィリップ・K・ディック『空間亀裂』は、あっという間に読めるスグレもの。人口過剰で仕事のない市民を冷凍保存しているのだが、その費用で財政危機に陥っているアメリカ。最新鋭の超高速移動機なる乗り物に現れた空間亀裂の向こうが、この過剰人口と財政危機の突破口にできそうだっていうんで、旗色の悪い黒人大統領候補の起死回生の材料になる。ホントご都合主義なんだけれど、面白いんだ、これが。とても単純化された大統領選挙だけど、それも一興。スコルジーの『アンドロイドの夢の羊』に出てくる政府だってこれと五十歩百歩だ。それに何といっても娼館衛星のオーナーの造形が素晴らしい。とか、表面的な単純さと面白さもさることながら、ディック特有のシンパシーと怒りが作品のそこここに湧いて出る。この湧いて出るものこそがレムをして「ガラクタに囲まれた幻視者」といわしめるのだ。

 とっても読みやすいディックのあとで、チャイナ・ミエヴィル『言語都市』を読むと如何に自分の頭が悪いかを実感させられる。この作品は、昨年、滅多に立ち寄らなくなった紀伊国屋書店の洋書売り場をたまたま通りがかったら、PANのトレードペイパーバック版(翻訳本の裏表紙に掲載されているやつ)があったので入手しているのだが、ちらっと見ただけで難しそうな字面に目眩がして放り投げたシロモノだ。
 そんなものが日本語になったら読みやすくなったかというと、全然そんなことはなくて前半はほとんど五里霧中。話の企みがようやくわかって派手に動き出す後半からやっと読む速度が上がり始めた。ただし、異星人が兵隊アリの絨毯となって押し寄せるようなサスペンスとアドベンチャーそしてスーパーウーマン化したヒロインの謎解きによって読みやすくなった分だけ、前半で醸し出された不思議な魅力が色あせていくのは仕方がない。
 なんかケナしているようだけれど、読みどころはいっぱいあって、たとえば、ほんの数行だけ言及される、辺境の惑星に住む二つの口で同時に発声する異星人は、魂のないアンドロイド(外見は人間型じゃないようだけれど)の重ね合わせ言語には反応しないという設定があって、これは反チューリング・テストみたいで面白かった。それと、ここに出てくる異星人と会話するためだけに生み出された「大使」たちが『空間亀裂』に出てくる娼館衛星の体が二つで頭が一つというオーナーを思わせて、びっくりしたのだけれど、これは単なる勘違いかも(実際、『言語都市』の「大使」は特殊なクローン双子であって全然違う)。
 こんな設定を実際に作品にしてしまうのは、ミエヴィルだからできる荒技で、それこそSFでしか味わえない醍醐味もたっぷりだけれど、異星人がもっとらしい分、バカバカしくて読めない読者も多いだろうなという気がする。
 なお、原書を再度チラッと覗いたら、最終ページの最後の段落の始まりは「IT WOULD BE foolish to pretend we know what 'll happen.」だけど、訳文は文字強調なしで言い切りの形になっている。そのままではちょっと訳しようのない強調部分ではあるなあ。

 積ん読の本棚から今回引っ張り出したのは、山本義隆編『ニールス・ボーア論文集1 因果性と相補性』と同『ニールス・ボーア論文集2 量子力学の誕生』で1999年と2000年の岩波文庫初版だ。何でこんなモノを買ったのか、ちょっと理解に苦しむが、おそらく当時光り輝いて見えた山本義隆の名前に惹かれたのだろう。
 高校3年生から2浪まで3年間も数Vをやったけれど、数学と無縁なことは、中学生の時、オヤジに「オマエのような考え方をするヤツに数学は解けん」を言われて以来、数学的思考にはまったくついて行けなかった。そんな人間だからこの2冊に出てくる記号や数式はすべてチンプンカンプンである。
 それでも読んだのは、ボーア自身も言うようにどんな数式や記号もその解釈は言葉でしか説明できないということにある。20世紀初頭の原子物理学と数学の組み合わせが、プランク定数の導入により劇的に変わってしまい(変えたのはボーアたちだけど)、原子に関わる現象の解釈の整合性は、各種の数式の整合性を通してしか確かめることができない時代がやってきた。いわく「相補性」と「不確定性」。そんなことは認めないといったのがアイシンシュタインで、論文集1に収められたボーアの文章は、全てアインシュタインへの片思いのラブレターのように読める。論文集2は原子の持つ性質をめぐって発展した量子力学の歴史が回顧されている。ここで改めて思うのは、量子力学の発展史も他の歴史同様なめらかな一本道ではなく、凸凹した迷路から姿を現したということだ。中性子の発見が比較的遅かったために、ボーアが絶賛するラザフォードの原子模型は中性子抜きでできている。だからその頃に原子核と電子の関係を論じたものは、現在では素人目にもおかしいのだ。そういうことがわかるだけでも読んだ価値はあったと思いたい(時間の無駄という気もするが、所詮読書は時間の無駄である)。


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