グレゴリイ・ベンフォード/冬川亘訳
 『輝く永遠への航海』 解説

 大野万紀

 ハヤカワ文庫SF
 平成9年6月30日発行
 (株)早川書房
SAILING BRIGHT ETERNITY by Gregory Benford (1995)
ISBN4-15-011194-4 C0197(上)
ISBN4-15-011195-2 C0197(下)


 本書『輝く永遠への航海』はグレゴリイ・ベンフォードの一九九五年の長編 Sailing Bright Eternity の全訳である。九五年にハヤカワ文庫SFで出版された『荒れ狂う深淵』Furious Gulf (1994)の直接の続編にあたるので、前作を未読の方はまずそちらを先に読むことをおすすめする。実際のところ、前作と本書とは二冊あわせてはじめて一つの長編として完成する作品となっているのだ。さらにいえば、本書は『大いなる天上の河』Great Sky River (1987) に始まり、『光の潮流』Tides of Light(1989)、『荒れ狂う深淵』と続いてきた、ビショップ族のキリーンとトビーを主人公とする〈銀河中心〉四部作の完結編、最終巻である。と同時に、本書は『夜の大海の中で』In the Ocean of Night (1977) と『星々の海をこえて』Across the Sea of Suns (1984) の、ナイジェルを主人公とする二巻をプロローグとし、有機生命と機械生命との黙示録的な戦いを描く長大なシリーズの完結編でもある。

 ややこしい? 確かに。そもそもこのシリーズは初めからきちんとした構想の元に書かれたというよりも、ベンフォードが繰り返し描くテーマを巡って、いつしか自己組織化されたシリーズという気がする。『夜の大海の中で』(この作品自体、それ以前に発表された四つの中編を長編化したものである)、『星々の海をこえて』の時点では、現在のような形になるとは考えられていなかったのではないだろうか。シリーズに整合性を与えるため、ベンフォードは『星々の海をこえて』の追補を書いたり(翻訳は『大いなる天上の河』に収録されている)、年表を作ったり(本書に含まれている)と、いろいろ努力しているのだ。

 だがまあ、そういうシリーズの整合性がどうとか、ストーリーや雰囲気の食い違いについてあれこれいうよりも、まずはシリーズ全体を貫くテーマの一貫性が重要だろう。それは「夢見る脊椎動物」と「電卓文明」が互いに相容れないものだとする視点であり、超越的な進化の果てにあるべき知性の探求であり、すさまじいエネルギーが渦巻く致命的な宇宙における人間たちの家族的なつながりの重要性であり、宇宙における人間の(あるいは有機体の)生きようとする荒々しい意志の力の讃歌である。
 この中で、われわれ日本のSFファンにとってなかなか理解しにくいのは、有機文明と機械文明が互いに決して相容れないものだとする視点だろう。実際、ビショップ族にしろ、クゥアートのような異星人にしろ、生身の体と機械が融合したサイボーグ的な存在である。決して単純素朴な〈ナチュラル〉ではないのだ。それがどうして機械から進化した文明と共存できないのだろうか。このシリーズでは銀河系全域で遙かな過去から未来まで、〈メカ〉と〈ナチュラル〉の絶滅戦争が戦われているのである。いや、すでに最初から答えは出ているのだ。機械知性と有機知性が共存できないのは、機械には〈本質〉がなく、〈夢〉や〈笑い〉がないから、すなわち(ベンフォードはこういう言葉は使わないが)〈魂〉をもたないからなのである。有機体がこの戦いに生き延びなければならないのは、この宇宙に〈魂〉を存続させることこそが、人類の(有機生命の)宇宙における存在意義だからだ。

 『鉄腕アトム』を友としたわれわれ日本のSFファンにとって、いや提灯や傘のような日用品だって年ふれば魂を宿すと信じてきた日本人にとって、こういうキリスト教的な厳格な二元論はなじみにくいものである。『夜の大海の中で』のスナークはまさに〈かわいい電卓文明〉からの使者であったし、『大いなる天上の河』から始まる四部作でもマンティスのような存在は悪魔的ではあっても理解可能な、人間的といっていい一面を持っていた。にもかかわらず、両者は決して相容れないものだとする作者の視点が、このシリーズを黙示録的な、暗く激しい重い雰囲気で覆っているのである。もしかしたら、これは作者が科学者として、銀河中心に荒々しく人間を拒絶する物理的現実を見たためかもしれない。この苦い認識こそ、このシリーズが哲学的と評される所以である。

