内 輪   第229回

大野万紀


 政権が変わって、さすがにこれまでとは違った時代に入りつつあるという予感がします。戦後の時代が、いや20世紀という時代がいよいよ終わって、次の時代が訪れようとしているようです。それが具体的にどのようなものなのか、いいものなのか悪いものなのか、そんなことはわかりませんが。つまり、CHANGEということです。仮に民主党政権が長続きせず、また政権が変わったとしても、これまでと同じやり方は通用しないでしょう。
 SFとはCHANGEの文学だ、とは、欧米のSF評論でよく言われる言葉です。科学技術や文化の変化だけではなく、普段変わらないと思っている人間性やモラルも、日常性の感覚も、いつの間にか変わっていく。そこに焦点を当て、ハイライトを当てて見せるのがSFの醍醐味だというわけです。20世紀の世界が19世紀の世界と異なっているように、21世紀の世界は20世紀の世界と(あるいは20世紀の感覚で想像していた世界と)異なっているでしょう。その見知らぬ21世紀が、これからその真の姿を現してくるのでは……そんな気がしてなりません。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』 神林長平 早川書房
 連作短篇というより、これはひとつながりの長編だ。ジャムとの戦いの中で、雪風は、零は、そして特殊戦は、何とも奇妙な世界に閉じ込められる。仮想現実でもなく、リアルな現実でもない、現実。本書は、その「現実」に対する登場人物(人物とはいえないものも含まれているが)たちの思索でほとんどのページを占めている。何ともはや。スペキュレイティヴ・フィクションとはこのことか。そのスペキュレーションの大半は、自分とは何か、意識とは何か、自分が意識しているこの世界とは何か、という問題である。なぜそんなに意識の流れを執拗に描写しているのか、その答えも本書には書かれている。それは物語というものに対する著者のずっとこだわっているテーマでもある。そして本書では、機械知性である雪風のフィルターを通して見たヒトと機械とジャムの〈意識する世界〉が描かれていて、そこには連続した時間や固定した記憶もなく、様々な事象が多重に重ね合わされ、にもかかわらず、それは〈リアルな〉世界なのである。根本的にはイーガンや、今の多くのSF作家たちと同様なテーマを扱っていながら、何とも独特な視点であり、描き方である。自意識をもった戦闘機〈雪風〉を描きながら、あまりにも擬人化から遠く、すなわち「萌え」から遠い、でもこの硬質な描き方には、かえって「萌える」読者も多いのかも。そこが人間の不思議なところだよ、雪風。フムン。

『怪物團』 井上雅彦編 光文社文庫
 異形コレクションの最新刊。朝松健、上田早夕里、牧野修、岩井志麻子、平山夢明、真藤順丈飴村行ら20人の20作が収録されている。怪物というテーマはちょっと中途半端で、わかりにくい。幽霊や妖怪ではなく、怪獣でもない。どちらかというと「彼は怪物だ」というような、精神的あるいは肉体的に奇形な人間に対して使われることが多く、本書の作品でもそのような扱いが多くて、あんまり好きではない。ちょっとイヤな感じだ。その中で一番面白かったのは、朝松健の「醜い空」。室町時代の瀬戸内で、一休さんが妖怪退治に活躍する。一休さんかっこいい。室町時代という時代背景もいい。ちょっと「どろろ」っぽいけど、シリーズだし、マンガや映画になってもいいと思う。ベテラン勢はみんな達者だが、上田早夕里「夢見る葦笛」は一種のボーカロイドSFで、同じ作者の「くさびらの道」にも通じるテーマがあり、印象に残った。しかしまあ、スプラッターな話の多いこと。それがみんなうまいし、嬉々として書いているから、辛くなってしまう。

