SFアドベンチャー 1987年2月号

拷問者の影        ジーン・ウルフ

 一九八〇年に出版された本書は英米で圧倒的な人気を博した〈新しい太陽の書〉四部作の第一巻である。遠い未来の、中世的でエキゾチックな社会における、一人の少年の冒険と成長の物語。主人公は〈拷問者ギルド〉というこの世界でもかなり特異なギルドの出身だったが、掟を破って追放され、師匠から渡された名剣を持って外の世界へと旅立つ。街の中で様々な人物と出会い、経験を重ね……といった話が、主人公の回想形式で語られている。で、これがまあ年取った主人公の思考のままにあっちへとんだりこっちへとんだり、ストーリーが素直に進んで行かない。普通の作家であったなら、かったるくて読んでいられないところだろう。しかし、さすがにウルフは読ませる。ほとんど背景説明なしに描写されるこの社会のディテールから、壮大な未来の歴史が想像されるのだ。ここでの魔法は明らかに科学技術の退化したものである。SF作家がファンタジイを書く時の常套手段ではあるが、ウルフのバランス感覚は絶妙だ。とはいうものの、確かに面白く内容も濃いのだが、英米での評価にはやや違和感がある。結論は残りが出るまで保留にしたい。

インテグラル・ツリー  ラリー・ニーヴン

 ラリー・ニーヴンの大変楽しい冒険〃ハード〃SFである。『リングワールド』以来の傑作といっていいだろう。
『リングワールド』と同じく、本書もその真の主人公は、科学的に想像されたエキゾチックな世界そのものである。中性子星を巡る半径二万六千キロの軌道上に形成された〈スモーク・リング〉。それは呼吸可能な大気と水と生命をたたえた、大地と重力のない世界である。そこに浮かぶ巨大な樹〈インテグラル・ツリー〉。これほどエキゾチックな環境を本当によく思い付いたものだと思う。例によってストーリー自体はニーヴンらしい冒険もので、テーマ性はほとんどない純然たる娯楽SFなのだが、奇怪な舞台が十分に効果をあげていて、何よりも目新しく、面白く読める。後半に出てくる、他よりいくぶん進んだ科学技術を持つ樹上の社会の描写なども、イマジネーション豊かで大変面白い。もう一つ重要なのは、この世界が単に奇妙なだけでなく、科学的背景が非常にしっかりしていて、ちょっとした描写にも特異な力学系の裏付けがあることである。このあたり、ハードSFファンにはこたえられないところだろう。

キャンプ・コンセントレーション     T・M・ディッシュ

 本書が書かれたのは一九六七年。今からもう二〇年近い昔になる。あの反乱の時代。当時ディッシュは二七歳の怒れる青年詩人であり、かつ『人類皆殺し』や『虚像のエコー』を書いた後、故郷のアメリカを捨ててイギリスに渡った新進のSF作家であった。本書は〈ニューウェーブ〉の震源地たるマイクル・ムアコックのニュー・ワールズ誌に連載された、いって見ればあの時代の空気を百パーセント含んだ作品なのである。
 優れた作品は時代を超越している。本書も疑いなく優れた作品には違いない。違いないのだけれど、書かれた時代の空気があまりにも濃厚であり、とうていそれを無視することはできない。二〇年たった今日、多くの読者にとってはそれはほとんど自分に無縁な歴史上の一断面にすぎないだろう(何しろ本書と今日の距離は、第二次世界大戦と本書の距離にほぼ等しいのである)。したがって今の読者が本書をどう読むかは、正直なところ評者にはわからない。いや、評者自身、本当のところ本書と同時代を生きたわけではなく、およそ一世代の差があるわけで、生々しさはそれだけ薄いといえるのだが……。
 時代は六〇年代末の争乱の、エスカレーションするベトナム戦争の、抑圧とナパーム弾と異議申し立ての、長髪と催涙弾と重い重いロックミュージックの、そういったものの延長上にある近未来のアメリカ(もっとも本書はSFだから、そういった風俗的・社会的な背景は直接描かれていない。あるのは消すことのできない時代の雰囲気だけである)。地下の収容所に閉じ込められた良心的兵役拒否者の詩人に対する、知能増大を目的とした非人間的な人体実験。ストーリーを追えば、決して目新しいものではない、普通のSFである。人工的な知能の増大とその副作用、という点では「アルジャーノン・テーマ」といってもいいだろう。だが本書の第一のテーマは人間の知能そのものに関するスペキュレーションにある。それも理科的な知能ではなく、主人公が詩人であることからもわかるように、文科的な面での思考が問われているのだ。それは外部に直接的な力を持つことはなく、むしろ内向きに働く。増大された知能は閉ざされ、空回りし、主人公自身を苦しめる。彼の書く手記は理解困難なものとなる。ここでは人間的であるがゆえに自分自身の限界に閉塞される知性が、時代の状況とパラレルに、痛ましく描かれている。本書の第二部で、主人公は知能を増大された理科系の天才と対決するが、彼の相手はより俗物的で、普通に理解可能である反面、内実は非人間的で悪魔的な科学者として描かれている。本書の第二のテーマは、このことからもわかるように、非人間的な〃科学〃への異議申し立てである。本書ではこの歪んだ〃科学〃に替わるものとして〃錬金術〃(をも包含するあり得べき真の科学)が対置される(ディッシュは基本的に人間性を信じるタイプのヒューマニストなのだろう)。書き方は前衛的だが、本質は比較的ストレートなSFだといっていい。
 なお、これは誰もが指摘していることだが、この結末のとってつけたようなどんでん返しは、無意味なばかりか、作品をぶち壊しているといえる。ディッシュの屈折した性格から考えると、SFファンをばかにするためにわざとやったとも思えるくらいだ。また訳文は非常に凝ったもので、決して読みやすいとはいえない(NW−SF誌への連載時とは全くといっていいほど変わっている)。もともとがペダンチックな、凝りに凝った文章なのだから、これはこれでいいのかも知れないが。とはいえ、文庫本の三分の1を占める訳註にはいささか驚かされた。


