大野万紀「シミルボン」掲載記事 「ブックレビュー」

意識の問題に科学から迫るって、ほとんどSFの世界だ!

『脳の意識機械の意識 脳神経科学の挑戦』
渡辺正峰


 「我思う、ゆえに我あり」の時代から、意識とは何かという問題は哲学的にすっきりした答えの出ない大問題だった。とはいえ、哲学者ではないぼくらには、意識とは何かなんて、普段それこそあんまり「意識する」ことのない問題だった。
 また、ある時期「脳科学」というのがブームになって、何だかすごく怪しげな本が山ほど出たせいで、この手の本はずっと敬遠していたこともある。
 でも、現代SFの最大のテーマのひとつって、まさに本書のタイトルどおりの「脳の意識」「機械の意識」じゃないですか。グレッグ・イーガンしかり、ピーター・ワッツしかり、神林長平しかり、瀬名秀明しかり、いや、このリストにはきりがない。それをちゃんと理解しようと思うと、やっぱりしっかりした知識が必要となる。SF読みにとっても、もはや避けては通れない問題なのだ。
 そんなわけで、科学から迫る意識の問題が、今はどこまで来ているのかと、久しぶりに手に取ったのが本書だったが、これが大正解だった。

 意識というものを、科学的・客観的に扱える形で再定義し、それをひとつずつきちんとした手続きの実験で確認していく。本書の大部分は、そんな脳と意識の問題についての研究史や、実験の具体的な内容についての、一般読者向けにていねいに書かれた入門書となっている。結論ありきではなく、議論の経緯が科学的にはっきりと説明されていて、とても納得のいくものとなっているのだ。一部にはやや難解なところもあるが、それはわかりやすく書こうとして、かえってわかりにくくなったということかも知れない。
 だから本書は科学的事実と思弁とをきちんと分けて書いてある、まったく怪しげなところのない科学解説書なのだが、著者自身が「こんなイケイケな本にするつもりはなかった」と書いているくらいで、大変に面白 く、刺激的な本となっている。最後の方なんかはもう完全にSFそのものである。「ひょっとして、これで、いけてしまうんじゃないの?」とその気になってしまった、とあるとおり、著者ばかりでなく読者もその気になってしまう。もちろん、それはあくまでもひとつの仮説であり、方向性が論じられているだけなのだが、うん、現代SFの方向性もおおむね間違ってはいないみたいだな、と思ってしまうのだ。それがつまり「人工的に意識は作りだせるのか?」問題であり、「意識の機械への移植」問題である。著者は、思いっきり肯定的なのだ(もちろんここでいう「機械」は今のコンピューターの延長線上にあるものとは限らない)。

 その話の前に、自分が見ていると思っている世界は実は脳が作り出した仮想現実だ、とか、自由意志というのは基本的に錯覚であって、後付けで編集されたものだ、とかあっさりと書かれているのだが、実験結果で明示されていることでもあり、よく聞く話でもあるので、まあそうなんだろうなと思える。
 とはいえ、感覚刺激が意識にフィードバックされるところは後付けであって、自由意志じゃないといわれても別に平気だが、あれこれと時間をかけて思索し判断するような事象については、全体的にそれを統制しているのはやはり自分の「自由意志」だといいたくなる。そんな主観的な「意識」があることは明らかなので、それをどう客観的に検証するのかというのが問題だ。それが「意識のハード・プロブレム」である。

 本書は、そんな「ハード・プロブレム」にも、科学的方法論で立ち向かっているところがすごく面白い。つまり実験手法を色々と考察しているのだ。そこからさらに、SFでもいつも問題になる、仮に機械への意識のコピーができたとして、自意識の一貫性・一意性はどうなるのかという問題もある。ポイントとなるのは夢を見ているときの意識や、左右の脳が分離された分離脳患者の意識である。ついにはすごくSF的な手法の思考実験も出てくる。
 意識というものは単なる情報ではない、というのも納得がいく。情報はそれを解釈するアルゴリズムがあって初めて意味をもつ。その動的なアルゴリズム(生成モデル)こそが意識に関連するというのは、ぼく自身 常々その通りだと思っていたことなので、とても興味深かった。

 ところで著者は、意識のコピーができるとしても、記憶のコピーの方が実際問題としては想像以上に困難なことを述べている。これもなるほどと思われる。その解決策として提示しているアイデアがあるのだが、SF者としていわせてもらえば、これってグレッグ・イーガンの短篇「ぼくになることを」『祈りの海』収録)そのものじゃないですか。ここからさらに先へ進めるのは、もはやSFの仕事のような気がする。

(18年1月)


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