 さて、ここらでこのシリーズのあらすじを振り返ってみよう。

 イギリス生まれの科学者ナイジェル・ウォームズリーを主人公とする最初の二部作は、まさしく近未来ハードSFと呼ぶにふさわしい作品だ。一九九九年、地球に接近した小惑星イカルスに到達したナイジェルは、それが太古の宇宙船であることを発見した。イカルスが発した電波信号を受けて、五年後、スナークと名付けられた機械文明からの使者が太陽系を訪れる。ナイジェルはスナークとコンタクトし、知的な交流を果たしたが、スナークは再び宇宙へと去って行く。スナークの接近によって、今度は月面に埋もれていた有機文明の宇宙船が目を覚まし、この宇宙が決して平和な場所ではないことを伝える。人類自体、太古に彼らによって進化を促され、知性化されたものなのだ。
 ナイジェルはその後、小惑星を改造した恒星間宇宙船に乗って星々の世界へと乗り出していく。彼らがそこで目にしたのは、機械文明によって滅ぼされた有機文明の子孫たちだった。彼らはウォッチャーと呼ばれる機械文明の監視者の目を逃れながら、細々と生きる存在だった。そのころ、地球も機械文明による侵略を受ける。地球の海に、どこかの滅ぼされた有機文明の生き残りである異星生物が運び込まれ、人類との戦いの武器として使われるのだ。核戦争が起こり、人類は自滅しそうになるが、異星生物との連帯に成功した一部の人々が残り、かすかな希望が生まれる。ナイジェルたちの宇宙船もウォッチャーに破壊され、ナイジェルたち少数の人々は遠い異星に取り残されるが、これから続くだろう絶望的な戦いの暗い予感を残して、二部作は終わる。

 続く四部作では、舞台はいきなり三万五千年後の銀河系中心部へとジャンプする。物語の雰囲気も変わり、サイバーパンクの影響を受けたかのようなハイテク遊牧民たちの、ワイドスクリーンな宇宙冒険SFという様相を呈している。最初の二部作よりよっぽど明るく、登場人物たちも繰り返し悲惨な目に遭わされながらも常に前向きで、ユーモアを忘れない。このシリーズのモチーフの一つに『ハックルベリー・フィンの冒険』があり、要所要所で引用されて効果を上げているが、まさしく彼らは決してくじけないしたたかな開拓者魂を持つトム・ソーヤの子孫たちなのである。銀河中心の物理現象を巡る描写などは、厳密にハードSFそのものであるが、全体の雰囲気はハードSFというよりもファンタジイに近いものがある。とりわけ『荒れ狂う深淵』と本書では、巨大ブラックホールを包むエルゴ空間の内部という神秘的な領域が舞台となっているため、さらにその印象は強まっている。

 あらすじに戻ろう。人類は結局あの侵略を生き延びたのだ。それどころか、その後の何度かの侵略にも耐え、逆に銀河中心へと遠征軍を送って、一時は〈シャンデリア時代〉と呼ばれる大いなる繁栄の時代を迎えたのである。しかし、メカとの戦いは続き、しだいに人類は押され気味となり、ついに宇宙の〈シャンデリア〉を放棄して銀河中心に近い多くの惑星上へと退却する。これは〈縮こまり〉と呼ばれたが、それでもまだ惑星上に巨大な〈アーコロジー〉を建設し、高度な技術文明を誇っていた。だが、メカの侵略はやまず、人類は〈アーコロジー〉すら維持できなくなり、ささやかな〈城塞〉を築いてメカから身を守るようになった。人類はもはやメカの敵ではなく、単なる害獣にすぎない存在に落ちぶれてしまったのだ。その〈城塞〉も次々に陥落していった。そして、惑星スノーグレイドのビショップ族の〈城塞〉が陥落したところから『大いなる天上の河』は始まる。
 これまで長い間人類をほとんど無視してきたメカたちが、再び人類に関心を持つようになった。そこにはマンティスと呼ばれる高度なメカの存在があるらしい。ビショップ族のキリーンはそれに気付き、他の部族とも協力してメカたちに戦いを挑む。そんな時、有機生命ともメカとも違う磁気生命という謎の存在が宇宙から現れ、古代の宇宙船〈アルゴ〉を探せとのメッセージを伝える。それはキリーンの父、アブラハムからの言葉だった。〈アルゴ〉を手に入れたキリーンたちはスノーグレードを脱出し、宇宙へと飛び立つ。
 続く『光の潮流』で、〈アルゴ〉の人々はミリアポディアというサイボーグ種族と出会う。彼らは惑星を切り裂く宇宙ストリングといったすさまじい存在を操ってメカたちと戦っている最中だった。この惑星にも人類はいたが、ボディアたちは彼らを〈劣等生物〉として無視していた。ところがキリーンがポディアの一人クゥアートと接触したことで新たな展望が開ける。クゥアートは人類の重要性を認識し、キリーンたちと協力することになる。再び磁気生命からのメッセージが届き、キリーンたちは〈アルゴ〉で銀河中心の巨大ブラックホール〈イーター〉へと旅立つ。クゥアートもそれに同行して。

