みだれめも 第159回

水鏡子

 


 『ばいばい、アース』を100ページほど読んだところで、あわてて『SFが読みたい!2002年版』を開いてみる。当該年のこの本の評価はいったいどうなっていたのか。
 この本を2001年の収穫にあげた投票者はいするぎりょうこただ一人。他は言及さえない。
 これはいかんですね。
 黙殺できるレベルの本ではない。たいしたことはないだろう、それにファンタジイだし、と、大半の投票者が読むこと自体を放棄したとしか思えない。
 すんません。そのうちのひとりがぼくです。「読者を拒否しているとしか思えないタイトルとボリュウム、そして価格」という鏡明の指摘はまさにそのとおりで、どんくさそうなタイトルに、枝葉の整理の技術もなく退屈極まりない話をだらだら綴っているにちがいない、とはなっから決めつけてしまっていた。
 そんなぶあつい本を好き好んで読むのが鏡明という人なので、この本を、「本の雑誌」で2001年実質ベスト1に選んでいたのも、また、くせのある選択をしている、と思った不明を恥じたい。鏡さんがこの年『ばいばい、アース』と並べて選んでいたのが『スカーレット・ウィザード』。追いつくまでに2年かかった勘定になる。
 『ばいばい、アース』には、作者自身が書きながら、書いてるものを見切れず途方にくれている気配がある。自分の内なる地層から露出した岩塊が、掘っても掘っても底が見えず、掘るなかで自分自身も成長を続け、掘りあがってみると、とんでもなくどでかい大岩盤だったといった印象だ。満喫できる傑作を読みたければ『マルドゥック・スクランブル』をお勧めする。けれども冲方丁を読みたければ、なにより『ばいばい、アース』をお勧めしたい。
 『マルドゥック・スクランブル』は傑作である。けれども、この傑作を冲方丁は完全に自分の手のうちに入れている。この作者はこれからも、このレベルの傑作を、二つ三つと生み出せるにちがいない。(若干の危惧はある。その点については後述する)
 『ばいばい、アース』にそんな完成度は見られない。と同時に『ばいばい、アース』を経ずに冲方丁が『マルドゥック・スクランブル』を手のうちに入れることができたとは思えない。『ばいばい、アース』は、揺れて動いて自分の足場を掘り崩し、掘り固めた、この作者にしておそらく一度しか書けない唯一無二の作品である。

 とりあえず手に入る冲方丁をまとめて読んだ。
 『黒い季節』(1996)は、第1回スニーカー大賞受賞作。皮肉なことに題材がいちばんYAらしくない。諸作のうち唯一女の子がメインを張れない。裏社会をさらに闇から君臨するヤクザ一家の因果が巡る因縁話に『うしおととら』を連想させる宗教組織(の内部紛争)、もののけ話を掛け合わせた、混乱と豊穣の物語で、この作者の今の作風できちんと書こうとしたら、5000枚は必要とするのでないか。そんな中身を360ページに押しこめるのがどだい無理なはなしで、それでも短いわりにはシノプシスを読まされる印象はなく、書ききれない欠落が熱気となって伝わってくる。看過しがたい未熟品・失敗作。
 その後の作品を支配する冲方丁の基調はすでにここに現れている。
 <生>と<暴力>。生きるためには暴力性もまた必要であるといった生き方にかかる弁解的主張ではない。
 人が自由に<生きる>ということと<暴力性>はこの人のなかではほとんど同義語の感覚に近い。
 けれども同時に人が<生きる>ということは人との関わりのなかで生きることだという認識もまたこの作者のなかにあり、人と関わり生きるなかで暴力性は否定される局面を迎える。その矛盾のなかで切実に求められるものとして<倫理>が浮上してくる。それが冲方丁の小説だ。そのむきだしともいえる暴力性は、YAレーベルの表現、描写の基本枠を往々に逸脱する。一方<倫理>をめぐるこだわりは、その作風を基本的にYA王道のビルディングス・ロマンへと導いていく。
 いま『うしおととら』をあげたけれども、この人の作品にはコミックの印象が重ねあわされることが多い。<カオスレギオン>のシリーズは、初期設定にどこまで氏の意向が反映されているかは別にして、『ベルセルク』ファミリー・コメディ版という誹りを免れることはできないし、『マルドゥック・スクランブル』のカジノ・シーンのロジックと臨場感は福本伸二の諸作を思い起こさせた。いずれも暴力性と倫理性を兼ね備えた作品ばかりだ。

 あるいは『マルドゥック・スクランブル』に印象を重ねたSF作家はワイドスクリーン・バロックとしてではないアルフレッド・ベスターだ。彼の『分解された男』である。ここにも暴力性は共通する。シェルが記憶のなかのベン・ライクと重なった。
 『ばいばい、アース』(2001)は長大な物語ではない。
 興隆を誇る都市に、自分がだれかわからない、アイデンティテイを捜し求める一人の少女剣士が現れる。彼女を軸に世界を構成するありとあらゆる集団個人が蠢動し、自らの物語を語りだし、世界の実相があらわになり、世界は滅び、新生する。
 細部の工夫は積まれるけれども、物語としてはある意味あたりまえの、よくある話だ。SFやファンタジイにとってひとつの祖型といっていいタイプの話だ。
 せいぜい五、六百枚あれば、そこそこじっくり書きこんだそれなりに安定感のある佳品が生まれるタイプの話だ。
 それが中身が薄くなるどころかむしろ濃い2800枚の話になるところが驚異だ。
 『マルドゥック・スクランブル』にもいえることだが、冲方丁はとにかく長く足の使える作家だ。他の作家ならラストスパート、クライマックスの五〇頁が、この作家にかかると三百頁の長さになる。テンションを落とさずに、読むほうが疲労困憊する長さで続く。とくにこの『ばいばい、アース』はひどい。たいていの作家はひとつの物語はひとりの主人公の物語であるのに、この本は、ひとつの話の中に主要登場人物10人分くらいのそれぞれを主人公にした物語を詰め込んだ。並列処理をしているので、単調に流れるところもあり、こちらのほうのテンションが途切れることも往々にあった。ちなみに技術的に磨きがかかった『マルドゥック・スクランブル』になるとたったひとりの主人公に焦点が絞りこまれて、それでもやっぱり3冊目の半分近くの分量が、いわゆるクライマックス部分にあたる。

