続・サンタロガ・バリア  (第128回)
津田文夫


 全く暇そうな日々が続いていたのに、この一月何をしていたのか思い出せない。まあ、ルーティン以外のことをしなかったということでもあるけれど。
 地元出身の日本画家、船田玉樹(ぎょくじゅ、地元ではタマキ)の大規模な回顧展を見に行ったのは、1月末だったような気がするけれど、早くも記憶があやふやだ。昨年練馬区立美術館で生誕100年記念ということで先にこの回顧展が開催されて、美術好きのブログなどでかなり評判になった。速水御舟の最晩年の弟子だけど、戦後地元に引きこもったこともあって、これまで全国的な知名度はゼロに近かった。地元の年寄りなんかにはわりと親しい絵の先生で、ウチの母親でさえ、アタシも習ったのよ、ほら玄関のアタシの梅の絵、一輪だけ玉樹先生が描いてくれたんだよって、そんな感じ。玉樹自身の作品は、とても一般受けするような画風じゃないと思うけれど、洋画から日本画に転向して抽象性が潜り込んだ屏風絵の梅なんぞは、ちょっと凄いかも。玉樹の息子とやはり地元出身の美術評論家山下裕二のトークがあって、息子によれば玉樹は絵と酒の人だったらしく、飲み屋で脳梗塞を起こしたが、本人が家族に知らせず、数日経ってから帰宅、家族が医者に診せるも麻痺は直らないと言われたにもかかわらず、自力でリハビリ、ついに回復して前にも増して屏風の大作を書き続けたという。その性格は絵にもしっかり出ている。それからこの息子奇岑(きしん)氏は高校生の頃から原田真二とつるんで音楽に熱中、原田真二がヒットを飛ばしていた頃真二と一緒に東京にいたという。オヤジ玉樹に手伝いとして呼び戻されて自身日本画家になるのだが、現在の肩書きが日本画家・テルミニストというもの。ちょっと演奏が聴いてみたい。

 テッド・ムーニイ『ほかの惑星への気楽な旅』は、表紙の地味な絵が冒頭いきなり描かれるヒロインとイルカのセックス・シーンであるとわかってびっくりさせられる。イルカとのコミュニケーションを研究している女性学者を中心に、登場人物たちは所謂普通小説・純文学的な行動と感情を表すのだけれど、この世界では南極での状況により戦争が始まるかもしれないという話が時折話題にとなる。しかし、詳しいことは登場人物にも読者にも知らされない。1丁の拳銃をめぐる坦々とした悲喜劇と科学者のヒロインがあるイルカを移送の途中で死なせてしまう事故がヒロインの最後の行動を促したのかどうかもよくわからない。ガンで死にかけているヒロインの母親は別れた夫とベッドを共にした後、元夫にガンであることを告げたり、どれもこれも陰鬱な話だが、作者は読者に対してそれをウリにしているとは思えない。どちらかというと小説/物語とは人為的なものであることを伝えているようにみえる。まさにヘンな小説ではある。
 作中タイトルと同じセリフが出てきたところがあったはずだけれど、今捲るとみつからないなあ。

 神林長平『敵は海賊・海賊の敵』は、宇宙フリゲート艦のAIラジェンドラの報告書という形で、とても調子よく書かれた1冊。読むのは楽しいけれど、実かかなり込み入った認識論/論理/倫理のアクロバットが展開されているようだ。その点はシリアスな『ぼくらは都市を愛していた』にも匹敵するかもしれない。しばらく前に出た「敵は海賊」シリーズの短編集で久しぶりに読んだデビュー短編でのラテルとアプロを思うと随分遠くまで来たもんだ。

 ようやく最後まで来た小川一水『天冥の標Y 宿怨PART3』は、ついにクライマックス、ということであれやこれやテンコ盛り。スケール雄大な世界の崩壊が堪能できるけれど、小説的な面白さはこれまでのちまちました動きの巻にあったように思う。要はこの最後の巻で派手にやるための準備がこれまでの2冊だったということか。ドロテア・ワットが何となくスケールダウンしたように見えるのは気のせいか知らん。でもこの巻の小川一水には「世界破壊者」の称号をあげてもいいよ。

