内 輪   第263回

大野万紀


 小松左京さんの一周忌。大阪では2つのイベントが開かれました。サンケイホールブリーゼでの「小松左京に出会う会」(7月16日)と、大阪市立科学館での「小松左京ナイト」(7月21日)です。
 「小松左京に出会う会」は大変な盛況だったとのことですが、都合で参加できず、ぼくは「小松左京ナイト」の方へ行ってきました。中之島の大阪市立科学館は、昔この近所で仕事をしていたので懐かしかったけれど、このあたりに来るのは本当に久しぶり。朝日新聞も関西電力も三井もダイビルもみんな超高層ビルになっていて、ずいぶん様変わりしたなあ。
 プラネタリウムは満席で、年齢層高し(でも子連れもいる)。見知った顔も多い。堀さん、福江さん、樋口監督と乙部さんが本日のゲスト。科学館の学芸員の渡部さんが司会進行。
 最初にゲストが一人ずつ小松左京との関わりについて話をし、プラネタリウムを使って色々と映像も映写する。
 その中で、虚無回廊のSSを地球から見た夜空にシミュレーションした映像が凄かった。まるで黒い雲のような円筒形の暗闇が星空に入り込んでいて、その見かけの大きさに驚く。確かに計算ではこのくらいの大きさに見えるんだろう。何となく肉眼ではわからないような気がしていたのだが。しかしこれは、宇宙の知的生命体がその謎に挑む未知の存在というより、知的生命体たちを惹き寄せる○○ホイホイみたいだと評した人がいた。確かにそれが正解かも。
 その他結晶星団のシミュレーションや、実在する小惑星komatusakyoが、小松さんの亡くなった時どこにあったかとかもプラネタリウムに映された。司会の渡部さんはSFファンというわけではないのだろう、ちょっと滑ったりしていたが、プラネタリウムを使った科学の映像表現ということで樋口監督との会話にはとても熱がこもっていた。ニューヨークのプラネタリウムでは実際クラークの「太陽からの風」が映像化されているという。樋口監督もすごく意欲的だったので、ぜひ実現してほしいなあ。
 最後に去年東京で開かれた小松左京を送る会での、樋口監督制作の「小松左京ロケット」の上映。これもプラネタリウムの全天映像で見ると迫力あってとても良かった。
 終わってから、ロビーで堀さんに挨拶。そこで「原色の想像力」の酉島伝法さんとオキシタケヒコさんにも出会った。酉島さんは京フェスで会ったことがあるけど、オキシタケヒコさんとは確か初対面。挨拶だけじゃなくて、もっとお話すればよかった。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ベヒモス クラーケンと潜水艦』 スコット・ウエスターフェルド 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 『リヴァイアサン』の続編。
 別の第一次大戦で、ドイツ軍から逃れたオーストリア帝国の世継ぎとなるかも知れない公子アレックスと、女性であることを隠してイギリス海軍の巨大飛行獣リヴァイアサンに乗り込んだ士官候補生デリンは、ノラ・バーロウ博士と共にオスマン帝国へと向かう。ドイツ軍の影響力が強まるイスタンブールで、革命騒ぎに巻き込まれるアレックスとデリン。ドイツ軍の新兵器テスラ・キャノンに、イギリス軍のおぞましい巨大な人工獣ベヒモス。冒険に淡いロマンスに、そして何といってもスチームパンクな機械たち。
 ちょっと出来すぎな部分も多いのだけど、まあジュヴィナイルだからかまわない。渋いイラストがいっぱい載っているのもいい。やっぱり機械たちの方がかっこいいなあ。ダーウィニストの遺伝子改造獣はどうも不気味すぎる(今回新たに産まれた〈才知ロリス〉を除く。ロリスは可愛い)。
 ところで、副題の「クラーケンと潜水艦」というのは、思い入れの強い編集者が主張してつけたもので、クラーケンも潜水艦も(言及はあるが)出てこない。だから本書の副題としては相応しくない、という訳者の言葉には賛成だ。この副題だと、ドイツ軍の潜水艦とクラーケンが戦う話だと思ってしまうものね(それはそれで面白そうだけど)。