 そして前作『荒れ狂う深淵』となるわけだ。ここではキリーンの息子、トビーが主人公として活躍する。この銀河中心への大航海の影に、マンティスの姿が見え隠れしていた。マンティスはキリーンやトビーたちを泳がせて、何かメカにとっての重要な秘密を探りだそうとしているらしい。銀河中心の磁場とプラズマの荒れ狂う領域には、磁気生命といったより高次の存在がおり、様々な謎が隠されているようだ。ここにはまた、宇宙空間の濃密な分子雲の中に生きる帆ヘビや光食獣といったエキゾチックな生物たちもいる。〈アルゴ〉は〈シャンデリア〉の遺跡を訪れたりしながら、ついにメカの艦隊に追われ〈イーター〉を包むエルゴ空間――重力に閉じこめられた時空の混交した領域――へと突入する。驚いたことに、そこには〈楔(ウェッジ)〉という何者かが建造した時空の迷宮が存在し、物質ではなく折れ曲がった時空(エスティ)そのものからなる奇怪な世界が広がっていた。エスティで築かれたローカルな領域――〈路地〉と呼ばれる――には都市や村もあり、人々が生活していた。かつて〈縮こまり〉の時代にここへ逃れた人々がいたのだ。この時空のスパゲッティはあまりに複雑で、メカたちもその全てを追跡することはできなかったのである。トビーはこの奇怪なエスティの世界を巡る放浪の旅に出る。そこに、再びマンティスが現れ、メカたちは〈路地〉から〈路地〉へとビショップ族を追いかけて行く。『荒れ狂う深淵』の最後で、トビーはナイジェル・ウォームズリーと名乗る老人と出会う。ナイジェルはトビーにキリーンからのメッセージを伝える。かくて本書へと物語は続き、再び主要人物たちが集まり、メカの追う謎が明らかにされ、そして三万五千年にわたったメカと人類の物語は大団円を迎えるのだ。

 ところでこのシリーズのタイトルだが、初めの二巻には海、後の巻には河あるいは流れをイメージさせる言葉が含まれている。これらはすべて直接には宇宙あるいは銀河を表し、さらには時間・空間の広がり、動き、そして物語の中では進化や世代の移り変わりをも象徴しているのだろう。だがもうひとつ感じるのは、宇宙のイメージの変遷ということである。ナイジェルが主人公の初期の二巻が、果てしない永遠の海のイメージで宇宙をとらえているのに対し、より新しい巻には、激しく動き、ダイナミックに流動する銀河中心のイメージがある(そして実際にそこが物語の舞台になっている)。宇宙物理学者であるベンフォードは近年の銀河中心のイメージの変貌を、科学者の目でリアルタイムに見てきたはずだ。『荒れ狂う深淵』のあとがきで、ベンフォードはこの十年あまりで明らかになってきたわが銀河系の中心部のとほうもない科学的事実について述べている。彼がこのシリーズで書きたかったことの一つは、これら銀河中心の驚くべき現状をSF作家の想像力を駆使して、まるで見てきたかのように描くことだったに違いない。それがこの複雑な物語に、ぞくぞくするような壮大なセンス・オブ・ワンダーを与えているのだ。まさしくハードSF作家としてのベンフォードの面目躍如というところだろう。

1997年5月


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