続・サンタロガ・バリア  (第80回)
津田文夫


 今朝(11月30日)の朝日新聞の書評欄を読んでいたら、東大の石上英一(日本古代史)が昨年亡くなった西洋美術史家若桑みどりの遺作を紹介していたんだけれど、その冒頭で若桑みどりの渾身の作品『クワトロ・ラガッツィ』を歴史小説としていたのには、ビックリした。今年の3月に文庫化された『クワトロ・ラガッツィ』に付けられた「弔辞としての解説」で西洋史の樺山紘一が、「文字通りの歴史書」いや「人文学の極致にちかづいている」とまで持ち上げたシロモノを小説にしてしまうとは。若桑みどりも草葉の陰で泣いていることだろう。まあ若桑みどりは神も仏もなかった人なので自分のいない世界で何をいわれようと関係ないかもしれないが。しかし、その伝でいくとやはり今年文庫化が終了した萩原延壽の大作歴史書『遠い崖』も小説になってしまうなあ。「私」がでてくるような書きものは論文ではないので小説だろうというのが石上英一の考えかもしれない。すべての歴史家は歴史作家であるという見方もないではないが、歴史で飯食ってる人間の言うことじゃないだろう。
 『SFマガジン』1月号のギブスン特集に載った菊池博士の『ディファレンス・エンジン』讃が面白かったので文庫版も買わなくちゃと思っていたのに本屋による暇がない、でも文庫をインターネット注文するのはねえ・・・というマクラのはずだったんだけど、何故か若桑みどりのための義憤文になってしまった。べつに若桑みどりのファンじゃないし、その著作をほとんど読んでないのだが、林達夫の唯一の大論文「精神史」をその解説で児戯に等しいと嗤って見せた(も同然な書きっぷりだった)トンガリな若桑みどりがいつまでも頭の隅に引っかかっていたので、文庫化された『クワトロ・ラガッツィ』を読み、いかにも若桑みどりらしいトンガリぶりに感銘を受けたのがこういう風に思考が引っ張られた原因か。シンクロニシティですね(必然的偶然ともいう)。

 瀬名秀明編『サイエンス・イマジネーション』は読むのに時間がかかったのだけれど、読んで1ヶ月も経たないうちにその内容のほとんどが頭から抜けていってしまってる。この本とは直接関係ないのだが、こないだ元JAXAの的川さんの講演を聴いたら、(宇宙を)知りたいヤツ、(宇宙に)行きたいヤツ、そして(ロケット/衛星/宇宙船を)造りたいヤツの3者が寄り集まっているのがJAXAだという話をしていた。このうち造りたいヤツは、宇宙に行きたいとか宇宙を知りたいとかと関係なく、とにかく造りたいだけというのが何人もいるということだった。この本に出てくるロボット研究者もJAXAのヒトたちと同じような志向の違いがあるようだ。山田正紀から瀬名秀明までの5編はどれも面白かった印象があるのだが、これまた内容を忘れている。

 テレビドラマ『24』を見ていないことで『サイエンス・イマジネーション』の山田正紀の短編を読む楽しみが半減していたかどうかわからないのだけれど、その山田正紀『神獣聖戦』を読むのに昔読んだ内容を忘れていたのはよいことだったとおもう。現在では使われなくなってしまった精神分裂症という用語(キング・クリムゾンの名曲のタイトルも原曲名カタカナ書きが普通だもんなあ)がこれだけロマンチックに響くのは驚きだ。残念ながら現人類滅亡後の大スケールの戦いはあまりピンとこないのだが、鏡人/狂人と悪魔憑きの対決という具体的にはなんなのかよくわからないアイデアが、それでもここに収録されている中短編群のバックボーンとして機能しているように見えるところにこの作品のすばらしさがある。また語り役をヒーローに振らず、ヒロインをメインに据えたことも効果を上げている原因だろう。ネコの「ツアちゃん」を効果的に使うためにもヒロイン視点を必要としたのだろう。科学ネタ物語としてのハードSFではなくムード的文系ハードSFの書き手としての山田正紀が持っていた可能性を感じさせる。

 読みたい/読んでおきたいSFはあれこれ出ているのに何故かナンシー・クレス『プロパビリティ・ムーン』に手を出す。以前読んだ疫病モノの短編はとても良くできていた印象があったので読めるだろうとは思っていたが、読後感は物語作りのうまさを感じさせるものの伝統的アメリカSFの流れに則ったタイプだなあというものだった。文化人類学SFと超科学的テクノロジー・ミリタリーSFの大技とをかなり上手く組み合わせている。ただし、いかにリーダビリティにすぐれていても、地球人類もそのひとつとされる宇宙播種によって散らばった異星人類との接触という設定は、現実の歴史における異文化接触以上に文化人類学的な想像力の豊かさを感じさせてくれるわけではない。作品自体は面白いので3部作の最後まで読めるとおもう。
 


THATTA 247号へ戻る

トップページへ戻る