内 輪   第256回

大野万紀


 今回は第256回。2進法ではキリ番です。ちょうど2011年の最後の回。次回は何と2012年ですね。思えば遠くへ来たもんだ。
 大変な1年だった2011年が終わり、2012年はいったいどんな年になるのでしょうか。願わくは多くの人々に、動物たちに、生き物たちに、有象無象のものたちに、3次元+縮こまった9次元のすべての宇宙に、良い年でありますように。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『スノーボール・アース』 ガブリエル・ウォーカー ハヤカワ・ノンフィクション文庫
 2004年に出た科学ノンフィクションの文庫版。約6億年前の地球は赤道まで全球凍結したスノーボール状態だったというスノーボール・アース仮説の一般向け解説本で、毎日出版文化賞を受賞している。
 スノーボール・アースについては以前に読んだような気がしていたが、別の本だったみたい。著者は女性サイエンスライター。
 本書はいきなりボストンマラソンのシーンから始まる。スノーボール・アース仮説の主導者ポール・ホフマンが、マラソンランナーでもあったからだ。実は本書の主眼はスノーボール・アース仮説をめぐる科学者たちの人間ドラマの方にあって、仮説そのものについてはわりとあっさりと触れられているだけだ。まあ、地球が凍り付いて、それが数百万年続いたといっても、あんまりドラマチックじゃないものねえ。でもそのこと自体にどきどきするほどワンダーを感じる者もいるのだ。科学者たちが石を調べ化石を発掘し、証拠の解釈をめぐって激論を戦わすというのも確かに面白く、とりわけ極地や砂漠での発掘現場の話は興味深いのだが、それより太古の地球に思いをめぐらす方がSFファンにとってはもっとわくわくすることじゃないだろうか。
 そういう意味では本書はちょっと物足りない。しかし、出てくる科学者たちの癖の強いこと。特に本書の主人公といっていいポール・ホフマンという人は、お近づきになりたくないタイプだよなあ。
 それにしても数百万年の間、深海底まで全てが厚い氷に覆われた地球。その氷の下の、わずかなホットスポットで生き延びる単細胞生物たち。数百万年のち、二酸化炭素の濃度が増え、温室効果で突然氷が溶け(数百年という地質年代的にはほとんど一瞬の出来事だ)逆に気温60度という高温につつまれる。こんな極端な環境の中から、多細胞生物が爆発的に進化する。こっちのドラマの方がもっと読みたいと思った。

『金色の獣、彼方に向かう』 恒川光太郎 双葉社
 それぞれ独立しているが、緩やかに連携した4つの中編からなる連作長編である。モチーフは樹海と流浪の民。
 始まりは元寇のころ。波乱に満ちた運命により、日本人でありながら蒙古軍の間諜となって博多へ潜入した主人公たちは、蒙古軍の敗走により日本に取り残される。その中にいた中国北方出身の女はイタチに似た妖獣を使う巫術師だった。彼らは山奥へ潜み、村を襲撃し、深山幽谷に溶け込んでいった。
 そこは富士の樹海。時は流れ、樹海のふもとでレストランを経営する男は、都会から来た曰くありげな女と暮らすようになる。彼女は、異界へとつながる風天孔を探す集団と去り、そして彼もその後を追う。また、占いをするという鼬行者なる者がいる。人や動物の心に憑依する者がいる。そして金色の獣がいる。ここでは異界と日常は切れ目無くつながっており、生や死や哀しみが自然の中に混ざり合っている。実際はイタチじゃなくて鎌鼬なのか。自由に走り回るこの存在がいい。
 作者のこういう雰囲気の作品はとても好きだ。物語としては、とりわけ元寇を背景にした「異神千夜」がいい。歴史小説の雰囲気があり、これまでの作者の作風と少し異なっている。続く3編はいかにも作者らしい作品だが、全体を貫く金色の小動物のイメージが心に残る。読み応えのあるファンタジーである。

『テメレア戦記 1 気高き王家の翼』 ナオミ・ノヴィク ヴィレッジブックス
 2007年にローカス賞を受賞して日本でも評判になったシリーズだが、これまで読んでいなかった。家族が図書館で借りてきたので、読んでみたのだが、確かに面白かった。でもちょっとぼくの好みとは違っている。
 ナポレオン戦争の時代に、空飛ぶ巨大なドラゴンに人々が乗り込み、空軍としていっしょに戦っているという設定だ。ドラゴンは馬のような使役される動物というのではなく、言葉をしゃべり、自らの意志をもつ知的生物である。また騎馬とは違い、大勢の乗員がハーネスを使ってドラゴンの体に乗り込み、爆撃したり銃を撃ったりする。となると、ドラゴンは戦艦や航空機のような役割を担っているように思える。
 ということで、ファンタジーというより架空戦記、SFに近い雰囲気を持っている。それがローカス賞を受賞し、ヒューゴー賞にノミネートされた理由だろう。とはいえ、ドラゴンについてのSF的な設定はほとんどない。どんな種類がいて、世界にどのように分布しているか、人間との関わりはどうかといった設定はきちんとされているが、なぜ飛べるのか(一応水素の浮き袋を持っているそうだ)とか、知的生物でありながらなぜ人間に従っているのか、少なくともこの1巻ではSF的に納得できる説明はない。
 まあ、なくても別に問題はないのだよ。言葉を話すドラゴンは可愛いし、特に後半で描かれる空中戦のシーンは迫力がある。もっともそこまでが少し退屈ではあったけど。