SFアドベンチャー 1987年3月号

死霊塔主ジマ・ディンゴ     田中文雄

 〈大魔界〉シリーズの五巻目。シリーズとはいえ、前作から二年ぶりの(外伝は昨年出たけれど)作品であり、登場人物の関連を除けば、ほとんど独立した物語として読める作品となっている。
 旅に出たまま遭難し、氷竜の島に流れ着いたハンニバルの甥レム、彼を捜索に行ったのだが、雪崩にあってただ一人生き残り、女神ジマイマの僧院に運び込まれたハンニバル。二人の運命を巡って、魔界のものたちが暗躍する……。
 このシリーズは著者の数多い作品の中でも、最も著者本来の個性が現れた作品だと思う。〈大魔界〉とは著者のインナースペースに他ならない。生と死がほとんど等価なものとして描かれ、まどろむ夢の中から現れるように魔界の霧の中から異形のものたちが現れ、そして消える。冒険活劇の側面は抑えられ、怪奇幻想譚的な色彩が強い。それだけ、今の和製ヒロイック・ファンタジーの中では異色な存在となっている。エンターテインメントとはいっても、壮快なカタルシスを味わうというものではなく、むしろ昔の怪奇小説の系譜を新たに継ぐもののように思える。 

呪界の総統兵団         川又千秋

 『虚空の総統兵団』の続編。近未来の日本を舞台にし、ヒットラーの軍団が虚空世界を経由して再びその姿を現す、というお話。
 妖魔や淫魔が跋扈する時代にこういう作品を読むと、正直なところほっとします。決してジュヴナイルというわけではないのだけれど、一昔前の少年向きSFの味わいがある。このところ、いろんな分野で大活躍の著者ですが、このシリーズは買いですね。いかにものびのびとして、好きなように書いているという感じがする。何よりもいいのは、シリーズがさらに発展する伏線を残しながらも、この作品はこれで一応けじめがついている、ということだ(あれ、全然終ってないじゃないか、と思うでしょ? でもこの物語は徹底して主人公の個人的な立場から語られていて、政府や組織といったものはほとんどお呼びじゃない。であれば、これはこれでりっぱに完結しているのです)。少年の感性で語る、というのは著者に対するキーワードの一つだが、本書では兵器の描写や登場人物の造形に、特にそれが感じられる。ところで、本書にはいたるところに著者の遊び心が現れている。あなたはいくつ見つけただろうか?

剣と魔法の物語  ロバート・E・ハワード

 あの〈コナン〉シリーズの作者、ロバート・E・ハワードの短編集である。ごく初期の作品から、最も油ののった時期の作品まで、シリーズものに属さない七篇が収録されている。
 ここに収められた作品は、秘境冒険小説、怪奇小説、古代幻想小説、伝奇小説、そしてクトゥルー神話まで、様々なジャンルに含めることができる。そこに共通しているのが、〈剣と魔法〉とモンスターの要素だ。「砂漠の魔都」や「悪霊の館」、「鬼神の石塚」に出てくる太古の邪神、「妖虫の谷」の巨蛆、「吸血鬼の墓」の吸血鬼、「密林の人狼」の人狼、そして「ブードゥー教の半魚人」の半魚人と、いずれも人知を越えた超自然の怪物が登場するが、それらに、剣で、あるいは銃で立ち向かうのは、金髪碧眼の北方のバーバリアン、あるいはその血をひく一人の白人男である。古い作品だけにそういう人種偏見がかなり露骨に現れていて、いささかうんざりさせられるが、それさえ気にしなければ今でも充分読むに耐えるエンターテインメントとなっている。どれも面白いが、「砂漠の魔都」が懐かしの冒険活劇調で、お勧め品。