『物語工学論 キャラクターのつくり方』 新城カズマ 角川ソフィア文庫
 2009年に出た、キャラクター中心の文学論を、改題、再構成した文庫版である。
 「物語」――神話、伝説から様々な古典、SFやミステリ、映画、ライトノベル、アニメやマンガまで、その主要キャラクターを7つの類型に分けて、そこから物語というものを逆照射しようというものだ。基本的には、実際に物語を作ろうとする人、作家や脚本家の卵に向けた本だが、読者にとっても面白い分析となっている。
 7つの類型とは、「さまよえる跛行者」「塔の中の姫君」「二つの顔をもつ男」「武装戦闘美女」「時空を超える恋人たち」「あぶない賢者」「造物主を亡ぼすもの」である。それぞれの具体的内容は本書を読んでいただくとして、ちゃんと各キャラクター作成のフローチャートまでついている。
 著者は、物語の繰り返されるパターンや集合知、集合無意識のようなものを重視しており(だから神話伝説から始まることが多い)、オリジナリティは作家の中から自ずから現れるものであって、物語にあっては二義的なものという立場である。物語工学論という言葉からもそれはわかる。
 とてもわかりやすく、平易な文章で書かれていて、面白いのだが、実は著者自身が述べているように、7つの類型というものにさほど強い意味はなく、たまたま実用上そう分類してみたというものにすぎない。むしろ著者が強く主張しているのは、物語における「非対称性」という原理であり、そこからドラマのダイナミズムが生じ、そのバランスの中から7つの類型も生じるというものだ。納得できるが、そこまで還元すると実用的ではないというのも事実だろう。
 巻末には『フルメタル・パニック』の著者・賀東招二氏との読み応えのある長い対談がついており、ファンにはたまらないプレゼントとなっている。

『心のナイフ 混沌の叫び1』 パトリック・ネス 東京創元社
 ティプトリー賞など3賞を受賞したヤングアダルト小説。三部作の第一部である。
 三部作といっても全体で一つの作品のようで、この上下巻を読んでも話は終わっていない(それどころか、とってもクリフハンガーなところで終わっているので、早く続刊が出ないと困ってしまうじゃないですか)。
 舞台は寂れた植民惑星。閉鎖的で小さな農村がいくつかあるような、そんな世界だ。ここには先住民がいたが、入植者と戦争になって亡ぼされた。その際、疫病が蔓延し、女性はすべて死んでしまって、男たちにはノイズという、互いに他人の心が聞こえてしまう一種のテレパシー能力が備わった。犬や馬などの動物の心も聞くことができるのだ。
 SF的な設定は(少なくとも第一部では)それだけ。本書は奇怪な因習に囚われた閉鎖社会と、何故か彼らに追われる身となった主人公たちの、ひたすら逃げ回るホラー小説みたいな物語が展開する。少年トッドは、あと少しで大人として認められる、町で最後の子供だった。ところが理由もわからないまま、突然町を追い出され、追われる身となってしまう。沼地でこの世界に存在しないはずの少女、ヴァイオラに出会ってしまったためなのか。
 トッドとヴァイオラ、そして犬のマンチーは、恐ろしい軍隊と変貌してしまった町の男たちにひたすら追われ、逃げ惑う。何というか、主人公の男の子がかなり痛い存在で、しかもその痛さが強調されるような辛い出来事が続くので、なかなか読むのがしんどい。エンターテイメントとしてどうなの、とも思うが、これからどうなるのだろうと読み続けてしまう。うーむ、三部作がそろってから読んだ方が良かったかな。とにかく続きを早く出してください。

『年刊日本SF傑作選 拡張幻想』 大森望・日下三蔵編 創元SF文庫
 順列組み合わせ的な4文字漢字で続く年刊日本SF傑作選の2011年版。
 すでに読んだ作品が多いのだが、目玉は第3回創元SF短篇賞の受賞作が掲載されていることだろう。それが理山貞二「〈すべての夢|果てる地で〉」だ。縦書きだとわかりにくいが、このタイトルは量子力学の教科書に出てくるディラックのブラ=ケット記法である。お話はよくある量子力学/多世界ものの変種といってよく、いろいろ突っ込みどころはあるものの、何よりブラ=ケット記法をSFのアイデアに使ったことがポイントが高い。もっともそのこと自体が重要というわけではなくて、それが多世界の直交性(一言でいえば、あちらを立てればこちらが立たずということね)というアイデアにつながり、さらにメインテーマである想像されるもの=夢=物語と現実との関係性という話に発展していく。さらにここで、実在のSF作家の名前が出てきて、涙無くしては読めない(笑うという人も多いのだけど)SFファン大喜びのラストへと続くのだ。だがジャンルへのオマージュということも、この小説の本質ではないだろう。ここに出てくるSF作家たちを知らずとも、昔夢見た未来、あの21世紀はどこにいってしまったのだろうと思う読者なら、十分共感できるはずだから。
 傑作選としての作品については簡単に。
 はやぶさインスパイアの2編、庄司卓と恩田陸はどちらも面白かった。でもこの感動は「はやぶさ」の物語が背景にあることが大前提だね。探査機ものは大好きなので、大森望が編みたいというアンソロジー、ぜひ読みたい。池澤夏樹も入れてね。あとオールディスの「T」も。
 年刊傑作選としてはやはり神林長平「いま集合的無意識を、」と円城塔「良い夜を持っている」が抜きんでている(感想は前に書いたので省略)。
 川上弘美「神様 2011」もいい。これは3.11を抜きにしても(そんなことは不可能だが)「日常」的お話として面白く読める。
 また伴名練「美亜羽へ贈る拳銃」も面白かったが、オマージュがあからさまに過ぎるのが興ざめだ。このテーマはディックからイーガン、もちろん伊藤計劃までも続くSFの王道なのだから、もっと自分の物語として描いても良かったのにと思う。
 他には大西科学「ふるさとは時遠く」がマッスン「旅人の憩い」をほのぼのとしたような話で良かった。同人誌に載ったという宮内悠介「超動く家にて」もバカSF=ミステリで面白かった。

