みだれめも 第201回

水鏡子


うえお久光『悪魔のミカタ@魔法カメラ』は、気もちが悪かった。
気色が悪いといってもいい。ただし気味が悪いという意味ではない。いやな気分になる小説という意味でもない。うーむ。こちらの腰を引け気味にさせられたのだから若干そういうニュアンスもないわけではないが、それ以上にこれはいったいなんだろうと作品の出来上がり方と自分の内に生じた生理反応を探りたくなるそんな作品だった。中学生恋愛のレベルであるというのに妙に官能的で、ある種文学的感興といえるものが漂っていた。
 基本は悪魔の契約テーマのヴァリエーション。悪魔の契約の裏をかこうとする人間たちの悪辣さに業を煮やして、悪魔たちは人の願いをかなえるアイテムを世界中にばらまくようになった。このアイテムを使って人が本当の願いを邪悪なかたちで果たした時、悪魔は魂の取り立てにやってくる。ただし本当の願いを叶えるまでは人はそのアイテムを使い放題でもあるという。そんなアイテムのひとつ、写すことで人の命を吸い取るカメラに関わって恋人を殺された高校生堂島コウは、死んだ恋人を生き返らせるため、悪魔の手先になって、望みを遂げた犯人の魂を回収する役割を引き受ける。犯人探し、動機と殺害方法の解明を基軸に置いたミステリ型ファンタジイ。ある意味すごくおとなしい、地味な物語で、これが全19冊(未完)を費やして一地方都市に詰め込まれた〈ワンピース〉系の能力者バトルを介したアンチ・キリストと獣の王国をめぐる壮大な物語に変貌していく。(壮大といっていいのか? 世界の命運をめぐる争いが、通っている高校の運動会であったりするのを壮大といっていいのか?たぶんいいんだろうと思う。一時期はやったセカイ系という言葉はこの作品にこそふさわしい。そしてこの小説世界のへんな展開も、たぶん最初に感じた気もちの悪さの帰結であるように思うのだ)

 着眼自体は面白いけど、それをいくら書いてもこの小説の気もち悪さの説明にはならない。そもそも、シリーズ全体の途方もなさに驚いたわけではない。地味なこの第1作のミステリ型ファンタジイそのものが気もち悪かったのだ。官能性が高いと言ったけど、文章力に起因しているわけでもない。文体はシリアスだったりおちゃらけてたり、それほどすごいという感じもない。自然体でなされている、作者の目線、素材の組み合わせ、物語の組み立て、感情的なバランスの置き方といったいろんなところが、へんなのだ。得体がしれなくて、生理的に妙に重たい。

 たとえばスタージョンと出会ったときに似ているかもしれない。作風の共通性という意味も若干あるけど、それより、出会った時のこちらの反応部分において。

 この自分に生じたへんな感触が気になってひさしぶりに読むことや書くことについての自分の中の準拠枠を整理しようと、そんな思いをもてあそんでいた。
 読書と読解の違いとかそんなところをいろいろと。

 昔からもてあそんでいるテーマのヴァリエーションだから、それなりにイメージはみえてるけどもう少しもてあそんでから言葉にしたい。理屈の稚拙さがあまり糊塗できないでいる。
 それと今回気がついたのは〈へん〉というのが一過性のものであること。
 スタージョンという作家がどう〈へん〉だったのか、じつはいまのぼくにはよくわからない。たくさんのスタージョンを読み、読んだ記憶を咀嚼するうち、執着のなかで自分の中にスタージョン的ものの見方が転写され、自分が世界に接する一つの在り方としてデフォルト化されてしまっている。そのせいで新しくスタージョンを読む楽しみは異質さとのめぐりあいでなく、なじみのスタージョンの空気にひたるという親和的行為になっている。小説を読む楽しみには、そんなふうにちがう目線と出会い、自分の中に溶かしこむこともあるのだと、思う。

 うえお久光も24冊一気読みのせいで〈へん〉の感触があいまいになってきた。こちらが慣れてきたせいもあるが、同時に作者が普通化してきた部分もある。なぜなら『SFが読みたい2010年版』で日本作品10位に躍り出た『紫色のクオリア』は、素材が巨大すぎ小説の体を成せなくなったせいで、近作で感じることが少なくなったその〈へん〉な感触が全面展開していたから。