SFアドベンチャー 1987年4月号

八六年の海外SF         大野万紀

 一九八六年の翻訳SF界は、八〇年代に入ってから生じた海外SFの新しい波がほぼリアルタイムに上陸してきたということ、それまで未訳だった重要な作品が多く訳されたということ、そしてここ二、三年の傾向であるハードSFの隆盛が続いていることの、この三点で捉えることができる。第一のものはもちろん〈サイバーパンク〉現象であり、作品としてはギブスンにとどめをさす。第二のものはティプトリー、エディスン、ワトスン、あるいはラファティ、ディッシュらの作品に代表される。第三のものとしてはセーガンやベンフォード、それにブリンやニーヴンの名前をあげることができるだろう。
 評者たちによる八六年の収穫にもこのことが反映しているようだ。まず何といっても話題の中心となったのはウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』である。〈サイバーパンク〉を代表するこの作品は、読み手の年齢等によってかなり評価が分かれたが、八六年の最大の話題作であり、少なくともある水準以上の傑作であることには疑いの余地がない。この作品に向けられた批判にしても、その多くは「期待したわりには……」とか「アイデアやストーリーは古くからのSFと変わらない」といった類のものであった。逆にいうと、それだけ〈サイバーパンク〉という、SF界にひさびさに現れた大きな動きに対する期待が大きかったのだといえる。
 SFの〈ニューウェーブ〉が去ってからここ十五年くらいの間、SF界には論争の種となるような大きな文学運動はなかった。〈ワイドスクリーンバロック〉や〈ハードSF〉というのは単なる作品傾向やサブジャンルの名前に過ぎず、〈レイバーデイ・グループ(LDG)〉は運動ではなくて七〇年代作家の一群を古い世代の作家が呼ぶときの、ややからかいを込めた呼称に過ぎなかった。ところが〈サイバーパンク〉は(名称はともかくとして)アメリカの一群の若手作家たちの、意識的な運動の中から現れてきたものである。わが国ではSFマガジン誌がこの運動を大きく取り上げ、翻訳や評論の掲載によって話題を盛り上げてきた。〈サイバーパンク〉の定義については、推進者たちの間でもいまだにはっきりした共通の了解はないようなのだが、逆にウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』が〈サイバーパンク〉であることについては異論がないようである(むしろ、『ニューロマンサー』や映画『ブレイドランナー』に刺激を受けた若手SF作家たちの作風をこう呼ぶというのが正解かも知れない)。ハイテク製品の日常化を背景として、テクノロジーがいかに社会と人間性を変えうるかに着目し、それを大上段に語るのではなく、むしろ表面的なスケッチを重ねることでクールに表現する、というのがこの一派の平均的な特徴のようである。このためストーリーはわりあい通俗的なものとなり、また未来的な科学技術の成果を作中に多く盛り込むので、従来からあるハードSFとアイデアの面でも似通ってくる傾向がある。古くからのファンが〈サイバーパンク〉を「新しくない」といったりするのもそのためだろう。
 しかし若いファンにとっては、そういったことよりも、作品全体に充満している「今」の雰囲気の方がより重要なのだ。例えば過去のSFによくあるような、とてつもない宇宙船のディテールを科学的に描きながら、コンピュータと人間の関わりについてはとんちんかんなことをいっていたり、壮大な人類の運命を語りつつ、まるで五〇年代のテレビのホームドラマみたいな生活をおくる登場人物たちが出てくる作品などに比べて、一見同じようなストーリー、同じようなアイデアに見えたとしても、〈サイバーパンク〉の作品は、その全体の雰囲気においてまさしく八〇年代の現代にふさわしいSFとなっているのである(もっともそれは新しい世代の作家たちが、ハイテクな現代の日常により慣れ親しんでいるというだけの問題かも知れないが)。
 同様に、二十年前、伝統的なSFに反旗をひるがえした〈ニューウエーブ〉とも彼らは異なっている。SFとコンテンポラリーな現実との乖離に悩み「SFに何ができるか」と問いかけた〈ニューウエーブ〉の作家たちは、SFの外から文学的・実験的な手法を導入したり、私的な内宇宙に浸り込んだり、SFそのものを捨て去ったりした。これに対し〈サイバーパンク〉の作家たちは、先に述べたように、伝統的SFの手法を用いながらSFを革新しようとする。これは今日のSFを取り巻く状況が大きく変わったたためだろう。二十年前と現代との最も大きな違いは、かつてのSFのイメージャリーが日常に浸透し、SFが特別なものではなく、ポピュラーで当り前のものとなったことである。いってみれば「SFに何ができるか」から「SFで何ができるか」へと問題が変化したのだ。
 ポップ・カルチャーのメディア・ミックスの中にSFが溶け込んだ時、SF「小説」はそのワン・オブ・ゼムとなってしまった。SF「小説」を選んだ作家たちにはより強力なポップ・カルチャー(音楽、ビデオ、映画、コミック、さらにはコンピュータ・ハッカーたちのサブ・カルチャー)への片思いが生じた。〈サイバーパンク〉はこの文脈の中でも捉えることができる。『ニューロマンサー』のチバ・シティにわれわれが居心地の良さを覚えるのは、小説を読みながらこのトータルなSF的現代の中に自分がいるという安心感を得られるためなのかも知れない。(ところで個人的な感想なのだが、〈サイバーパンク〉運動が生まれる前から同様な作品を書いていて、今はほとんど名前を聞かなくなってしまった作家たち――例えばミック・ファーレンとかA・A・アタナシオとか――は、いったいどうしているんでしょうね。)
〈サイバーパンク〉論はこのくらいにして、他の作品に移ろう。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『老いたる霊長類の星への賛歌』は、非常に評判が高いにもかかわらずこれまで雑誌でしか紹介されていなかった作者の、わが国で初めての短編集である。収録作はいずれも読みごたえがあり、その多くは性の問題を本質的なレベルで捉え、科学者らしい冷たい客観性で人間を分析しながらも、優れたSFだけが持つことのできる衝撃的な感動を読者に与えてくれる、そんないかにもティプトリーらしい作品である。とはいえ、評者個人としてはこれだけでティプトリーの幅広い才能を判断してもらいたくないという気もする。ティプトリーにはドタバタやもっとストレートな宇宙SFも書けるのだ。まあそれはともかくとして、アメリカSF最高の作家の一人であるティプトリーの作品が、ようやく一般にも手にはいるようになったわけで、多くの評者が本書を八六年の収穫に加えたのは当然といえるだろう。
 E・R・エディスンの『ウロボロス』は他の作品と少し毛色が違う。まず本書が書かれたのは今から六十五年前であり、SFというよりは全くの古典的な幻想小説なのである。舞台は水星だが、これは現実の水星ではなく、作者の精神的な理想郷としての架空世界であり、また物語にも幻想的な要素より、英雄豪傑たちの戦争絵巻という要素の方が強い。しかし、その文章、描写の荘麗さは見事というほかなく、何百ページもある本書を飽かさず読みごたえのあるものとしている。まさに時代を超越した小説だといえる。
 現代SFの一つの極にいながら、おそらく〈サイバーパンク〉とは対照的なところにあるのが、イアン・ワトスンの二冊目の翻訳となった長編『ヨナ・キット』である。〈サイバーパンク〉と同様、これまた一種の〃ラディカル・ハードSF〃であるが、〈サイバーパンク〉が現代の日常に近いところで皮膚感覚的に科学・技術を捉えるのに対し、ワトスンはひたすら観念的に思弁を深めていく。本書では宇宙論とクジラの認識論とが併置され、神学やニューサイエンス的な哲学が議論される。決して読みやすい小説とはいえないが、かなりの知的興奮を与えてくれる刺激的なSFである。
 一方、強烈な現代SFの中にあって、ウォルター・テヴィスの『ふるさと遠く』は、何ともほのぼのとした味わいのある短編集である。もっともその短編は執筆年代によってかなり印象が変わっており、どちらが好みかは読者によって異なるだろう。ただ表題作はおそらく誰が読んでも心に残るはずの、すばらしいファンタジイの佳品である。
 八六年はまたR・A・ラファティの長編が二冊も訳された年として記憶されなければならない。『悪魔は死んだ』と『イースターワインに到着』である。人によって評価は異なるが、いずれも傑作には違いない。ただし、ラファティの場合、短編でのユーモアSF、ほら話といった味わいよりも、長編においては骨太で観念的なファンタジイという印象が強い。面白いけれども、心してかからねば、おいてけぼりにされてしまうというやつだ。二冊の中では『悪魔は死んだ』の方がどちらかといえば普通の感覚に近い物語で、そのためか評者たちの点は高かった。
 ハードSFの方ではベンフォードやブリンの活躍も見られたが、科学者であるカール・セーガンの処女長編『コンタクト』が高い評価を受けた。現職の科学者がSFを書くのはロバート・フォーワードや、古くはフレッド・ホイルなどという大物もいて、英米では決して珍しいことではないが、セーガンのこの作品は処女作ながらSFとしての完成度も高く、その鋭い問題意識やみずみずしい感性、驚くべきアイデアなどにより、優れたハードSFとなった。
 最後に、ここにあげた作品の他にも、多くの作品の名が評者たちからあがっていたことを付記しておく。八六年は、翻訳SFにとって、なかなか実り多い年だったといえるだろう。


