大野万紀「シミルボン」掲載記事 「ブックレビュー」

ティプトリーは楽しく読むべき作家だ。そんなの第一短篇集

『故郷から10000光年』
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア


本書は、ジェームズ・ティプトリー・ジュニアがまだ〈男性〉作家だったころの作品集です。今やSF界の巨匠として評価されるティプトリーですが、デビュー当時はユーモラスで楽しい、SFらしいアイデアたっぷりの作品を書く作家として注目されました。そんなティプトリーの一面が色濃く残る短篇集です。以下のレビューは1991年に初版が翻訳刊行されたときのものを、一部手直ししたものです。

 1973年に出版されたティプトリーの第一短篇集である。ティプトリーがその経歴の意外さや華麗さによってではなく、作品そのもののすばらしさによって、それのみで評価されていた時代の短篇集である。

 評者にとっても、本書は特別に思い入れの深い一冊だ。学生のころ、それこそむさぼるように読み、才気あふれる過激なユーモア、きらめくような文体、絶望的な、どうしようもない悲痛さ、そういったものを味わい、優れたSFだけが現すことのできる、突き放した感覚にしみじみと酔いしれたものだった。
 作者が実は女性であったこと、非常に興味深い人生をおくった人間であること――いま、そんなティプトリーの実像を知った後の目で見ると、本書の作品もまた違った印象を与えることは確かである。過去は帰ってこない。いや、すばらしさがトーン・ダウンしたというわけではないのだ。むしろ、以前は軽く見ていた話が、いま読むととても重い、おそろしく深い意味をもつ話だとわかったりする。でも、あのころの、謎めいた、きらきらした〈彼〉の魅力、ユカタン半島のコテージで静かにタバコをくゆらす、渋い男のロマンティシズム、それはやや気恥ずかしい思い出の中のものとなってしまった。
 小説とその作者は別物である。それはまあ当然だが、ことティプトリーに関しては、そういってすませてしまうには、作者に対する思い入れが強すぎる。作者の実像が明らかになる前から、作品から想像されたある作者像というものが一人歩きしていたのだ。ティプトリーの作品を読む人は、こんな話を書くのは一体どんな人間なんだろうと考えずにはおれないようだ。それだけ、作品の衝撃が大きいということだろう。

 本書の冒頭にある「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」は、わが国で初めて訳されたティプトリーの作品である。本書と同じ、伊藤典夫氏の訳で、SFマガジン74年3月号にひっそりと紹介された。何のキャンペーンもなかった。ごくさりげない顔見せだった。だがこの作品と、その二ヶ月後に紹介され、同じく本書に収録された「苦痛志向」の二編で、多くのファンがティプトリーに注目し、強烈な印象を与えられたのである。内容についてはふれない。二編とも、何度読み返しても味わい深い傑作である。
 「愛しのママよ帰れ」「ピューパは何でも知っている」そして「セールスマンの誕生」はティプトリーの最初期の作品。いずれもドタバタSFである。ティプトリーは知的なおふざけ、馬鹿騒ぎが大好きなのだ。こういうものは純粋に楽しみたい。でもいまとなっては、作品の背後にあるものが、いやでも見えてきてしまう。ああ、無垢には戻れない。ドタバタといえば、本書では「ドアたちがあいさつする男」「スイミング・プールが干上がるころ待ってるぜ」なども(傾向は違うが)楽しいコメディである。訳者の解説にもあるように、評者も楽しい作家としてのティプトリーにもっと目を向けるべきだと思う。
 「われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ」は愉快ですてきな宇宙SF。ここにはSFファンとしてのティプトリーが現れている。そして巻末の「ビームしておくれ、ふるさとへ」。これは本当に悲痛な、心にしみる傑作だ。ぜひじっくりと味わってほしい。

 最後に、『老いたる霊長類の星への賛歌』の序文でアーシュラ・K・ル・グィンが書いた言葉をここに引用 しよう。

――ここにはこの上なく強烈で悲しくおもしろく、とても 美しい物語がおさめられています。
――そして、
――ここには 本物の物語がおさめられています。

(16年9月)


TOPへ戻る

ARCHIVESへ戻る

「ブックレビュー」次へ