ジェイムズ・P・ホーガン / 内田昌之訳
 『未踏の蒼穹』 解説

 大野万紀

 創元SF文庫
 2022年1月7日発行
 (株)東京創元社
 ECHOES OF AN ALIEN SKY by James P. Hogan (2007)
 ISBN978-4-488-66328-5


 本書は二〇〇七年刊行のJ・P・ホーガンの長編、ECHOES OF AN ALIEN SKYの全訳である。単発の長編であるが、『揺籃の星』などで明白となった晩年のホーガンの作品傾向を引き継ぎつつも、『星を継ぐもの』再びともいえる、読者を驚かせわくわくさせるようなセンス・オブ・ワンダーに満ちた作品である。

 正確な年代はわからないが、舞台となるのは数千年あるいは数万年未来の地球(テラ)。人類(テラ人)は最終戦争で滅び、地上にはその廃墟が残されるのみとなっている。
 主人公はカイアル・リーンという名の電気宇宙推進を専門とする科学者。電気宇宙推進とは、太陽系に存在する巨大なプラズマ放電回路を宇宙船の推進力に利用するものだ。ちなみにテラ人は誤解していたが、重力は電気力から派生する単なる効果にすぎず、天体の運動を重力による力学だけで考えるのは間違いなのである。彼は月(ルナ)の裏側(ファーサイド)にあるトライアゴンと呼ばれるテラ人の遺稿で、現在知られているテラ人の技術ではあり得なかったはずの電気宇宙推進を思わせる遺物が発見されたため、その調査に金星からやって来たのだ。
 そう、この物語の登場人物たちは金星人なのである。この時代の金星はかつてのような濃硫酸の雲に覆われた摂氏四百度を超える灼熱地獄ではなく、ごつごつした溶岩原や蒸気をあげる湿地だらけの過酷な環境ではあるが、多様な生物が棲み、惑星間航行のできるまでに発達した文明をもつ人々の世界となっているのだ。
 金星人たちはテラ人とほとんど変わりがない。彼らは金星に移住したテラ人の子孫なのだろうか。しかし、テラ人が滅亡した時、金星はまだ人が住めない環境のままだった。金星への移住説ではタイムスケールが合わない。
 このタイムスケールの謎は本書の重要なポイントとして、この後も物語を引っ張っていくことになる。
 カイアルはいったん地球の中東にあるロンバスという町を訪れる。ここは地球における金星人たちの研究拠点となっている町だ。テラ人の残した遺物の調査により彼らの言語もかなり解読され、金星人たちは地球の歴史や政治、科学技術についての豊富な知識をもっている。
 一番役に立ったのは紙に残された記録だった。電子メディアは長い年月の中で劣化し、わずかに残った記録も解読手段がない。
 ロンバスはテラ人が絶滅するまえに起きた最後の大紛争のひとつである“中央アジア戦争”の中心地でもあった。テラ人たちには知識も能力も資源もあったのに、盲信的な権力者たちの強欲、被害妄想、猜疑心によって洗脳され、破滅的な戦争へと突き進んだのだ。中国が台湾に上陸したことから始まる戦争は、やがて中央アジアへ広がり、核の火が世界中に降り注ぐこととなったのだ。
 基本的に穏やかで個人の自由と資質を尊重する金星人には、このようなテラ人の極端な精神が理解できない。きわめて芸術的で創造力にあふれ、すばらしい絵画や建築物を残すと同時に、都市をまるごと壊滅させる恐ろしい武器を考案し、自分たちの信じるドグマから逸脱した者を無慈悲に虐殺する。テラ人の歴史は戦争の歴史でもある。
 テラ人の精神を研究している研究者の中には、それが文明の最初期に地球を襲った宇宙的な大変動――金星を含む複数の惑星と地球とが互いに影響を及ぼすほど近くにまで接近したことによる、地形が変わるほどの天変地異――によるものではないかと考える者もいる。大変動を恐ろしい天の神による罰と考え、執念深い空想の神々の機嫌をとるため、非合理で抑圧的な宗教のドグマを奉じる少数の権力者に人々が服従するようになったのだと。
 だが金星人の中にもこのようなテラ人の思想に共感する者がいた。〈進歩派〉と呼ばれる彼らは、今の金星の、専門家や知識のある個人が理性と良心のもと自発的に共同して物事を進める体制は非効率であり、責任ある上位者の指示によって強力な調整と管理を組織的に行い、皆が不屈の精神で一致団結して事に当たる方が効率よく、また専門家以外の人間にとっては平等でもあると言うのだ。そんな〈進歩派〉のリーダー格の人間がロンバスに来ていた。テラ人の言語を解析し、記録を分析する言語学者のジェニンである。
 物語はこの後、カイアルと微生物学者の女性、ロリライとのボーイ・ミーツ・ガール(という年齢ではないだろうが)に始まるロマンスと、ジェニンとの確執からくるサスペンスがドライブしていく。冒険SFとしても手際よく、とても面白く読めるだろう。ハードSFとしては、ロリライが研究するDNAの謎、テラ人たちが滅亡に当たって一体どのような行動をとったのか、そして滅亡の真の原因は何だったのかという大きな謎を巡って進展していく。その謎を解こうとする科学者たちの努力と発見には、まさしくSFのセンス・オブ・ワンダーがあり、新鮮な驚きと魅力が満ちているのだ。全ての謎が明らかとなる時、そこには大きな感動が訪れるだろう。