SFアドベンチャー 1987年5月号

タイム・トラベラー P・J・ファーマー他

 時間テーマSFのアンソロジー。読み終ってから、これは大きく扱うべきだったなと思った。今年の収穫に入るべき傑作短編集である(全部が全部傑作とはいわないが)。時間SFというのは宇宙SFと同様、SFの中で一番SFらしい分野であり、また面白いだけでなく知的な刺激を与えてくれる作品が多い分野である。本書に収録された作品も一つ一つコメントをつけたくなる、そんな話ばかりだ。評者のベストはファーマー「わが内なる廃墟の断章」、バズビイ「ここがウィネトカならきみはジュディ」、それから人によって好き嫌いはあるかも知れないがスターリングとシャイナーの「ミラーグラスのモーツァルト」。あとライバー、ナイト、シェフィールド、チェリイ、ワトスン……なんだ、ほとんど全部になってしまう。ファーマーは特にいい。時間というのが情報の蓄積であるということを逆手にとった、とても恐ろしい話だ。いろんなことを考えさせてくれる傑作です。それからバズビイもそうだが、恋愛がらみの時間SFというのは数も多く、しかもみんないい話になるみたいですね。パラドックスの話はもっとあってもよかったと思う。

コンピュータ一〇の犯罪    アシモフ編

 コンピュータ関係のソフトや書籍を出しているパーソナルメディアから、アシモフ他編のコンピュータSFアンソロジーが出た、とくれば、なんとなくひと味違うものを期待したくなる。でも、もとがもとだからしょうがないけれど、その期待は満たされたとはいえない。つまり、とても古くさいのだ。八三年の編書だというのに、新しい作品はごくわずかで(それが悪い、というんじゃない。SFとして優れた作品、懐かしい作品も多い。でも古いんだ)、これでは現実のコンピュータの発達にSFがついていっていないという評判を証明しているようなものである。本書のSFはコンピュータの融通のきかない非人間性を強調するか、逆にものわかりのいいスーパーマンとして描くばかりだし、ミステリやスパイものでは現実の(最先端の)コンピュータ犯罪よりもむしろレベルの低い内容を扱っているという印象がある。要するに、未来における人間とコンピュータの関わりについて、知的な刺激をもたらしてくれるような作品はここにはないのだ。ま、そういうことを離れてみると、結構面白く読みごたえのある話も収録されているのですがね。  


SFアドベンチャー 1987年6月号

銀河乞食軍団<外伝2>     野田昌広

 お待ちかね、『銀河乞食軍団』の最新巻だよ。本編じゃなくって、お七やネンネが活躍する外伝のその二だ。元気がよくって勝手なことばかりやって、そのくせイザという時にゃドジで泣いてばかりいるおネジっ子たちに苦労させられながら、りっぱに面倒見てやってるお姉さん(キャリアウーマン)、とくらあ。おっとこんな事いってちゃ、お七にどつかれるわな。でも、この〈銀河乞食〉シリーズってのは、背景がしっかりしてて、ディテールもいかにもって感じでさ、何か本当のエンジニアの世界を読まされてるって感じになるね。大企業じゃなくて町工場だけどね。でもその薄汚れた町工場の製品が実は世界のハイテク市場でシェア何十パーセントなんてのは、よくある話よ。もう一つたまらないのは〈銀河乞食〉のSF的アイデアってやつだ。すごいっていうんじゃなくて、どっちかっていうとセコイんだけどよ、昔の『子供の科学』っていうかラジオ少年っていうか、ノスタルジーをくすぐって、まいるね。第一話に出てくる「小惑星ロッシェルのピエゾ鉱石」なんて、本当にたまんないよ。こういう話を読むと、SFマインドもまだまだ大丈夫だって安心するね。

ダーティペアの大乱戦      高千穂遥

 〈ダーティペア・シリーズ〉の第三巻。おなじみダーティペアが、惑星ドルロイで宇宙の巨悪(の手下)と対決する。今回の作品の目玉として、作者のもう一つの人気シリーズ〈クラッシャージョウ〉との相互乗入れが図られている。両シリーズのファンには嬉しい趣向だろう。
 このシリーズの特徴は、とにかく息も継がせぬアクションの連続ということである。ストーリーをいってしまえば、ごく単純な善と悪の対決ということで、特に目新しいSF的アイデアや驚くような物語展開があるわけではない。ただ、各種の小道具やメカ、それに舞台設定などはマニア的といっていいほど凝ったものである(特にこのシリーズではダーティペアのコスチュームなど、ディテールに大変力が注がれている)。そしてそういう背景の中で、はっきりと視覚化され、細かい動きまでも目に見えるように描写されたアクション・シーンの連続。一言でいえば、アニメだ。ダーティペアもアニメ化されたが、そういう意味ではなく、小説でありながらアニメの視覚的・動的な躍動感を生き生きと感じさせてくれる作品、ということである。