 Jコレクション再開第1弾、田中啓文『忘却の船に流れは光』は、異界の宗教都市を舞台に一人の修道僧が他の階層の異形人と交わり、世界の実相に踏み込んでいく物語。駄洒落もスカトロもちゃんとあります。若干の説明不足、描写不足はあるけれど、猥雑過剰な描写が全篇を支配し、そんなに気になることもない。細部の工夫は積まれるけれども、物語としてはある意味あたりまえの、よくある話だ。SFやファンタジイにとってひとつの祖型といっていいタイプの話だ。 五、六百枚費やして、じっくり書きこんだそれなりに安定感のある佳品だ。
 いい小説であるのだけれど、不幸は、その直前に『ばいばい、アース』を読んでしまったことである。ぼくからみてこの2つは同じタイプの作品だ。
 そして『ばいばい、アース』のようには、この小説に作家にとって唯一無二という印象を受け取ることができなかった。それがこの作品へのいちばん大きな減点材料となった。
 うーむ。ほとんど言いがかりだわな。

 『ばいばい、アース』の苦闘を通じて、冲方丁はこだわりの答え、自分のポジショニングを固めたように見える。
 『ばいばい、アース』がポジショニングを探し求めた作品であったとすれば、『微睡みのセフィロト』は求め得た結果を示す作品であり、『マルドゥック・スクランブル』は求めた得たところを検証した作品であると捉えたい。あるいは元の『マルドゥック・スクランブル』は、『ばいばい、アース』の相似形であったのかもしれないが、今活字になった作品は、今の冲方丁を反映し、内なる結論を抱えて、ぶれや迷いが見当たらない。
 『微睡みのセフィロト』(2002年)のヒロイン、ラファエルは、『マルドゥック・スクランブル』のバロットの到達した地点に静かに佇む。端正でコンパクトな物語は、正義の側に身をおいたボイルド型キャラ、パット/読者の視線越しに、ラファエルの姿を見つづける、大小大量のアイデアをちりばめたローラーコースター・アクションだ。ラファエルの立地点が動かないぶん世界は静的で美しい。書割めいた大仰が形式美に昇華されている。
 これだけ暴力性が発揮されていながら、物語世界が端正で、静謐が漂っているという点は、『マルドゥック・スクランブル』(2003年)にも共通する。そしてそれこそ『黒い季節』『ばいばい、アース』と決定的に分かたれるところである。

 『黒い季節』『ばいばい、アース』において作者は物語のなかであがきつづける。内包する熱気が突破口を見出せずにとぐろをまく。一方『微睡みのセフィロト』『マルドゥック・スクランブル』には物語りを見渡す作者の外からの目線がある。神の目線だ。技術的に完成されていて、とにかくかっこいい。
 けれども思い定めたかっこよさには、外には正義の名のもとの暴力性、うちには自己の心情・情動を切り捨てる自縛性が、常にまとわりつく。自己矛盾のなかでウフコックが辿り着いたポジションは、揺れ動く気分のなかでの暫定的な地点であるはずなのに、バロットの物語はあらかじめ結論づけられた地点への迷いのない道筋だ。
 『マルドゥック・スクランブル』の細部とプロセスは発見に満ちている。おそらくこのプロセスの書き込みが、ゲームその他の作業のなかで磨きぬかれた現場感覚の作家感性への反映であり、プロセスのなかでの発見の感動が、この物語をこうも魅力的にし、こうも長ったらしくする原因かと思う。けれども、その一方で『ばいばい、アース』の最大の魅力であった、自己のポジショニングの発見の感動がこの物語からは見受けられない。ビルディングス・ロマンとしては致命的かもしれない。
 最初にちょっと書いたように、冲方丁はこのレベルの傑作をしばらくコンスタントに提供してくれるにちがいない。期待は大きい。けれども同時に答えを出した作家が、トンネルを抜け出た昂揚感と自信に満ちた時期を経て、問いの不在に苦しむことになるケースというのも、過去にいくつも見てきた。だいたいぼくの気に入った作家の3割くらいはそういう時期がある。期待と不安を抱えてしばらくこの作者を追いかけたい。

 『カオスレギオン』は3冊出ている。プロローグ『招魔六陣篇』とエピローグ『聖戦魔軍篇』を出した後で、間を埋めていくというのはやや気がそがれるが、3冊目『聖双去来篇』の書き下ろしは一番の出来。現在の作者の好調さを実証している。もともとがアクション・ゲームのノベライゼーションということで、主眼が視覚的効果や言霊詠唱に偏り、世界律などはそう目新しさはない。お子さまモードがややつらい。
 同じくゲームのノベライゼーションであるが、カードボード・ゲーム「カルドセプト」をベースにした『ストーム・ブリング・ワールド1・2』はゲーム・ルールを見事に魔法の体系に移し変えて世界にメリハリを与えた秀作。表題からムアコックを予想していたけど、関係なかった。『カオスレギオン』よりキャラに無理がない。


THATTA 184号へ戻る

トップページへ戻る