『雲の王』 川端裕人 集英社
 気象SF。帯には「気象ファンタジー」とあるけれど、これはSFでしょう。大気と水の動きを感じることのできる、超能力者の一族が出てくるが、そんなの十分SFの範疇だ。
 気象SFというニッチな分野がある。気象災害(火山噴火や大地震も含む)や環境問題と異常気象を扱うパニックSFを別にしても、空と雲の領域をSF的に、幻想的に描く、心に残る作品がいくつもある。ぼくがいつも思い起こすのはドナルド・ウォルハイムの「暴風雨警報」だが、ラファティの「空」や、ボブ・ショウの「Stormseeker」、野尻抱介の「大風呂敷と蜘蛛の糸」(だけど成層圏まで行くと「気象」とはいえないかも)などが思いつく。もっとも本書を読みながらぼくの頭で鳴っていたのはアニメ「風人物語」のエンドテーマだったのだけど。
 本書にも気象災害は出てくるが、基本は大空と雲と風の魅力(魔力?)に取り憑かれた人々の物語であり、もうひとつは地球規模のグローバルな科学的探求と、もっとローカルで地域に根付いた、より個人的・日常的な感覚との相剋の物語である。いわば「気象」と「天気」の関係。これはヒロインである女性と、その兄との関係性としても描かれているが、それは決して本質的に対立するものではなく、同じ大気の流れを見る観点の相違にすぎないのである。
 本書のヒロイン、気象台に勤務する美晴には、目に見えない大気や水蒸気の動きを感覚的に知り、天候を予測できるという能力があった。別れた夫との間に産まれた小学生の息子、楓大にも、十代の頃に事故で亡くした両親にも、同じような天気と深く関わる能力があったらしい。そういうものにあまり関わりたくない美晴だったが、行方知れずになっていた兄からの便りに導かれ、美晴と楓大は一族の故郷である房総半島のある郷を訪れて、そこで自分たちの役割を知ることになる。
 美晴はゲリラ豪雨の研究プロジェクトに参加することになり、やがてまた兄と再会し、その強引なやり方に反発しながらも、彼の進める世界的規模のプロジェクトに巻き込まれていくことになる……。
 一族の女は小さな揺らぎから変化を見つけるが、男たちは大きなものばかりを見たがる、とは本書の中で一族の老婆が語る言葉である。確かに本書の前半で美晴たちは都会のゲリラ豪雨を予測したり、地域の天気の変化を見つけたりするのだが、後半では物語の舞台が地球規模に広がり、気象制御のSF的な巨大プロジェクトが描かれる。美晴はそれにいらだちを覚えるのだけれど、それにしても地球を巡る巨大な大気の循環から、海洋を覆う積乱雲の大集団が産まれ、そこからはみ出して北上した渦巻きが、やがて台風となって日本に向かってくるという描写にはわくわくさせられる。それはまさに雲の王だ。その中心、凄まじい渦を巻く雲の柱に囲まれて佇む目。夏空の入道雲から地球規模の大気の擾乱まで、その科学的なスケール感には、センス・オブ・ワンダーを感じざるを得ない。夏の青空にそびえる雄大な積乱雲を見て、感動を覚えた経験のある人には、ぜひ読んで欲しい小説だ。
 しかし、カラオケで古い演歌ばかり歌いまくる小学生たちって何なのさ(ありそうだけどね)。めちゃ可愛いじゃないか。