ドルロイの嵐<クラッシャージョウ外伝1>   高千穂遥

 本書は少し遅れて発売された『ダーティペアの大乱戦』とペアをなす、シリーズ相互乗入れの一巻である。シリーズものをいくつか書いている作家が、その一つに他のシリーズの登場人物を出してくるということは、けっこうよくある趣向で、古くはバローズにもあったし、ムアコックみたいに全シリーズが実は一つのシリーズだったというような極端な例もある。けれども本書と『ダーティペアの大乱戦』のように、全く同じ一つの事件を二つのシリーズの別々の長編として書くなんてのは、ずいぶん珍しいんじゃないだろうか。違った角度から取り上げたというのでもなくて、主人公を変えただけの、本来は一つの物語なのである。同じセリフが両方に出てきたりして、しっかり重複している。もちろんファンにとってはこれも楽しい趣向なのだが。
 両方読み比べてみると(評者の独断だが)どうしてもダーティペアの方が派手なぶん目だってしまい、となると一人称で書かれた『大乱戦』の方が印象に残る。ガンビーノ爺さんのしぶい活躍はかっこいいのだが、ジョウの生まれる前の話でもあり、ここはクラッシャーの判定負けというところだろう。


SFアドベンチャー 1987年7月号

銀河英雄伝説外伝2       田中芳樹

 本誌に連載された『銀河英雄伝説外伝』の第二巻である。ただし第一巻の続編というわけではなく、「ユリアンのイゼルローン日記」と副題にあるように、一四才の少年の書いた三カ月間の日記という体裁で、ヤン・ウェンリーと同盟軍の諸将たちの日常生活を描写したものだ。
 帝国軍のキルヒアイスを中心においた外伝の1と違って、こちらではほとんど大きな事件は起こらない。いたってのんびりとしたムードで話がすすむ。少年の視点で書かれているため全体の動向についてもあいまいで、おそらく『銀英伝』の本編を読んでない読者にはピンとこない点が多いのではなかろうか。逆に日常のエピソード中心に書かれているため、個々の登場人物にもっと親しみたいと思っているファンにとっては楽しめる読物となっている。もっとも人物中心というのは『銀英伝』の基本的なコンセプトでもあり、本書によって彼らの意外な一面を知るというほどの発見はない。それにしても本書にはしゃれた文句や警句が満ち満ちている。いいセリフをいうことが、彼らの強迫観念になっているのではないかと思われるほどだ。

ノーストリリア      コードウェイナー・スミス

 コードウェイナー・スミス、といっても、大多数の読者にはなじみのない名前だろう。でもある程度以上SFにかかわっている人なら、少なくともどこかで名前くらいは聞いたことがあるはずだ。その時、何か微妙なオーラのようなものを感じませんでしたか?
 その昔、評者はある雑誌でスミスの紹介をした際に、スミスを知っていることがSFマニアの条件である、てなことを書いた覚えがある。今でもこのことは通用すると思う(マニア度チェックをするなら「スミスといえばE・E・スミスではなくコードウェイナー・スミスである」という項目を入れておくべきだ)。ただし、コードウェイナー・スミスの魅力はマニアだけのものではない。もしまだ買っていないのなら、本書は即買うこと!
 どうも冷静な書評になりそうもないなあ。大好きな作家の大好きな本だから、かえって難しいのだ。もともとスミスの作品というのは分析しにくい要素を多く含んでいる。それがスミスの魅力であると同時に、奇妙で不可解な印象を与えるもととなっている。底が深く、異質で、豊饒な、根元的想像力の沼地に美しく咲いた蓮の花といったところだ。美しいと同時にグロテスクで、引きずり込まれそうな不安感を漂わせている。といって、嘆美的・芸術的というよりは、おとぎ噺やマンガに近く、やたら願望充足的な要素も多い。とてつもないSF的アイデアが惜しげもなくちりばめられ、綿密に考察されている一方、とんでもない荒唐無稽な物語が展開していく。そしてそれらすべてを覆い尽くす冷酷な権力機構。スミスの描く権力構造の自立的な強力さは並外れたものである。スミスの世界では自由意志など気まぐれの同意語にすぎない。すべての登場人物はこの枠内でしか動けないのだ(だがその枠の何と広大無辺なことか。すなわち、それは神の意志に等しい)。とにかく、SFファンが集まってわいわいと話をはずませるネタには事欠かないのだ。不老長生薬を作り出す病気の巨大羊(ちなみに表紙の羊の絵は誤った印象を与える。ノーストリリアの羊は想像するだに恐ろしいグロテスクな存在なのだ)。必殺の凶器である殺人雀。先物取引で地球を買ってしまうコンピュータ。自分をミイラ化して送る宇宙旅行。主人公の影武者になってしまう召使のおばさん。そして地球で一番美しく、賢く、ユーモアあふれる猫娘のク・メル。こういった数々のディテールから成り立つスミス世界の集大成こそが、スミス唯一の長編である本書『ノーストリリア』の最大の魅力なのである。
 本書のストーリーは要約すれば三行で足りる。一番いいのは「テーマとプロローグ」の章を読むことだ。そこにはすべてが書いてある。それを読んで面白そうだと思ったら、後は一気に最後まで読むこと。読み終ったら、あなたはもうスミス・ファンになっているだろう。とはいえ、おそらく、作品としての完成度は本書より他のいくつかの短編の方が上である。作者の他の短編を読み、スミスの未来史のイメージをつかんでから本書を読む方が面白く読めることは間違いない。また作者の実像について知識を持って読む方がさらに興味深い体験となるだろう(これらは短編集『鼠と竜のゲーム』や本書の後書に詳述されている。コードウェイナー・スミスとは、実はポール・ラインバーガー教授と、ジュヌヴィーヴ夫人と、愛猫メラニーとが、そうなりたいと思った架空の存在だったのかも知れない)。それはともかく、例え予備知識なしに本書を手に取ったとしても、きっと今までのSFやファンタジイとは異なる不思議な読書体験をし、充分にそれを堪能することができるはずだ。やっぱり、即買いなさい!


