続・サンタロガ・バリア  (第112回)
津田文夫


 先月の反動か、何故か読んだ本の数が増えた。でも音楽はほとんど聴いてない。空気が乾燥してせっかくステレオの音が良く聞こえるようになってきたのに残念。そういえばクラプトンとウィンウッドの日本公演があるけど行けそうにないなあ。

 数多くの論考やエッセイそして座談会が収められた笠井潔/巽孝之監修、海老原豊/藤田直哉編集『3・11の未来 日本・SF・想像力』は読む方が大変な1冊。小松左京が「もう少し生きていて見届けたい(序文)」という言葉を残して逝ったことを思うと、ここに集められ、SFという括りでまとめられた様々な言説が、どれほどの人に届くのかと余計な心配をしてしまう。
 収録された個々の文章については巽孝之が巻末で解題をつけているので、本書の全体的なパースペクティヴについてはそちらを読めばよい。集中では鼎元亨の「3・11後の来るべき日本」が題材とスタイルの上でやや生硬な文章になっていて読みにくいのを除けば、どの文章も書き手の個性が良く出ている文章だった。全体を通じて感じるのはSFに関わる多くの書き手がSFは3・11の現実を「冷たく」とらえることができるのではないかと考えていることである。それは個々の書き手の被災者や犠牲者への人間的な思いの深さとは別の次元にある、もうひとつの現実のとらえ方といっていいだろう。この「もうひとつの現実のとらえ方」は何もSFだけがやれることではなく、政治家や経済人をはじめとする多くの日本人がある意味3・11の現実にたいするもうひとつの「現実的打算」ともいうべき形で、被災者や犠牲者へ思いをはせつつもその利害を考えていることだろう。しかしSFはそのような「現実的打算」を含めて「冷たく」とらえられると、個々に文章を寄せたほとんどが男性の書き手は考えているように見える。身も蓋もないレベルでは豊田有恒の文章がそれを代表している。押井守はいつものように韜晦しているけれど。ハードな男性陣に対して新井素子だけは「現実逃避」としてのSF/ファンタジーの効用を説いているし、大原まり子もベタといえばベタな文章を寄せていて男性陣のハードさを浮き出させている。
 この本を読みながら、途中で文庫で出た宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を読んでしまい、こちらは元気はいいけど「古い/新しい」論はどうなんだろうと思っていたら、桜坂洋が宇野に言及して「古い/新しい」論を批判していたのでびっくりした。

 短編修行中みたいな池上永一『トロイメライ 唄う都は雨のち晴れ』は、『テンペスト』のスピン・オフ第2弾連作短編集。前作よりも肩の力が抜けたのか軽く書き流しているように見える作品が多い。今回は岡っ引きの武太が狂言回しに専念させられていて、個々の作品ではメインキャラが別に用意されている。こういう短編もいいけれど、そろそろパワー溢れる長編が読みたい。

 池上永一と同様5月に出ていた北野勇作『かめ探偵K』は、作者の調子の良さを証明する読み心地のよい1冊。世界がいったん終わった後の新世界とはいえ、いかにも北野ワールドらしい慎ましく狭い街が舞台。語り手はかめ探偵Kに部屋を貸してる大家兼自称探偵助手の女の子で、そこへ幼い女の子がやはり自称探偵助手として押しかけてくる。一応謎解きもするけれど、話の目玉はやはりSF的な設定と論理の部分にある。

 高野史緒編『21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集 時間はだれも待ってくれない』はすべての作品が各国の原語から訳されているというのが売りのひとつで、その効用が訳文から類推できるかというと、よく分からないが、深見弾が一人で訳したものよりは、バラエティに富んだ文体が感じられる(最後に深見さんの訳文を読んだのは随分昔なので、単なる偏見かも)。読後の印象は表題作やチェコのミハイル・アイヴァス「もうひとつの街」に見られるようなジャック・フィニイ的ファンタジーだけれども、個々の作品を並べてみればほとんど統一性がない作品の集積で、暗さが結構目立つ。
 巻頭のヘルムート・W・モンマース「ハーベムス・パーパム(新教皇万歳)」が一番フツーのSFでレムの初期ユーモア短編といわれても信じてしまいそうだ。ルーマニアの2作もまだSFコメディっぽさがあったけれども、ベラルーシのアンドレイ・フェダレンカ「ブリャハ」までくると編者の云うように「破滅SF」と読むことも出来るが、旧ソヴィエト連邦の暗さが今に尾を引いている感触がある。現代的な暗さはスリヴァキアのシチェファン・フスリツァの2作品にあらわれ、平行世界の自分からメールが届くアンゲラ&カールハインツ・シュタインミュラー「労働者階級の手にあるインターネット」は、旧東ドイツという区分で秘密警察の悪夢がホラーとして現れる。ここまできてハンガリーのダルヴィン・ラースロー「盛雲(シェンユン)、庭園に隠れるもの」とラトヴィアのヤーニス・エインフェルズ「アスコルディーネの愛−ダウガワ河幻想−」でようやく本格的なファンタジーが読める。前者は中国趣味で、山尾悠子か西崎憲が書いてもおかしくない作品だし、後者は本格的な幻想小説で読み慣れない地名がエキゾチックだ。最後がセルビアで、最近話題の作家ゾラン・ジヴコヴィチの「列車」という列車で会った神様と運命について語るコントで締めくくられる。以上、ほぼ表題通りのショウケースとして貴重な作品集になっている。