 何かエロゲーみたいな表紙絵だなあ、と思いつつ読み始めたゆずはらとしゆき『咎人の星』は、ホントにその手のエロゲーノヴェライズ(実際はマンガ原作の小説化らしい)そっくりのつくりで、なんでハヤカワ文庫JAなんだろうと思いながら鬱な話を読み進めていたら、何だかおかしなことになっていた。昔のエロ映画やエロ雑誌はアナーキーなエネルギーに満ちていたという伝説があるが、ここにはそのネガティブな残滓がある。「虚妄の正義」や〈WGIP〉なんて無責任なだけじゃないのか、という気がするけれど。単純な図式化で自分の意識を片付けるのは勝手だけど、戦後を生きた億単位の人々の人生を片付けるのは、「フェッセンデンの宇宙」を作るのとは違うと思うし。SFの相対的視点は個人の意識の曖昧さを離れることで異化効果を発揮するけれど、しかし相対的視点が個人の曖昧な意識の上にのっていることは考える必要がある。

 北野勇作『ヒトデの星』は最近の北野SFの典型/水準点を示す。直接的には『どろんころんど』の姉妹編だけど、こちらは中年男の思惟を扱っていて、ずっと文学的に書かれている。ナノテクの泥しか残っていない世界で泥で作られたヒトの形をしているらしい「ヒトデナシ」たちが、戦後テレビ時代の昭和日本の生活を送ろうとしている。ここには惑星ソラリスが作り出す人間世界みたいなリアルなSFの感触がありながら、日本人の個人的な生活のノスタルジアが描かれている。軽さと重さ、べたつく感覚とカラカラに乾いた感覚が同時に立ち上がる。『咎人の星』のアンチテーゼみたいな作品とも言える。

 昔買った仕事関連の積ん読本を読み始めたらそれなりに面白いので、今回は高橋貞樹著/沖浦和光校注『被差別部落一千年史』を読んでみた。1992年初刷で、持っているのは95年10刷の岩波文庫。その頃は98年頃刊行予定の近世資料本に取りかかろうとしていたので、近世被差別身分に関するものも掲載する必要があり、そうすると人権団体との協議が予想されるわけで、その予習用に買ったものらしい。結局、本が出るまでに読んでない。今回読んでびっくりしたのは、高橋貞樹は、全国水平社結成からわずか2年後、1924(大正13)年に19歳でこの本を出していること。1905〈明治38)年大分県生まれの高橋は17歳で水平社運動に飛び込み、外国語に熟達しているということで、1926(昭和元)年には21歳でモスクワのコミンテルンに通訳として参加。すごい早熟。この本は前半が日本史に於ける古代から近世までの被差別身分の歴史考察。もちろん当事者意識と唯物論史観で書かれているし、先行研究(あるんだ)に多くを負っているとはいえ、修士論文のレベルは軽くクリア、現在の知識からすると間違いも多いけれど。後半は明治維新から自身係わるところの水平社の現在まで、熱気を孕んだ怒りが伝わってくる。
 沖浦和光の解説によれば、高橋貞樹は1929(昭和4)年逮捕され、1935(昭和10)年、30歳にして刑務所で病死。獄中で転向したということで、戦後は忘れ去られたという。なんという人生!だ。やはり解説によれば、高橋の転向理由というのがスターリニズムはまちがっているっていうんだから、凄いね。
 ところで、解説者の沖浦和光先生はアニメ作家沖浦啓之の伯父に当たることは前にも書いたけれど、出身地が瀬戸内海の大崎上島で、最近は映画「東京家族」のロケ地ということで盛り上がっっている。瀬戸内の島では明治以降、漁民の権利関係が混乱して漁場争いが激化したんだけれど、今やってる資料本でも島の漁村での部落差別事件が当時の新聞に出てくるなあ。
 


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