『NOVA8』 大森望編 河出文庫
 ついに8冊目のオリジナルアンソロジー。今回の目玉は山田正紀の中編「雲のなかの悪魔」、東浩紀の〈クリュセの魚〉完結編「オールトの天使」、それに飛浩隆の「自生の夢」前日譚「#銀の匙」と「曠野にて」、北野勇作「大卒ポンプ」といったところか。他には片瀬二郎、青山智樹、友成純一、松尾由美、粕谷知世の作品が収録されている。
 まず問題なのが山田正紀「雲のなかの悪魔」。16歳の戦闘美少女が宇宙の牢獄から脱出しようと闘う姿はかっこいいのだけれど、その世界がぼくにはまったくイメージできなかった。小説というよりPVみたい。
 初めから物理用語のようなタームがいっぱい出てくるのだが、ハードSF的な使い方じゃないので、とまどってしまう。そこでタイトルをキーに無理やり解釈してみた。つまり「雲」はネットや社会の情報環境を意味する「クラウド」であり、「悪魔」は無秩序なノイズから何らかの方向をもった情報を選択するフィルター「マクスウェルの悪魔」であるとする。
 この作品ではほとんど意味不明な科学用語が圧倒的なノイズとなって読者に襲いかかるが、誰とも知れない話者によって直ちにそれに独特な解釈が与えられる(それが物理的な用語の意味とずれているので、ますますわからなくなるのだが)。この話者こそ、恣意的な同調圧力を強いる悪魔ではないのか。と考えれば、理解できない科学用語によって構築された超物理的牢獄からの脱獄という本作のテーマは、そのままこの閉塞的な3・11後の情報環境からの脱出を意味しないか。そのパワーとなるのは何と「愛」(あるいはクオリア!)なのだ。
 これまでの山田正紀では、意味をずらされた科学用語やSF用語が「蝶」や「宝石」といった詩的なイメージに結実していた。それが今や意味不明な言葉の牢獄である。それを打破するのが「愛」とは!
 でもラストで16歳の戦闘美少女、李兎たんは、ちゃんと物語全体をひっくり返してくれる。「ほんとかしら?」だって。
 東浩紀の「オールトの天使」も、これまた「愛」の物語である。しかも何ともロマンチックなラブストーリー! さらに彼と彼女だけでなく、その娘もからんだ3次元、いやもっと多次元な、気恥ずかしくなるほどのラブストーリーだ。おまけにそれが人類の運命に直結する。でも好きです。
 ディッシュのいう「SFの気恥ずかしさ」には色んな意味があるけれど、臆面のなさというのもその一つ。大人ならあえて言わないようなことを真面目に口にする。でもそれがあってこそのSFだと思う。「オールトの天使」にもそんなところがある。
 またハードSF的な側面も面白い。でもやっぱり、意識とは別の、心とか魂とかいうのを情報的宇宙の中にどう位置づけるかというのが問題なのだなあ。個人的にはあまり筋がよくないと思うのだが。もうひとつ「継承」ということも本作のキーワードだ。親と子、オリジナルとコピー。
 それにしても、火星の女王のお父さんになるって、ちょっとあこがれるね。
 飛浩隆の2編は天才詩人アリス・ウォンの幼い頃を描いたスケッチ的作品で、美しいイメージに溢れているが、物語としては断片にすぎず、「自生の夢」の圧倒的な迫力には欠ける。
 北野勇作「大卒ポンプ」はタイトルの勝利ではあるが、そもそもバチガルピと北野勇作の世界には似たところが多いのだ。本作はまんま作者のいつもの有機的でどろどろで嫌な臭いのする世界なのだが、それが行き詰まりの閉塞感と、その中でも日常を生きていかざるを得ない人間たちのやるせなさを描いていて、身につまされるものがある。
 松尾由美「落とし物」は竹本泉のマンガを思わせる可愛らしい話。
 片瀬二郎「00:00:00.01pm」は時間が止まるという昔懐かしいイメージを用いたスプラッタなホラー。このテーマをもっとSF的に扱えば、『拡張幻想』の大西科学みたいになるのだろうな。
 青山智樹「激辛戦国時代」はスパイスが戦国時代を動かしたという歴史パロディ(面白い)。
 友成純一「噛み付き女」はクトゥルーものっぽいホラー。
 粕谷知世「人の身として思いつく限り、最高にどでかい望み」はアラビアンナイト風ファンタジーだが、どこか文化人類学的な味わいがある。
 いずれも力作ぞろいの一冊である。


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