『マインド・イーター(完全版)』 水見稜 創元SF文庫
 30年前にハヤカワ文庫で出た連作短編集に、未収録だった2編「サック・フル・オブ・ドリームス」と「夢の浅瀬」を収録した完全版である。飛浩隆による力の入った解説も評判だ(30年前の解説はぼくが書いたのだけれど、恥ずかしいから読み比べないで下さい)。
 久しぶりに読み直してみると、傑作であることに変わりはないが、著者本人も本書の後書きで書いているとおり、小松左京作品との照応を強く感じた。それは意識とは――悪意も含めて――何なのか、生命とは何か、その宇宙における意味とは何かを、物語によって、コトバによって、メタファーによって描こうとすることである。もちろん、飛浩隆が指摘しているように、小松左京と水見稜ではその描き方は大きく異なる。小松はそのモチーフの「~とは何か」という問いの方に視点を置いていたといっていいだろう。その一方、水見はむしろその後半、物語ること、コトバを語ること、メタファーを描写することの方に力点があったように思う。それが多用される「相」というコトバに現れているのではないだろうか。
 「相(フェーズ)」とは物理学的な意味――相転移というような――ではなく、むしろ「場(フィールド)」に近いものなのだろう。フィクションの「場」、世界を覆うメタファーの「場」、人が、生命が、そして鉱物までもが、その「場」の中で動くとき、「物語」が生まれる。
 フィクションは現実と別次元に存在するのではなく、この現実と互いに相互作用する。本書の中短篇は、そのような相互作用を様々な形で描いたものだといえよう。フィクションはコトバだけで表されるものではない。それは音楽によっても同様に表される。相互作用は――つまり、M・E、マインド・イーターは、人間だけでなく、植物にも、そしてさらさらと流れる砂のような鉱物にも影響しあい、全てを覆うフィクション場の中で、その物語を紡いでいくのである。

『さよなら小松左京 追悼』 徳間書店
 徳間からの追悼本は、単行本未収録の短篇SF「鬼の惑星」やSF論でもある「ミスターXへの公開状」、いとしこいしのラジオ漫才の台本、創作ノート、「SF作家オモロ大放談」、小松左京マガジンに載った対談など、あまり目に触れない貴重な文章が満載である。そして手塚治虫との対談CDが付録。保存版というに相応しい内容だ。
 残念なのは、急いで作られたためなのか、やたらと誤植が多いこと。一目でわかるようなものも多くて(20世紀を21世紀とするような)、気になる。サイトにでも正誤表を載せればいいのに。
 内容はどれも興味深く、懐かしく、面白く読んだ。「オモロ放談」も久しぶりに読んだが、星、筒井、小松の御三家の個性が爆発で、もう泣き笑い。追悼対談では、山田正紀・瀬名秀明・小川一水の「小松左京を継ぐのは誰か?」や萩尾望都・新井素子・小谷真理の「女性が読み解く小松左京」などが印象に残った。

『小松左京セレクション 1 日本』 東浩紀編 河出文庫
 東浩紀が編集した小松左京短編集は、テーマ別に小松左京の姿を浮かび上がらせるという観点から、短篇小説だけでなく、長篇の一部やエッセイ(『果しなき流れの果に』から「エピローグ(その2)」、『日本アパッチ族』の「まえがき」、『日本沈没』の「エピローグ」など)も含む構成となっている。いわばテクストとして読む小松左京となっており、それは成功している。こんなやり方もあったんだな、という感じだ。テクストを読むことがそのまま小松左京論につながっている。
 「戦争」、「経済成長とその影」、「SF的、日本的」、「『日本沈没』より」という4つのパートに分かれているが、どれを読み返しても傑作であり、何十年も前にこんな作品が書かれていたのだなと、あらためて考えさせられる。
 とりわけ『果しなき流れの果に』の「エピローグ(その2)」は、ぼくも大好きな一編で、何度読んでも涙が出そうになるほど素晴らしい。こんな短い文章の中で、現在から未来(それはすでに過去から現在になっており、しかも60年代後半に本当に今を見据えていたのだなと感じさせる)への時の流れを描き、変化するものと変化しないもの、美しい日本の風景を描き、一人の女性の一生と恋人への思いを描く。これと、年老いた二人の出会いと死を描いた「エピローグ(その1)」があまりにも印象的なので、つい『果しなき流れの果に』は爺婆の茶飲み話を描いたコージーSFだ、といってしまいたくなる(でも読み返してみると二人で縁側でお茶を飲むような具体的な描写はなかったみたい)が、もちろんとてつもなく非日常的で広大な時空を行き交うような本編の中にあっての話だ、ということは押さえておきたい。
 しかし、3・11の後は、どの作品を読んでも何らかの連想を誘ってしまうものだ。「物体O」も大好きな話だが、理不尽な大災害の中にあって日常性を失わずがんばっている人々の描写を読むと、どうしてもうるうると来てしまう。
 本書の選択では、もう一つの歴史を描いた作品が多く(「地には平和を」もそうだ)、特に時代物というか、江戸時代を舞台にした作品が目立っている。「御先祖様万歳」、「時の顔」、「お糸」などだ。「お糸」は昔読んだときは深く考えずにタイムパトロールものと思っていたのだが、ちゃんと読むと、これって仮想現実ものかも知れませんね。あ、ネタバレか。ちょっと「銀魂」だったりして。いや、「お糸ちゃん可愛い!」に変わりはないのだけれど。