『あなたのための物語』 長谷敏司 ハヤカワSFシリーズJコレクション
 傑作だ。これは人間の死についての物語である。イーガン、チャン、そして伊藤計劃の名前が挙がっているが、確かにその通り、その流れにある先端的な現代SFに違いなく、にもかかわらず、ここにあるのはひどく生々しく人間的な、滅ぶべき肉体をもつ普通の人間である「あなた」や「わたし」の物語なのである。主人公はサマンサという名の34歳のアメリカ人女性科学者で、脳内に疑似神経回路を生成することで脳と直接インターフェースできるNIPという技術を共同開発し、大金持ちとなった。現在はそれを発展させたITPという技術を開発中である。ITPは脳内の疑似神経回路を発火させ、経験や感情、さらには意識そのものを伝達できる記述言語なのだ。このあたりの記述は詳細で、まさにイーガンばりのハードSFのようであるが、しかしその詳細は本書ではあまり重要ではない。本書で重要なのは、意識にしろ感情にしろ、つまるところ情報であり、脳内の化学物質が神経回路を様々に発火させているにすぎないという冷徹な認識、にもかかわらず、そこには「あなたのための物語」があるのだ、ということ。サマンサは死病に冒され、余命半年であることがわかる。社会性に乏しく、自己中心的で、研究以外に生き甲斐をもたないサマンサは、あまりお近づきになりたくないイヤな性格の人間である。その彼女が病魔に冒され、死に直面し、あらがい、怒り、苦しむ。彼女に対峙するのは、量子コンピュータ上で走るITPで記述された人工知能〈wanna be〉。彼はITPで創造性まで作れることを証明するため、小説を書くことを目的として設計された。彼は彼女のために小説を書く。「あなたのための物語」を。多少バランスの悪いところもあり、冗長なところもあるが、本書は肉体に捕らわれた意識と、肉体を持たない意識の対比を、病気と死というきわめて肉体的・ハードウェア的な事象をもとに、さらにリセットの効かない一回性ということも含めて、実に生々しく赤裸々に描き出している。物語とは、読者の脳内で走るシミュレーションであり、そこで再生される意識体は、ある意味生きていて、独自の意識をもっているといえるのかも知れないと思える。傑作である。

『煙突の上にハイヒール』 小川一水 光文社
 5編を収録した短編集。平凡なOLが買った、背中に背負って飛ぶ個人用のヘリコプター。ネコの首輪につけたカムコーダ。人間と普通に会話できる介護ロボット。単なる機械であるにもかかわらず〈不気味の谷〉を克服してベストセラーとなる人間そっくりなロボット。そしてパンデミックが終わった後の日常生活。SFとしてはいずれも小粒ながら、日常と科学技術の関わりを描くその視点は、個人の内部にとどまらず、社会や世界に広がっていく。それははっきりとSF者の視点だ。小さな日常的な風景の中にふと広がっていく大きな世界。わくわくするような鮮やかなセンス・オブ・ワンダーがある。例えば、高い煙突の上にひっかかったハイヒールのように。いくつかは、新発明・新技術の開発を扱ったSFであり、表題作「煙突の上にハイヒール」はユーザの立場から、「おれたちのピュグマリオン」は開発者の立場から描いていて、読後感はかなり違うが、どちらも好きなタイプの作品だ。「カムキャット・アドベンチャー」は今現在でも実現可能な話で、面白いけれどSF性はかなり薄い。それでも、小さな技術が意外な関係性で人と人をつなぎ、ちょっとほんわかする話だ(本書には、何らかの形で恋愛を扱ったものが多く含まれる)。人間と変わらないロボットが登場する「イブのオープン・カフェ」はちょっとタイプが違って、「おれたちのピュグマリオン」と違い、ここではロボットの〈ロボット性〉とでもいうものがあまり重視されていない。パンデミック後の日常を扱った「白鳥熱の朝に」は新型インフルエンザ流行中の今読むとタイムリーな話題を扱っているが、その問題意識は、現代の社会に向けられている。書かれたのは今の流行が始まる前(「小説宝石」2008年9月号)だが、ヒロインが被った社会的な反応は、まさに今年の春、テレビで報道されたあの騒ぎを思い起こさせる。いずれも軽いわりに、深い読み応えのある作品である。

『死都日本』 石黒耀 講談社
 長い間積ん読だった本がふいに出てきたので読んでみる。2002年にメフィスト賞を受賞し、結構話題になったパニックSFだ。九州の霧島火山が、数万年に一度の巨大噴火を起こす。南九州一帯が壊滅し、一日で数百万人が死亡するという大惨事だ。地震や津波が怖いのはわかっているが、火山も実はそれ以上に怖い。桁違いに怖い存在だということが良くわかる。わかったところで、こんな破局的大噴火は、大隕石の衝突と同じで、地震や津波以上にどうしようもないようにも思うのだが。2002年に出た小説だが、話は政権交代から始まる。長年続いた保守政権が倒れて新首相が誕生するのだ。それと時を同じくして、霧島火山(を一部として含む巨大カルデラ)の異変が起こる。物語はそれをある程度予知して国家的な対策を準備してきた政府の、俯瞰的な視点と、現地で逃げ惑う地元の火山学者と新聞記者の、現場の視点の両面から描かれる。俯瞰的な視点の方には、パニック後の世界経済までを考えた、いくぶん政治的な――というかSF的といっていい主張までが含まれ、それはそれで興味深く面白いのだが、圧倒的に読み応えがあるのは、宮崎在住の名物火山学者である黒木と、彼と同行していて噴火に巻き込まれる地元の新聞記者岩切の逃避行である。相当に調べて書いていると思われる火山爆発のディテールも凄いが、彼ら二人の大変人間的な、まったく超人的ではない右往左往がとても共感できて、読ませる。とても面白かった。実際に政権交代の起こった今読むことで、よけいに面白かったのかも知れない。


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