内 輪   第184回

大野万紀


 大野万紀、水鏡子、岡本俊弥、それにTHATTA ONLINEには書いていないけれど米村秀雄、というのは神戸大SF研の創設メンバーなのですが、先頃その神戸大SF研の33周年記念の会があって、参加して来ました。現役生からぼくらの世代まで、50人以上が集まり、なかなかの盛会でした。
 今でも毎年追いコンなんかに顔を出している米村や水鏡子と違い、ぼくが知っているのはせいぜい84年生くらいまでで、それ以後の人は全然わからない。どうしても年寄り連中で話がはずんでしまうんだが、30年以上たっても、そしてSF研の内実もずいぶん変わっているのに、全体の雰囲気って変わらない。同窓会の総会みたいな感じで、あんまり若い人とは話せなかったのだけど、およその学年ごとにグループがあって、そのグループをつなぐ人たちがいて、全体としてはやっぱり連続している雰囲気がある。SF研内部での結婚が二組あったとも聞かされる。
 懐かしい顔にも久々に会えて、なかなか楽しい会でした。
 米村は年寄り連中と二次会に消えていったが、ありゃ徹夜だな。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ストリンガーの沈黙』 林譲治 ハヤカワSFシリーズJコレクション
 『ウロボロスの波動』の続編だが、単独の長編として読める。ただし、物語の核には、宇宙に適応したAADDの人間たちの作るプロジェクトチーム型の組織と、硬直した地球のピラミッド型組織との対立があり、前作を読んでおいた方がAADDの社会をよりよく理解することができるだろう。地球の社会はある意味戯画化されており、それがハードSFの設定に人間的な面白味を与えている。ストリンガーと名付けられた未知の知的生命とのファーストコンタクトがメインテーマだが、同じ人類であるAADDと地球との対立、AADDの構築した人工降着円盤での異常の発生がそれにからんでくる。特に人工降着円盤での異常とその調査・対応の物語には、主観と客観の区別のない非実存的知性という存在がネットワーク内に現れるという興味深いアイデアが展開されていて、とても面白く読めた。

『どんがらがん』 アヴラム・デイヴィッドスン 河出書房新社
 異色作家デイヴィッドスンを偏愛するという編者による、日本独自の短編集。前半には短めの作品、後半には長めの作品を集め、いずれも〈変な小説〉というのがぴったりくる、確かに奇妙な味の小説である。奇想コレクションというのには相応しいと思う。で、傑作かと言われると、これが微妙。悪くはないのだが、それで? といいたくなるのは昔から変わっていないなあ。古いSFファンが、昔読んだ時はぴんとこなかったが、今は良さがわかるというようなことをいっているのだが、確かに「どんがらがん」などはぼく自身もそう思う。これなどは「それで?」と言わなくても良い、言っても意味のない小説だとわかる。同様に、普通にファンタジーとして読める味わい深い物語や、楽しい小品もあるのだが(「ナイルの水源」、「そして赤い薔薇一輪を忘れずに」などはお気に入りだ)、とはいえ「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」などをどう評価すればいいのやら。印象深いことは確かだし(変な話だから)、解釈も色々とできるのだが、ぼくには今でもあんまりぴんと来ない。ラファティの方がずっと好きだ。

『夜市』 恒川光太郎 角川書店
 日本ホラー小説大賞受賞作の表題作と、書き下ろし中編の2作を収録した短編集。なるほど、日本的ノスタルジーというか、「千と千尋」というか、日常の裏側に異界があって、そこに迷い込むという話。「夜市」は、まんま諸星大二郎だが、妖怪変化たちの市に入り込んだ男女よりも、後半の、もう一つの異界である日常に迷い込んでしまった年老いた少年の物語が面白く、これはホラーというより、SF的なシチュエーションだと思った。書き下ろしの「風の古道」もいい。これこそ日常世界に並列的に存在している「古道」とそこに棲むものたちの話で、ノスタルジーと同時に、SF的な広がりを感じた。

『ハイブリッド −新種−』 ロバート・J・ソウヤー ハヤカワ文庫
 ネアンデルタール三部作というか実際は一つの長編なのだが、その完結編。何か、あんまり評判はよろしくないようだけど、ぼくは結構面白く読んだ。でも、何で評判よろしくないかというと、そのあからさまな政治臭(水鏡子なら「説教臭い」というところだ)。それもネアンデルタール世界を疑似ユートピアとして描き(もちろん我々から見てとんでもないと思われる面も描いてはいるのだが、それはおまけ)、人類の、特に攻撃的な男性に対する批判をしているところ。そんな批判は何もネアンデルタール世界をもち出さなくても普通に可能でしょう。9.11ショックがあからさまに現れていて、物語としてのバランスを崩している。それと、恋愛ものとしての側面があまりこっちの琴線に触れてこない。本書ではヒロインのグリクシン(ホモ・サピエンス)的な恋愛観が彼らの世界の常識とぶつかるところが描かれていて、それはちょっと面白いのだけれど、えっそんな収拾のつけ方でいいの?と思ってしまう。それでいいのなら、じゃあ、まあ、勝手にすれば。でも、宗教は磁場のせいだとか、そういうアイデアはけっこういけている。でもこれも本編にからみそうで、本質的にはからまない。要は、こちらの興味とずれてしまった小説なのだなあということである。

『ヴィーナス・プラスX』 シオドア・スタージョン 国書刊行会
 今頃読み終えた。ジェンダー/ユートピアSFとあるが、まさにその通り。ソウヤーのネアンデルタールものとテーマは似ているが、こちらが書かれたのは1960年。核による人類滅亡がとてもリアルだったころの話で、一方ソウヤーはテロによる理不尽な暴力が身近なリアルとなった現代が背景にある。どちらも家父長的男性支配の暴力性を批判し、それを支える宗教を批判しているのだが、面白いのは圧倒的に40年前の本書の方だ。いきなり未知の世界に飛び込んだ主人公の心理が良く描かれていて、その反応もおおむね納得できるものとなっている。共感できるかどうかはともかく、60年代の進歩的な男性ならこんな感じだろうと思わせるのだ。レダムの社会があらゆるユートピアものと同じく、いかにも作り物めいて見えるのは仕方がないところだが、そこでの議論も、謎解きやストーリーの展開も、わかりやすくて良い。ただ、結末のどんでん返しはいいのだけれど、やっぱりこの社会の成り立ちには無理があるように思えるなあ。しかし、むしろ本編に挿入される60年代アメリカの日常的な夫婦のパートがとても面白い。本編のストーリーとは無関係なのだが、テーマの補完となっていて、いかにもアメリカだ。スタージョンはやっぱり良いなあ。


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