『天冥の標 V 羊と猿と百掬の銀河』 小川一水 ハヤカワ文庫
 大河シリーズも第五巻。予定の半分である。
 今回は二つのストーリーが描かれる。一つは小惑星帯で農業を営む中年の農夫とその反抗期を迎えた娘、そして地球から来た女性学者の物語。もう一つは遙か銀河の彼方での6億年に渡る知性の進化の物語である。
 片方は、小惑星パラスの地下で小規模な野菜農場を営む家族の、仕事上の苦労と、難しい年頃の娘を持った親子関係といった、いかにも未来のごくありふれた日常をとてもリアルな筆致で描いたストーリーだ。もちろん、大きな背景を知る読者には、ところどころに現れる小さなヒントにより、彼らの日常生活が大きな物語の中にあり、それと密接に関わっていることがわかる。はっきりと描かれてはいないこと(例えばわざわざ地球からこの農場へ来て働いているアニーの正体など)も、もう一つの物語と合わせて読むことによって何となく想像が出来るようになっている。
 だが、こちらのストーリーのメインは、あくまでも彼らの個人的な日々の苦闘だ。故障する機械や設備のメンテナンス、畑の世話、大企業との競合、有力者や隣人たちとの人間関係。そして都会に出たい田舎の女の子の気持ち、彼女が嫌うそのつまらない日常こそ、宇宙で農業を行うという大変な作業の本質なのである、
 宇宙での農業がSFでここまで突っ込んで描かれた例をぼくは知らない。たいていは、巨大なドームの農園や水耕栽培のような工場で栽培されることになっていて、あまり興味を払われない分野である。でもモノカルチャーの危険性を考えれば、宇宙で農業が日常化するとはこのような仕事が普通に行われることなのだろうと思わせられる。低重力下での料理といった細やかな日常描写も嬉しく、後半でノイジーラントの〈酸素いらず〉たちも登場し、大変な悲劇もあるにせよ、面白く読めた。
 しかし、本書の、そしてシリーズ全体を見てのメインは、何といってももう一つのストーリー、これまで断章として描かれてきた銀河の〈被展開体〉ダダー=ノルルスカインの物語である。6億年前、とある惑星のサンゴ虫に似た生物のコロニーに発した意識、長い間のんびりと過ごしてきた彼ノルルスカインは、6千万年前にとある異星人の宇宙船にすくい上げられ、宇宙船内のコンピュータに寄生する意識となる。そこにはミスチフという天の邪鬼な子供のようなもう一つの被展開体がいた。二人は仲良くなり、そして銀河に意識を広げていくのだが、やがて恐るべき敵の存在を知る。〈覇権戦略〉をもつそれは、まるでパンデミックを拡げるウイルスのように、静かに、しかし苛烈にこの銀河に浸透していくのだった。
 というわけで、SF読みとしてはこっちの話がとても楽しく読み応えがある。装いは新ただが、SFファンにはスペース・オペラの時代からおなじみ、人間たちの争いの裏にある超知性たちの戦いである。SFマガジンにも書いたが、ソラリス問題を放棄して、人間的に描かれた彼らは、しかしやっていることはとんでもないことなのだ。この中には長編SFとなってもおかしくないアイデアがいくつも含まれている。
 何億年も平和なサンゴ人たちと暮らしていたノルルスカインは、基本的にとてもいい奴で、のんびりしていて、だから最終的に恐ろしく過酷な運命にあるとしても、語り口はユーモラスである。『銀河ヒッチハイクガイド』みたいな章もある。こういうのこそ、SFを読む醍醐味だなと思わせてくれる。
 話はほとんど進んでいないのだが、とても重要な巻だったといえるだろう。ところでタイトルの「百掬」とは何なのか。「掬」は「すくう」の意味だから、手で水をすくうように、〈覇権戦略〉が銀河の多くの知性種族を掬っていくことを示しているのだろうか。あるいはその逆なのかな。


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