岡本家記録とは別の話(京都SFフェスティバルの歴史篇)

 岡本家記録(Web版)(読書日記)もご参照ください。8月は 『4000億の星の群れ』、『ハイドゥナン』、『スラムオンライン』、『老ヴォールの惑星』などを収録。一部blog化もされております(あまり意味ないけど)。

 ということで、ここでは上記に書かれていない記録を書くことになります。本編は読書日記なので、それ以外の雑記関係をこちらにまわしてみることにしました。

京都SFフェスティバル

  歴史のミッシングリンクはどこにでもあるもので、以前は(今は亡き)ファンジン大賞の歴代受賞者リストが存在しないということで作ってみたこともあります。ということだかなんだか、今年24回を迎える由緒正しい京都SFフェスティバルも、なぜか全プログラムを記載したリストがありません。たとえば、京フェスの公式サイトを見ても、1996年までしか記録が残っていません。1〜14回分が不明なわけですね。Web以前でネットは存在せず、Thattaな人たちの日記を調べても、出演者やプログラムの詳細など書かれていません。またSFマガジンにSF大会以外の地方コンベンションレポートが載るようになったのは、比較的最近のことなので、96年以前では記録自体が少ないのです。もともとカジュアルなイベントですからね。

 リストはここです

 まだ不明箇所は残っていて、たとえば1992年第11回の出演者が不明。当日のプログラムはあるものの、パネリストが誰かは書かれていないのです。京フェスの場合は、出演者が間際に決定するパターンが多いため、当日まで決まらなかったのかもしれません。本来そのあたりの記録修正はちゃんと行うべきで、たとえば、2004年のパネルで司会者が三村美衣から柏崎玲央奈変わっていたことくらいは、公式サイトで最低限報告(注釈を入れるなど)しておくべきでしょう。そういう意味では、情報ソースが当日配布プログラムの本リストに誤りが残る可能性があります。お気づきの方はお知らせください。

 さて、歴史の闇に埋もれたミッシングリンク、初期京フェスは、今よりもずっとファンに近い催しだったことが分かります。82年の場合、大原まり子(受賞デビュー2年目)、安田均(独立前)、堀晃(SF大賞受賞後2年目)、菅浩江(「SF宝石」デビュー1年目)、笠井潔(単行本デビュー3年目)と豪華メンバーながら当時はファンとプロとの間か、せいぜい新人作家という若手メンバーです。京フェスの歴史上1回だけのアフターレポート(第2回のレポートが87年に出た)によると参加者143名(ゲスト21名は多いけど)とあり、ほぼ現在の京フェスの形が出来ていたことがわかります。以降、10回前後まではKSFA(Thatta)との関係も深く、出演者の多くは関係者です。1984年、99年はKSFA10周年パーティ25周年パーティを併催しました。そういえば、去年30周年は何もしなかったですね。忘れていました(忘れられたというべきか)。21世紀以降は、比較的名のある(実績のある)人たちをゲストに招いて、仲間的な雰囲気は薄れてきましたが本来24年も続いたコンベンションの性格が変わるのは当然といえば当然のこと。

 開催時期で見ると、

 10月上旬開催: 1回(2005年のみ)
 10月下旬開催: 0回
 11月上旬開催:10回
 11月下旬開催:10回
 12月上旬開催: 3回

 なので、今回はちょっと異例。晩秋の京フェスといういつものイメージが、ちょっと夏を残した初秋の雰囲気に変わって新鮮かもしれません。 

 まあしかし、もっとも伝説的なのは、第1回から今まで、変わることなく暗躍する小浜徹也や大森望(英保未来)らでしょう。彼らは、24回中21回利用された伝説の合宿所、旅館さわやの地縛霊なのかもしれません。

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