続・サンタロガ・バリア  (第95回)
津田文夫


 4月も終わりだというのに、いつまでも寒いなあ。ま、イギリスあたりに較べればずっと暖かいんだけれど。

 忙しい訳じゃないのだけれど、ケンペがゴヴェントガーデンで振った舞台神聖祝祭劇(長ったらしいね、要はオペラだ)「パルジファル」CD4枚組がなかなか聴けない。それで、長年聴く気にならなかった50年代後半にドレスデン・シュターツカペレを振ったというライヴ2枚組をついでに買って聴いたら、何か変。R・シュトラウスの「ドン・ファン」では、あまり気にしなかったけれど、ブラームスの1番を聴いて、これホントにケンペか、と疑念が湧き、ベートーヴェンの5番を聴いて、これはシュターツカペレでもケンペでもないと確信した。この2枚組はイタリアのレーベルが出した国内発売仕様の輸入盤で、タスキに5番は「(ケンペとしては)意外な物々しさに驚かされます」とあるが、この5番は「モノモノしい」じゃなくて「オドロオドロしい」のだ。何十年5番を聴いてきて、はじめて3楽章のピチカートが「幻想交響曲」の終楽章のように魑魅魍魎が跋扈するような感じで演奏することが可能なんだと教えられた。こんな前がかりのアクセントでベートーヴェンを演奏することはシュターツカペレ、いやドイツのどんなオケでも無理だろう。ましてやケンペに振れるわけがない。ブラームスはベルリン・フィル、ベートーヴェンはミュンヘン・フィルとのスタジオ盤があって、聞き比べようとしたけれど、ケンペの見事な呼吸の演奏に触れると、そんなことはどうでも良くなって、「運命」の3楽章を聴きながら、その力みのなさに涙ぐんでしまう。このCDに入っている演奏は、おそらくイタリアのいくつもあるラジオ放送交響楽団のひとつをラテン系の指揮者が振ったものだろう。イタリアのレーベルでケンペのライヴを買うんならイタリアのオケを振ったものじゃないと危ないかも。

 BUMP OF CHICKENの新曲「HAPPY」が久しぶりにステレオでへビーローテーション状態。T・レックスみたいなリズムで始まって、バンプがライブで聴かせるオーソドックスなロックを演奏している。作詞・作曲・ギターのヴォーカルはバンドの指向性と違ったシンガーソングライター体質が目立つけれど、バンド・アレンジは音楽的遍歴を感じさせる。「無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて」「どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう」といういかにもポストな時代のナイーヴな歌詞も堂に入っていて、いい感じだ。

 日下三蔵編『日本SF全集2 1972〜1977』は、収録作の大半がリアルタイムで読んだはずのアンソロジー。ま、当然ほとんど中身は忘れているけれど。こうしてSF読み始めの頃の作品を読んでみると、第1巻にに収録された作品群に較べ、ずっと若くまたロマンチックな印象が残った。それは巻頭の田中光二や山田正紀の作品からして、作者が云うとおり当時の若い意欲がそのまま作品に定着してるためだろう。田中光二の作品に三島由紀夫の影響を読み取るのは難しいにしても。ちょっと驚きだったのは、荒巻義雄「柔らかい時計」が今読むとずいぶん軽い文体を採用していたことだ。軽薄といってもいいかもしれない。かんべむさしと堀晃は、この中では当時のSFのエッジ的な作品が選ばれている。かんべむさしが如何に好調だったかを「言語破壊官」が伝えてる。そして堀晃はハードな宇宙SFが希少な日本SF界のエースだったのだ。個人的には山尾悠子は同い年で同じ大学にいたこともあって、当時はインタビューなんてこともしたし、結構思い入れは強かった。鈴木いづみはSF大会で何か喚きながら走り回っていた姿が目に浮かぶ。収録作品はSFとは関係なくハードだ。こうして個々の作品にコメントしているとなんか自分史的なダラダラが出てきてちょっとイヤ。編者には感謝ですが。

 長年啓して遠ざけてきた大物SF作家は何人もいるけれど、そのひとりアーシュラ・K・ル・グィン『ラウィーニア』にはなぜか手が出た。三村美衣の書評が頭に引っかかっていたせいだろうか。20年ぶりくらいに読むル・グィンは、非常に強力なル・グィン節で読む者をねじ伏せてしまうパワフルな作家だった。まあ昔からそういうタイプの人だったけれど、ここでは読み手がエンターテインメント感じるものとル・グィンの言霊がもはや同一であると思われるほど、作者の声が強い。触らぬ神にたたりなしかなあ。

 小川一水『天冥の標U 救世群』は、どうしてこれが前作とシリーズなのか、サッパリ分からないけれど、とても面白く読めるパンデミックもの。前作のような一種群衆劇的なスケールはだいぶ後退しているけれど、それでも作品内には複数の主要人物が存在している。読み終わって振り返るとちょっとどうだったかなという感じが残るけど、読んでいる最中は、物語のエンジンがジェットコースター並に加速する。最後の方は駒落としみたいにバタバタと物語が展開すると同時に畳まれる。次はどんな世界が続くのやら期待して待とう。

 楽しみにとって置いた山尾悠子『歪み真珠』を読んでしまう。作者の云う「掌編」群はバラエティに富んでいて、おそらく時間的にも長い間に書かれたものだろうという感じがする。幻想の質も作品ごとにいろいろなレベルで設定されていて、こういう描き方もするのか、と思うものがある一方、「遠近法」や『ラピスラズリ』のスピンオフでは、あの山尾悠子のタッチが甦る。大理石の女王が出てくる2編も印象深い。次はいつ出るのかしら。


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