ウィアード・インヴェンション〜戦前期海外SF流入小史〜008

フヂモト・ナオキ


ポーランド編(その一) ブルーノ・ヤセンスキー『巴里を焼く』(『パリを焼く』)

 ヤセンスキーがSFを書いとるなんて、誰もそんなことを言ってないよなあ。それなのになんで俺が知っとるんだ。
 今となっては良くわからんが、なんとなく良平さんが話題にしていたような気がするんけど濡れ衣だったらすいません。

 バイオテロでペストが蔓延し外界から隔離されたパリの内部に様々な集団が独立国家を樹立し互いに闘争を繰り広げるという『パリを焼く』。
 何が凄いって、当局が怒って作者はフランスから国外退去を命じられたってんですぜ。
 いや、平成の世にあってはお国が堂々と取り締まってるのはエロ画像限定。まあ、民事と圧力団体を想定した自主規制やら、トラブルはあるわけですが、小説はわりかし放置状態かと。
 今でもちょいとしたことで人が吊るされたり、行方不明になってしまう国だってあるんでしょうけど、天下のおフランス小説(翻訳)にしても、戦前のものとなると、今の感覚で読んでいてはいかんのだねえ。

 ヤセンスキーは1901年、ポーランド生まれ。1925年からはパリを中心に活動。1927年『パリを焼く』を完成、仏訳、ロシア語訳が進められる。仏訳は<リュマニテ>で連載されるも、1928年、現体制の打倒を呼びかけるものと見なされ、逮捕、フランス国外追放の処分を受ける。バルビュスらの運動でフランスに帰着するも、再び逮捕され国外へ追放。以後、ソビエト連邦で活躍するが、1937年、スパイとして投獄され、1939年獄死。
 同時代的にヤセンスキーの名は日本にも伝わってきており1937年、黒田辰男が『人間は皮膚を変える』(第一部)を訳している。同作はスパイ小説仕立て。ウェブを検索すると宮本百合子が医学書の棚に並んでいるのを見て…という挿話がひっかかるやつ。

 日本でヤセンスキーついて一番まとまった文章は工藤幸雄『ぼくのポーランド文学』現代企画室・1981年所載の「ヤセンスキーの生涯と作品」だと思われる。これは工藤氏がそれまでに書いたヤセンスキーについての文章をまとめたもので(『無関心な人々の共謀』河出書房+『世界文学全集41』学習研究社)54頁にもわたる堂々たるもの。
 もっとも戦前期日本におけるヤセンスキー受容についての情報はほとんどなく、黒田訳のことと、「『パリを焼く』は戦前、その翻訳出版が予告されていた。訳は佐々木孝丸氏(一八九八−)が行うと当時のある叢書の巻末広告に出ている」ってことぐらいしか書かれていない。
 その広告ってどの出版社の何というシリーズなんだよっ。
 もとの『世界文学全集41』での書き方も同じなので恐らく「どっかで見た覚えがあるんだけど、捜し出せん」ということでこういう記述になっとると見たね。

 いや、ソ連に粛正されてしまった時点で、ヤセンスキーは裏切りモンですから読んじゃダメ、みたいな指令が日本にも来て出版できなくなったんやろなあ(戦前『人間は皮膚を変える』の続刊がなかったのはそのためだった模様)、などと思いつつ、その出版予告に行き当たらんもんかとほじくり返しているうちに、どうも翻訳が発表されているような気が。
 いや、上演するのしないのという話がどうもあったらしいと。

 で、ついに発見。ブルノオ・ヤジエンスキイなどという表記を使っているのは何かの目くらましですか。<プロレタリア演劇>昭和5年6月の創刊号にまさしく佐々木孝丸の手で脚本化されたものが掲載されていた(2〜66頁)のであった。
 これは東京左翼劇場の第16回公演として上演が計画されていたのだが「六月三十日演出責任者及び装置者である同志×野、×山外数名が不意に引つぱられ「巴里を焚く」の上演プランの上に手違いが生じたこと、脚本の不備検閲その他を考慮して一時中止」したことが8月号に記されている。
 おそらく演劇史の研究成果を追っていけば。もっといろいろわかるはずだが、ここは手をゆるめておこう。いや、脚本版では舞台サイズに物語が切り詰められてるので、ほぼ普通のプロレタリア演劇と化していてSF的な面白さはほとんど消散してしまっているのである。
 ということで戦前期翻訳SFとしてヤセンスキーを取り上げるのはどうかという御意見もあろうかとは思うけど、集英社の世界文学全集とか、みんなゴンブロヴィッチだけ、もしくはオレーシャだけ読んでヤセンスキーをスルーしてるような気がするし、『バカカイ』が出たので、いまさら「ばかあかい」(4本のみ)のために買おうという人もなさそうなので、注意を喚起するため先を続ける。松本克平の『八月に乾杯』によれば、そんなSFみたいな劇、どうよ。と批判されたらしいしな。