SFアドベンチャー 1987年8月号

恐怖の暗黒魔王         友成純一

 〈宇宙船ヴァニスの歌〉シリーズの二巻目。エロというよりはグロな描写が特徴のこのシリーズだが、一部のファンの間では注目を集めているようだ。ただしその理由の第一は作者のあとがきにある。なにしろとってもあっけらかんとして明るい、スコーンと抜けたような楽しいあとがきなのだ。作者の普通のSFファンぶりが良く現れていて(〃サイバーパンク〃なんて言葉もバッチリでてくる)こういうの読むとちょっと安心するんだよね。ネクラな変態が暗〜く暗〜くじめじめ〜っと陰惨な喜びに浸りながら血みどろな描写をしているというのじゃなくって(それもいいかも知れないけど)、けろっとネアカなのはいいですね。スプラッター小説を笑って読めるとは、いい世の中(?)になりました。
 で、肝心の本編の方だが、これもなかなかSFっぽくて悪くない。前巻は連作短篇集という趣きだったが、本書は書き下ろし長編である。その分ストーリーがすっきりして読みやすくなった。血みどろ場面も心配したほどじゃなかった(でも覚悟は必要)。物語はその昔の筒井SFをぐっと下品にした感じのスラプスティック。笑えます。

SFマガジン・セレクション1986

 八六年のSFマガジン誌から若手日本作家の短篇を中心に九篇を選んだアンソロジーである。梶尾真治、草上仁、久美沙織、水見稜、村田基、谷甲州、大原まり子、森下一仁、栗本薫の作品が収録されている。
 内容的にはやや重いシリアスな話が多い。それから、いかにもSFらしいハードな話も多い。これが、あとがきにあるように、八六年が日本SF界の地下水脈の変動、秘められたターニング・ポイントの年であった結果かどうかは、評者には何とも判断のつかないところである。ただ、本書を見る限り、SFの基本形への回帰ということは確かに現れているようだ。このあたりはサイバーパンクの捉え方とも関係してくるのだが……。
 サイバーパンクかどうかは別にして、現実のリアルなコンピュータの姿を作品中に消化したSFが本書には何篇か収録されている。草上仁、久美沙織、大原まり子らの作品がそうで、いずれも評者には大変印象的だった。また、本書ではショートショートが収録されただけだが、草上仁の活躍には特に注目したい。地味だが、すぐれた本格SFの書き手として、今後とも期待が大きい。

エディプスの市          笠井潔

 八〇年から八六年までの笠井潔の全短篇小説を集めた作品集である。巻末に野阿梓による詳細な解説がついている。
 本書にはショートショートを含む十九篇が収録されているが、そのほとんどがSFだといっていい。それも伝統的な形式、設定を持ったSF小説である。表面的には初期の小松左京の短篇や、五〇年代の海外SFを連想させる。それは、異星人の文化や未来の人類社会といった、いわゆる〈社会学テーマ〉を主として扱っているからだろう。そのレベルで見ると、アイデアとしてはやや図式的で単純に思えるが、正確な人文科学的知識に基づいたシリアスなSFとして読める作品が多い。表題作や、作者独自の未来史に基づく〈星間連合〉ものがその例である。しかし、一方で作者の小説は、単なる娯楽小説として書かれたものであっても、常に全体としての思想の表明の一形式という側面を持っている。野阿氏はそれを思想・SF・ミステリの多彩なスペクトル、作者の全体像を包含したホログラフの一片として捉えようとする。その鍵となるのが〈超越〉であり、それはまた作者のSFのテーマともなっているのである。


SFアドベンチャー 1987年9月号

漂流の美剣           宮本昌孝

 田中光二の原案による、ヒロイック・ファンタジーの新シリーズである。
 〈失われし者タリオン〉と呼ばれる若者が主人公。この主人公、ヒーローとしてはかなり異色だ。盲目、聾唖の三重苦を背負っているのである。そのかわり彼には心眼ともいうべき超感覚があり、いまではハンディキャップを克服して地上最強の戦士となっている。このあたりの設定はなかなか面白い。ただそれが十分生かされているかというと、必ずしもそうではない。ハンディキャップをもつヒーローといえば、評者などはすぐにエルリックを思い浮かべるのだが、タリオンにはエルリックの暗さや複雑さは見られないのだ。三重苦が実際には何らハンディキャップになっていないからである。ことさら暗さを求めるわけではないが、出生の謎以外にも主人公にもっと奥行きがあってもいいように思う。
 ストーリーはむしろありふれたものである。強大な悪の帝国の支配に立ち向かい、正義の戦いを挑むヒーロー。それにまつわる美しい女性たち。ただ、今回のテーマが神剣を捜しての冒険ということで、アイテム捜しのRPGという趣があり、結構楽しめた。

カリスタの石     マリオン・ジマー・ブラッドリー

 ダーコーヴァ年代記もいつの間にか八巻目になった(外伝を入れると九冊目)。このシリーズは各巻登場人物も違い時代も違い、ただ舞台と基本設定が同じのみという、シリーズとしてはゆるい形式のものだが、それでもダーコーヴァという世界のディテールを知れば知るほど、個々の作品の興味も増すという趣向になっている。そのディテールは決して目新しいものでも、とりわけ印象的なものでもないのだが、それをしみじみと楽しませてくれるのは、老練なブラッドリーの腕前というものだろう。もっともそれはシリーズ全体についての話。個々の作品については出来のいいものもあれば悪いものもある。
 本書はダーコーヴァと地球帝国の接触が始まった初期の時代を舞台とし、非人類にさらわれた〈監視者〉カリスタを救出しようとする、超自然的な戦いの物語である。ただ、設定といいストーリーといい、どうも以前に読んだような印象を受ける。主人公も問題で、男たちが(老エステバンを除き)ことごとく非個性的で魅力に乏しいのだ。そのぶん女性たち(特にエレミア)が生き生きしているので、何とか救われてはいるのだが。

