続・サンタロガ・バリア  (第17回)
津田文夫

 出張の合間を縫ってサントリーホールで日フィル定期。西村朗の交響曲3番(初演)とシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」。100年の間のオーケストレーションの違いがわかる企画なのかな。プログラム解説をしっかり読んだあとに、ステージでは作曲者本人が自曲解説。ほとんどプログラムと同じ話をしていた。現代音楽の人ってどうしてこんなに緊張しっぱなしの曲を書くのかなあ。立派だけど。「ペレアスとメリザンド」は確かにシェーンベルクはR・シュトラウスの筋だとわかる演奏だった。
 中古CD屋でセシル・テイラーの「アキサキラ」を発見。懐かしいなあ、と買って帰ったのはいいが、なんか面白くない。まあ、キースの「ケルン・コンサート」だって大して面白くはないのだから、そんなものか。

 水鏡子がわざわざ嫌いだというからには何かあるんだろうと思い、舞城王太郎『阿修羅ガール』を読む。説教臭くて抹香臭い。アイデアの勝利、なのか? それにしてもネタの安さが尋常でない。京極堂なら洟も引っかけない、誤って読もうものなら眼が腐る。これは生臭坊主の地獄巡りの説教を女子中学生の口調(とされているもの)で語りなおしただけ、ただそれだけのものに過ぎない。「阿修羅」で「ガール」だもんな。確信犯でしょ。「アイコ」の本名は「愛子」じゃなくて孫悟空っていうんだぜ、ホントだよ。最初のところで、顔射してきた男の子を蹴倒しちゃう暴れん坊(?)が、地獄巡りして最後には悟りを開いちゃうでしょ。もともと仏教説話なんだから説教臭くて抹香臭いというのはトートロジイ。水鏡子がこんなものを嫌いなのは当然で、もしも好きだなんて言明していたら、天地がひっくり返って水鏡子の人格が変わったかと疑われちゃうよ。三島賞の委員は青少年への影響力を期待して授賞したんだろうか。小説を書くということは魂のかけらを売るってことだ、とかハインラインだかゼラズニイだかが云っていたような気がするが、このハナシには舞城王太郎の魂のカケラも感じられない。

 読まなきゃと思う新刊はいっぱいあるんだが、なぜか筒井康隆の文庫化された『エンガッツィオ司令塔』『魚籃観音記』ついでに読みそびれていた『敵』を読む。『邪眼鳥』以来か。どっちも解説ではポルノ/エロ・グロをことあげしているが、さすがにズレが生じてるでしょ、今時。でも普通の不条理小説が堂に入っていて読ませる。『観音記』の方がアタリが多いか。『敵』はスゴいよ。読み始めてしばらくしてから、何かおかしいと思い、はじめて目次を見て唖然とする。実験小説がミエを切っててどうするんだと思いつついちいち決まるミエに恐れ入る。いろいろレッテルの貼れそうな作品だが、ひとつ付けるなら博物誌小説かな、30年後には役に立つだろうな。100年たったら珍重されるかも、って忘れられているか。これって何かの賞をもらっているんだっけ。

 ああ、そうだ、新幹線のなかでついに『二人がここにいる不思議』を読み終わったのだった。足かけ3年も握っていたわけだが、伊藤典夫版ブラッドベリ節を堪能したって感じがする。数編読んでは、伊藤さんの解説を読み、バッグに戻す。半年後に取り出すときには、読み終わった短編たちをちょこっと読み返してから次の短編を読む。おかげで目次を眺めればどの話もその感触を思い起こすことができる。これはなかなか贅沢な読書だった。

 F&SF6月号がマルツバーグ特集だったのでエッセイを読もうとしたところ、難読単語頻出で息子の電子辞書のお世話になる(でもabscondantなんていう単語はでてこない、ラテン語らしい)。内容はワシももうトシだから昔話をしておこうというもの。死者の声が近しくなったなあというイントロからスコット・メレディス版権代理店時代の話になり、メレディスへのかなりひねくれた追悼文と代理店勤務員マルツバーグの半生を回想したものになっている。マルツバーグによれば、メレディスはフューチュリアン、ファースト・ファンダムの主要メンバーだったが、版権代理店を本格化するにつれSFから離れ、47年という長い間に版権代理店経営者として一時代を築き、1993年に亡くなった後は代理店の社員が顧客と一緒に逃げてしまいメレディスの代理店は雲散霧消したという。エピソードの一例を挙げると、マルツバーグがメレディス名でアシモフに出す手紙の文案を見せたところ、メレディスいわく「アシモフ様なんて書かなくたっていいんだよ、アイザックでいいんだ、アイザックでな。俺はなァ、ヤツとは同じ時に同じベッドでセックスしたこともあるんだぜ! いや、もちろんヤツと二人って意味じゃないぞ・・・」、40代以上の英米SF/ミステリマニアは楽しめること請け合い。

 大塚英志は角川文庫に収められた評論・エッセイが一番面白いようだ。『少女たちの「かわいい」天皇』も内容の重なる文章が多いが、右翼/左翼と保守/革新の図式が捩れ、イデオロギーが隠蔽/無化されていった同時代をちゃんと捕らえている。残念ながら最近の文章はドグマティックな方向に向かっていて読むのがつらい。


THATTA 183号へ戻る

トップページへ戻る