 だが、これまでホーガンの作品を読んできた読者にはすぐわかるように、ここでの「科学」とはわれわれの知る「科学」とは全く別のものである。『揺籃の星』『黎明の星』と同じくヴェリコフスキーの宇宙論を背景にした「疑似科学」であり、もっと言えば「トンデモ科学」である。
 ヴェリコフスキーの宇宙論に関しては『揺籃の星』の今は亡き金子隆一さんの解説に詳しい。ここで詳しく述べることはしないが、数千年前の惑星接近による地球の大混乱、重力ではなく電気力によって支配されている宇宙といったものである(後者はヴェリコフスキー自身も後年にはあまり主張しなくなったそうだが)。本書ではそれらが大前提となっている。だが本書で一番重要なのは、生物の進化や地質学的な変化が何百万年といった長大な時間の中で起こるものではなく、数千年や数万年といった遥かに短い期間に「起こるべくして起こる」という主張だ。金星が灼熱の惑星からごく短期間で温暖な惑星に変化したのも、金星生物の生態系についても、ここから説明される。その背後には高度な宇宙のデザイナーの存在が想定されている。こういった考えをとりあえず現実の理論としてではなくSFのアイデアとして受け容れるなら、本書は「疑似科学的」エンターテインメントとして十分に楽しめるだろう。ホーガンの語り/騙りの手口は『揺籃の星』のころよりさらに巧妙になっており、まるで科学者たちが目の前の謎に科学的手法で果敢に挑戦し、自由で新鮮な発想によりそれを解決していく、そして驚くべき発見に至る物語として読めるのだ。もちろんその謎は作者が作り上げたものであり、彼らが実証されていると考えている科学理論は常識的に見れば議論するにも及ばないトンデモなのだが。
 ホーガンは小説の中で微妙にバランスを取ろうと、懐疑的な描写をしてみせるところもある。実際、本書を結末まで読めば、『揺籃の星』よりはずっと納得しやすく、ある点では普通のSFとなっていることがわかるだろう。彼自身、自分は決して「信者」ではないと語っているのだ。ホーガンは本書のバックグラウンドについて自分のサイト(現在は閲覧不能)で次のように書いていた。

 近年のわたしの著作物やこのサイトにある他の投稿を見ればわかるように、わたしは金星が若い惑星であることをしめす証拠には説得力があり、伝統的な見解を支持する人びとは再考の時期が来たパラダイムにしがみつき過ぎなのではないかと考えている。わたしはけっして〝若い地球説〟の信者ではないが――ときどきそのような非難を受ける――何百万年もまえのものとされる岩層の中をつらぬく木々の化石や、セント・ヘレンズ山の噴火後に生じた地質学的変化の速さとその規模などを見ると、従来の年代測定法も見直しが必要ではないかと思わずにはいられない。もしも比較的最近になって起きた大変動にまつわる見解が正しいとしたら、わたしたちがいま太古の姿をとどめていると考えている地形は、実は数百万年まえではなく、ほんの数千年まえに起きたプロセスの結果なのかもしれないし、以前の世界が終わったあとで世界が作り直されてふたたび人びとが住みつくという世界各地で見られる文化的伝承も、それほど的外れではなくなる。

 つまり、少し強引にこじつければ――なにしろこれはSFなので、多少は興味をそそる考察の材料を投入したい――若い地球に似た惑星もあるし、地質学的および生物学的プロセスは現在受け入れられている理論で言われているよりもずっと速く起こり得ると仮定できるだけの根拠もあることになる。そう考えると、何億年も待たなくても、空を見あげてあそこになにがあるのだろうと考える別の知的種族が出現するかもしれない。そのときわたしたちはまだ存在しているだろうか? いないかもしれない。

 わたしが最初に書いた『星を継ぐもの』という本は、地球の科学者たちがかつて太陽系に存在した古代文明の物語を再構築するというストーリーだった。これはとても評判がよく、多くの人から同じ路線の作品を書くつもりはないのかときかれた。本書にはいくらか似た要素があるように思えるが、今回は視点が逆になっている。わたしたちとは異なる文化的イメージや生い立ちをもつ他者の目をとおして、わたしたち自身のありさまを描き出そうとする、なかなか興味深い機会でもあるかもしれない。
(内田昌之訳)

 この言葉がどこまで彼の本心なのかはわからない。だがやはり、今の科学を既存の理論、既存のドグマに権威主義的によりそったものと感じ、観察された「事実」こそが権威者の作り上げた理論より優先されるものだとする主張に変わりはないように思える。それは本書の中で頻出するリバタリアン的な政治主張にも通じている。
 考えてみればこれはホーガンの作品の中で首尾一貫したものなのだ。決して『揺籃の星』で初めて出てきたものではない。『星を継ぐもの』でも『創世記機械』でも、発見された「事実」こそが――たとえ常識ではあり得ないように思えても――真実であり、それが既存の権威を破壊して世界を変えていく。そこには胸のすくような面白さがある。金子隆一さんの言うように「ホーガンの作品は、常に未来に向かって開いており、科学技術と人間の理想的な融合をめざす、一種のユートピア思想のアトモスフィアを濃厚に漂わせている」のだ。
 けれども、その「事実」とは本当に真実なのか。トランプ大統領の時代を経験したわれわれには素直にイエスと言うことはできない。そこには手間のかかる検証が必要なのだ。はるか昔の学生時代、実験結果が本当に正しいかどうかの検証を徹底的に指導された筆者の経験からいっても、現実の科学者たちの本当の研究においても、現れた現象をまずは疑ってみることから始めなければならない。いかに優れた人間でも、そこをおろそかにするとたちまちカルトの罠にはまっていくことになる。
 とはいえ本書はフィクションであり、SFである。金子さんが言うように、本書を読むスタンスとしては、余裕をもって「SF」として読め、間違っても「科学的事実」と考えるなということだ。そうすれば、たとえウソだとわかっていても、ぞくぞくするような発見のセンス・オブ・ワンダーを楽しむことができ、未来の人類の運命について圧倒的な感動を覚えることができるだろう。

2021年11月


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