ぬすまれた味          小松左京

 小松左京の初期の作品を集めたショートショート集である(ショートショートというにはやや長めの作品も含まれているが)。副題に〈SFグルメ〉とあるように、ここに収められた二十篇の作品は、いずれも〃食べる〃ということがテーマになっている。だが、あらためてこれらの作品を読んで驚かされるのは、小松左京のショートショートが、その短さにもかかわらず、りっぱに本格SFしているということだ。ここでは〃食べる〃というごく日常的な行為が、生物学から文化人類学あるいは社会学といった知識を駆使してごく高いレベルに消化され、その意味をとことん追求し、ついには人類とは何かというところまで行き着いてしまう。こういう風に書くと笑っちゃうけど、いやこの知的な高揚感、めくるめくワンダーは、まさに本格SFにふさわしいものだ。考えてみれば〃食べる〃ということは、知のグルメたる小松さんに最もふさわしいキーワードではないのか。この単純な行為の裏にある深い深い世界……。
 二十篇にはいずれも捨てがたい味があるが、食べるという行為をとことんつきつめた感のある「兇暴な口」がベストだろう。


SFアドベンチャー 1987年10月号

帝都物語(一〇)        荒俣 宏

 完結した。はは、ついに完結しましたね。東京は破壊され、魔人加藤は平将門と最後の対決をし、登場人物たちはほとんどが死に絶える……。なかなか壮絶な最終巻である。
 物語の始まりが一九〇七年。終わりが二〇〇四年。この百年足らずの間に東京は三度の大破壊を経験する。最初が関東大震災。次が東京大空襲。最後が本書で描かれる東京大地震。死と再生を繰り返す都市という東京に与えられた宿命は、しかし本書で断ち切られ、九八年の巨大地震で廃虚となった東京は桜の咲く広大な墓地として葬られるのだ。円環を描いていた時間は停止し、フラットラインする。と同時に、このシリーズのテーマは一体何だったんだろうかと評者は疑問に思うのである。加藤が何をしたかったのか、これほどの霊力を費やして、たかだか東京を物理的に破壊することが彼の目的だったのか。それは違う。東京を霊的に破壊し、永遠の墓地とすることが彼の怨念を鎮めるために必要だったはずだ。それは本書によって確かに達せられたかのように見える。でもね、この結末で加藤の怨念は鎮まったのだろうか。何かすっきりしないんだよね。『帝都物語』は東京が〈帝都〉でなくなった時、終る。これならわかる。そう考えるなら、加藤の相手は平将門ではなく、〈あの方〉であるはずだ。『帝都物語』はこの線に限りなく近く接近しつつ、結局は平行線のまま終った。単なる遷都で解決するはずはないものね。それが何か微妙にすれ違ったような印象を受ける理由だろう。
 おそらく『帝都物語』は第五巻で戦前編が完結した時、一度終ったのだ。その後の『帝都物語』は、結局加藤のかん違いによって、正しいテーマを掴めないまま迷走してしまったような気がする。東京の路上探検から始まったはずのこのシリーズは、霊的な都市としての東京を発見し、現実の物質的な東京の上に重ね合わされた人々の情念の都市、霊の都市、情報としての都市・東京の姿をあらわにしようとするものだった。いくつかの〈東京改造計画〉をベースに、その時代の人々の東京によせた想いを探り、現在にとり残されたそれらの遺物を過去への裂け目として利用することによって、霊的なタイムトラベルを実現するというものである。おそらく、この隠れた東京を暴き出すための刀として、加藤が設定されたのだろうと思う。戦前の東京についてはそれで良かった。しかし物語が戦後から現在、そして未来の東京を視野に収めようとする時、加藤はその力を失ってしまった。後半の『帝都物語』は加藤がいなくても大差ない展開になったはずである。戦後の魔は加藤の側ではなく、むしろ鳴滝老人の側にあったと思うのだ。〈帝都〉とは何か、今の東京を東京にしている〈首都〉ということの意味を考えるならば、現代の日本人にとっての天皇制に行き着くのは必然である。筆者もそれを考えていたことは明らかだ。でも結局そのテーマは中心から微妙にそらされてしまった。そうなった理由の一つは、加藤の姿を右翼的なヒーローとして造形してしまったことにあると思う。そのため対立点が不明確になったようだ。これは必ずしもタブーを避けたということではないだろう。どきっとするような描写は随所に見られるのだから。
 ともあれ、十巻におよぶ大作が堂々完結したわけである。評者としては、特に前半部をこれまでの日本SFに見られなかったタイプの、オカルト的幻想科学小説として高く評価したい。今回批判的に評した後半部についても、評者の期待したものとは若干のずれがあったにせよ、意欲的なエンターテインメントとして十分に楽しめるものだった。映画化についても、大いに期待できそうだ。

銀河乞食軍団(9)       野田昌広

 銀河乞食軍団(本篇)の第九巻が出た。いよいよ本筋のストーリーが進展し、タンポポ村発見の日が近づいた(でもまだまだ謎は解決していないのである)。
 冒頭のエピソードがすてきだ。多次元空間像を頭の中に構築できる特殊な能力を持った体の弱い少年と、その献身的な看護婦(じつは……)の心温まる物語。夢の中で彼女のために高次元のトポロジー解析をする少年の心には、星涯星系にある全ての超大型スーパーコンピュータがオンラインでつながり、わずかの時間に膨大な情報量がやりとりされる。このネットワーク空間の壮大で具体的な手触りを持った複合的なイメージ。うーん。「サイバーパンクだって? ま、ちょっとこっちにも寄っておいでよ」という感じだね、これは。いたって人間的に描かれた電脳空間だ。
 舞台が冥土河原に移った後半はいささか雰囲気が変わり、蒸気機関車に代表されるアナクロな世界が描かれる。ただし、冷たいハイテク対古き良きローテクといった図式はここにはない。むしろそれを扱う現場のエンジニアの心意気が大切という、著者の人間中心的な考え方がうかがわれる。