 浅倉さんの最後の仕事のひとつ、浅倉久志編/ジャック・ヴァンス『奇跡なす者たち』は、ヴァンスの魅力を十全に伝えてくれるコレクションだ。印象に残るのはやはりカラフルな「フィルスクの陶匠」や「月の蛾」だけれど、その他の小品も愉しく読める。「保護色」なんて単純なエスカレーションしかないけれど、主人公の選びつづける選択枝が普通じゃない、最後にスパイの女を選ぶなんて今の作家だって滅多にしない選択だろう。そして表題作と有名な「最後の城」はとてもノヴェラとは思えない豊かな世界を現出させて読み手を堪能させる。大枠は平凡なのに話の造りと描写が非凡なのだ。若い頃はヴァンスって食わず嫌いだったから未だに『大いなる惑星』とか『終末期の赤い地球』とか読んでないんだけれど、ボロアパートの本部屋を捜索してくるかなあ。

 かめ探偵を読んでこちらもと思い、北野勇作『きつねのつき』を読む。こちらは表題からも窺えるように一種怪談(ホラーとは違うよなあ)がかった、それでもじんわりと利く北野版未来史の世界が広がっている(いや、舞台は狭いんだが)。ここでは娘の存在が非常に大きく、作者が自分の娘と接した日常の言葉がこの作品世界を向こう側(それがホラーだ)に落ちることから救っている。ためにするホラーに対しては不感症に近いのであまりその手の作品は読まないんだけど、北野勇作が時々見せる生っぽい恐怖感はイヤである。それは作為的なものというより、北野勇作の気質的なものだからだろう。

 都筑道夫の小説を読んだことがない、と思うくらい小説家としての都筑道夫は縁遠いのだけれど、SFとの関わりでは福島正実とともに常に思い出される人ではあった。その都筑道夫『読ホリデイ』上・下が安売りで出ていたので、読んでみた。都筑道夫は勿論ミステリの人で、この書評エッセイ集で採りあげられた作品のほとんどは当方が読んだことのない翻訳ミステリである。それでも飽きないで読めるのは、都筑道夫が読んだ本のことを読者に伝えるのが上手いからである。そして読んだ本の紹介以外に雑記部分が面白いからでもある。ただ都筑道夫の老齢と衰弱は下巻の文章になると明らかで、それは最後に向かって加速していく。その向こうに著者の死が見えているので余計切ない。
 伊藤さんが個人訳で出したブラッドベリの『二人がここにいる不思議』を褒めていたのがうれしかった。

 ちょっと手を出したらやっぱり読んでしまった京極夏彦『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』だけど、前作に比べて京極っぽさが非常に濃い。愉しく読ませて貰ったとはいえ、なんとなく手慣れたワザを見せられたようで、得心はいかない。これって京極堂シリーズの改変歴史世界の未来になっていて、あの世界の主要住人のキャラクターをこの作品世界の少女たちに割り振った物語なのだ。それがわかるのは戦時中に陸軍が作ろうとした痕跡を残さない毒薬の話が、そのまま京極堂ワールドへと繋がるように書かれている上、自信過剰の天才理科系少女はどう見たってあの自称(天才)探偵のひ孫(玄孫か?)にしか見えないからだ。となれば、この作品は京極堂シリーズファンの為のサービスといえるだろう。たぶんそれが得心がいかない理由になっている。
 京極堂シリーズは、たとえ本当は改変歴史の戦後だったとしても、その世界は戦後間もない時代で、ついこないだの戦争が大きく影を落としていることがすぐわかるし、読み手の戦後日本についてある程度の常識が作品世界の日常をそのまま保証してくれた。ところが『ルー=ガルー2』は近未来の話である。説明されないもの、描かれないものはどうなっているのかまったく判らない。たとえば、14歳の少女はいても少年や幼年から高学年の少年少女たちはどうなっているのかまったく判らない。まるで前回活躍した少女戦隊のメンバーが1人1人集まってくるおなじみの物語だけが機能しているみたいだ。
 京極堂シリーズがその時代設定にもかかわらず、作品が書かれた同時代の問題をストレートに反映してテーマとしていたように、ここでも現代の問題はきちんとテーマ化されている。しかし主たる面白さの淵源は京極堂シリーズと同様なのだ。それを批判しても仕方ないと云えば仕方ないのだけれど。


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