 『紫色のクオリア』は、人間がみんなロボットに見える女の子と主人公(女の子)との認識論/宇宙論ファンタジイの連作2篇からなる。
 第1話は、この「人間がみんなロボットに見える」という設定をきちんとまとめあげたよくできたアイデア・ストーリイ。アイデアの生み出され方に、いかにもうえお久光らしさを感じるけど(そしてじつはそれはけっこう重要なことだと思っている)、うまくきまりすぎてかえってこの作者の〈へん〉が見えづらい。
 問題は第2話の方。この人間がみんなロボットに見える女の子が死んでしまい、彼女を生き返らせるため主人公があらゆる蓋然世界に自己を展開していく物語。平井和正「次元を駆ける恋」や八杉将司「うつろなテレポーター」とか秀作の多いテーマである。ただし、作者の人間関係性に対するこだわりは、物語をきわめてパーソナルな視点に限定し、それでいながらそのパーソナルな関係性を蓋然世界という設定に突きつけることで、宇宙論、宇宙原理論にまで肥大させてしまう。二百枚足らずの分量で、そんなことをやろうとするので、内容は、主人公の執着の吐露と自己展開される蓋然世界の説明に終始し、小説としての完成度は無視された。

 さっきスタージョンの〈へん〉が感じとれなくなったと書いたけど、スタージョンのように考えることができるようになったという意味ではない。スタージョンとスタージョンがつくりあげたものを〈外〉からなぞり、妥当なものと評価をくだし、あたりまえにうけとめる、そういうことになってしまった、ということである。小説に〈へん〉さは感じなくなったけど、理詰めに考えていくとやっぱりへんな作家である。

 「赤ん坊は三つ」という作品がある。『人間以上』の第2部にあたる作品である。「赤ん坊は三つ」でなくて「赤ん坊が三つ」でないかという指摘を昔聞いた記憶がある。良平さんだっけ。この作品を読んだ時、物語の内容と同じくらい、作品の複雑な入れ子構造と奇妙な作者の視点に、なんでこんな作り方をしたのかが衝撃的だった。すごいな、と思った理由の中には構造的な部分で感じた思いというのもかなり強かった。
 登場人物それぞれの成り立ちをじっくり書き込んだ第1部もコクがあって好きだ。この第1部の列伝風のキャラクターを組み合わせ、発酵させていくうちに作者の中でもっとも効果的なかたちとして第2部の構造が生み出されたのであるのなら、それはそれで安心できる。というか事前情報なしに最初に読んだ時は、あたまからそうやってできあがったものだと思い込んでいた。
 そうではないらしい。最初に「赤ん坊は三つ」という作品があって、それを長編化するために前と後ろをくっつけたのだという。そういう意味で『人間以上』という作品は「赤ん坊は三つ」よりも平準化されとっつきやすくなっているのだ。『人間以上』という作品に違和感はまるでなくなったのだけど、「赤ん坊は三つ」を生み出した思考回路についてはやっぱりついていけない。

 〈へん〉は感触的に取りこめる。けれどもそれはたぶん作者の創作的営為を外から観測し、共感の形で妥当性と整合性を確保したということであり、営為のメカニズムを論理的に掌握したという意味ではない。〈へん〉が立ちあげていく物語の展開が〈へん〉であってもすなおに自然体で楽しめる、そういうことでないかと思う。

 と、まあ、こんなことを読書論に敷衍していこうとしてたんですがね。

 『悪魔のミカタ』+『悪魔のミカタ666』は〈ワンピース〉系の能力者バトルが個々の物語の主エンジンであるけれど、そこの部分はある意味いちばんふつうである。サブキャラ以下の気配で出てきた連中が、どんどんメインキャラを食って存在比重を増していく。黙示録という想定外のゴールが見えて、物語の構成はかなり大きく変貌した。悪魔の知恵の実の正体が、じつはイコール**であり、堂島コウも当初と異なる役割を負わされる。荒唐無稽とついていけなくなる人も多数出そうな気もするけれど、展開自体は自然体。地方都市という舞台設定を維持したまま黙示録ゴールを目指す中での整合性と受け止めている。それよりむしろたくさんのヒロイン候補たちがどんどん化け物じみていくとこ。小説世界の異様さはむしろそっちの方が原因でないかと思っている。

 『シフト』は最初ハードカバーで刊行された。眠るとRPG系の別世界に飛ばされてそこで日常生活や冒険をする人々が存在する世界。そんな世界でラスボス・キャラになってしまった主人公の物語。ハードカバーに対する気負いのなせるわざか、『悪魔のミカタ』の作者とは思えないマトモな小説。ひねりといってもラノベ・ファンタジイの設定としては王道だろう。書き込みもしっかりされていて『悪魔のミカタ』よりずっと安心して読める。ただし第3巻までしか出てなくて若干生殺し状態ではある。

 単発もの『ジャストボイルド・オクロック』は人間すべてが「家電」と共生している近未来の軽ハードボイルド。「家電ライダー」という発想が最初にあったと作者自らあとがきで触れているように特撮愛もまじえた軽快なのりのそれなりに重いところも備えたいい作品。

 とりあえず、現時点でのラノベ作家の個人的には最上の収穫。
 そういうわけで、1年ぶりの『ライトノベル好感作家作品東西番付』を載せます。 


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