 ところで。同年の<プロレタリア演劇>9月号の表4には「デスベリー左翼探偵小説全集」なるものの広告がのってますが、なんじゃそりゃ。「ブルの末梢神経的遊戯以外の何物でもない従来の探偵小説に嫌焉たる人は、本全集を読め!新興大衆の意欲にふさはしい探偵小説を求める人は、此の、世界最高の左翼探偵小説作家デスベリーの全集を読め!」
 聞いたことがないけど、出版されたの?

 佐々木孝丸先生の脚色で是非読みたいという方もおられると思うが、ここは堪えて江川訳でお読みいただきたい。舞台で見ればまた違ってくるのかもしれないが、劇化に際して高潔さと邪悪さ、あるいは愚かさの入り交じる夫々のキャラクターは極度に単純化され一面的な描かれ方になってるし、物語もまた舞台に乗るように矯正済み。大体、パリを焼く(実は、パリで焼くなんだけど)シーンすらないよ。
 注意しとれば、古本屋さんでまだ見つけられるような気がすんので、あんまし詳しくは紹介せんが、不況で解雇され、恋人には捨てられるわのピエール君、社会のドン底暮らしを経て、なんとか水道局の仕事にありつくが、ある時、昔なじみのルネ君が細菌研究所の清掃係をしているってんで細菌のコレクションを見せてもらう機会を得る。で、かっぱらって来ちゃうんですな、ペスト菌。世の中を呪ってやるってことで、そいつを水道にぶち込んじゃう。
 そいでもって、パリは無茶苦茶に。すぐさまペスト封じ込め作戦が敢行され、外界との交通は完全遮断。毎日毎日バタバタと人死が出る中で、アジア人のコミュニティ、ユダヤ人のコミュニティ、資本家グループ、亡命ロシア人グループ等々が様々な思惑を巡らし、相争ったあげく全滅。あ、ほとんど書いてもた。いや、面白いのはディティールなんだから気にしない気にしない。

 こうなったらストーリーラインは最後まで。

 無人と化したはずのパリに、新たなるグループが出現。彼らは、相変わらずペスト禍が続いていると見せかけ、封鎖が継続されるようにしむける。そしてヨーロッパに戦火が訪れた時、変貌を遂げたパリが、その幻想的な姿を現わすのであった。

 とゆーことで100〜300円ぐらいで見かけた際には、是非。第一部が多少辛いかもしれんが、それなら最後の細菌投げ込みだけ読んで、第二部に移ればええよ。

 じゃなくて、煽りまくって古書価高騰→再刊暴落を仕組み、世界を混乱のただ中に叩き込み、それに乗じて革命をってか。いや、あっというまに粛正されるというオチとみたね。

大雑把な邦訳リスト

黒田辰男 『人間は皮膚を変える』 1937.8・白揚社
江川卓,仲谷鴻介 『無関心な人々の共謀 上』 1956.11.20・青木書店
江川卓,仲谷鴻介 『無関心な人々の共謀 下』 1956.12.25・青木書店
黒田辰男 『人間は皮膚を変える 上』 1957.1.25・青木書店
黒田辰男 『人間は皮膚を変える 中』 1957.2.15・青木書店
※青木書店のものは中絶したヤセンスキー選集。『人間は・・・』の上下とも現物に4巻とあるが、本来は4〜6が『人間は・・・』で3巻に『パリを焼く』を入れる予定であったと思しい。
工藤幸雄 「主犯」『現代ソヴェト文学18人集(1)』 1967.8.30・新潮社
工藤幸雄 「鼻」『現代ソヴェト文学18人集(1)』 1967.8.30・新潮社
江川卓 『パリを焼く』『世界文学全集31』 1967.1.28・集英社
※刷表記なしに増刷していたらしく1968.6.30発行ってのが手元にある。
江川卓,工藤幸雄 『無関心な人々の共謀』 1974.12.30・河出書房新社
工藤幸雄 「鼻」『世界文学全集41』 1979.7.1・学習研究社
工藤幸雄 「主犯」『世界文学全集41』 1979.7.1・学習研究社
江川卓 『パリを焼く』『世界文学全集41』 1979.7.1・学習研究社

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