SFアドベンチャー 1987年11月号

青海豹の魔法の日曜日     大原まり子

 あの超・日常小説『処女少女マンガ家の念力』の続編。リーベント下高井戸五〇三号に住む少女マンガ家ミヤコさんと、その周囲の人々、猫、商品、背後霊、事件、その他が描かれている。霊魂やUFO、三つの聖痕やタイムスリップ、それに『ニューロマンサー』を読むSFファンなんかも出てくるけれど、本書はSFではない。すなわち超・日常小説、あるいは過激・日常小説であります。日常小説なんてジャンルはたぶんないだろうけど、わかるでしょ? 本書には物語らしい物語はない。ふわふわと飛び交う記号とイメージと象徴が、質量のない現代のTOKYOのポップな日常性を、サイバースペースに現われるシミュラキュラたちと同じくらいリアルに表現している。本書は実は少女マンガ家のミヤコさんや、超美人で〃人生の紙やすり〃と呼ばれる波子さんや、その他大勢の人々の、私的なプロモーション・ビデオなのだ。描かれているのは彼女らの日常であり、決してあなたの日常ではない。たとえそれが知っている誰かと似ていようとも……。それにしても最後に登場人物がみんな結婚してしまうとは、ちょっと唐突ですごいですね。

創竜伝             田中芳樹

 書き下ろしの超人小説。ほぼ現代の日本を舞台に、国家の黒幕である怪人物の組織と戦うスーパーマンの兄弟を描く。
 本書の魅力は『銀英伝』などで作者のファンにはすでにおなじみだが、主人公たちのユーモアあふれる会話や、ネアカであたたかみのある描写にある。それが類書の中で本書を独自のものにしているのだ。スーパー伝奇小説って、何か暗いでしょ。本書はちょっと場違いなくらい明るい。主人公たち四兄弟は竜の血をひく超人なわけで、はっきりいって人間じゃないのだが、やや過剰なくらいコミカルなホームドラマを演じてくれる(いうならば、少し前の少女マンガによく見られたパターンだ)。余裕ですね。本当なら陰惨で残酷なシーンになるはずのところも、彼らのおかげでコミックとなる。それだけけた違いに強いということなのだが、それが作品全体として効果をあげているかというと、ちょっと疑問な点もある。対する敵が全体としてあまりにも日常レベルの普通の悪であり(最後に巨悪がちらりと姿を見せはするが)、弱すぎるのだ。きっとこれから敵の方にもけた違いなやつが出てくるのだろう。

警士の剣         ジーン・ウルフ

 《新しい太陽の書》四部作の第三巻。起承転結でいえば転にあたる。このシリーズは全体で一冊の長編といえるくらい緊密な構成をもっているので、本書だけでは何がどうなっているのかよくわからないかも知れない。四部作が全部翻訳されてからまとめて読むというのも手だが、ここはこれからどうなるのだろうと、わくわくしながら一巻づつ読んでいくのがおすすめだ。とにかく面白い。確かにこの世界に入り込むまではちょっとしんどいのだが、しばらく読んでいるうちに、あれやこれやがどんどんつながっていき、ぐんぐん世界が広がっていくスリルが味わえる。作品中にはとんでもないSF的なアイデアがさりげなく織り込まれていて、第四巻を待たずとも、これは確かに第一級のSFだといえる。ただ、ベースはやはりファンタジイだし、凝った構成が読みづらい(評者も何度も前に帰りながら読んだ)ということも事実で、日本ではあちらほど評判になっていないようだ。でも本当に面白いんだよ。まだの人は、ぜひ時間をかけてじっくり読んでみてほしいと思う。本書では死者が生き、過去が突然よみがえりと、波乱万丈な展開が楽しめる。


SFアドベンチャー 1987年12月号

神々の剣法           宮本昌孝

 田中光二原案によるヒロイック・ファンタジイのシリーズ《失われし者タリオン》の第二巻である。三重苦を背負いながら超能力によって常人以上の力をふるうことができるタリオンの、邪悪な帝国との戦いが描かれている。今回はタリオン個人の戦いの他、小国センペカの軍師となった元サーカス団団長フォルタの、知恵を尽くした軍隊同士の戦闘シーンも見られ、ストーリーもなかなか起伏に富んでいて、充分面白く読むことができた。
 もっともその面白さとは、ハリウッドのルーチン的なB級活劇映画の面白さをめざすものである。そういう意味では、本書はいまどき珍しいくらいに正攻法で書かれていて、好感がもてる。ただ、そのためにやや優等生的というか、個性的なパワーに欠ける印象を受けるのが残念だ。もっとも前巻に比べればはるかに良くなっており、今後ますます面白いものになって行くことを期待したい。
 本書では神剣フォントベラの扱い方が良かった。使う者を逆に操る血に飢えた邪剣というのはよくあるが、その同じ剣が昼の間は人殺しをいやがって、使い手から逃げ出すというのだ。こういうのって好きです。

魍魎伝説 (双蛇の巻 坤の項) 谷 恒生

 魍魎伝説第六巻である。このシリーズは類書の中でも特にオカルトの要素が強く、ストーリーの展開よりも、日本神話をベースに著者が作り上げた神々の体系の描写の方により力が置かれているようだ。それはほとんどもう日本版クトゥルー神話といってもいいくらいである。本書でも一応の核となるストーリーはあって、それなりに物語は進んでいくのだが、他の多くの伝奇小説と違って、物語の進展や謎の解明よりも、登場人物(魍魎)たちの神話的な枠組みの中における位置の確認ということが作者にとって重要であるように思える。この枠組みの中において、あらゆるものが相対化されている。絶対悪や絶対善はなく、さらに敵と味方の別も重要ではない。単にあるローカルな局面における一時的な勝者と敗者があるだけだ。だから、本書で凶悪な超人として登場した悪役が、特別大きな戦いもしないままみじめに敗退したとしても、それは神話世界のパワーバランスが動いたからにすぎない。とはいうものの、本書の登場人物(魍魎)たちは、宿命に操られる英雄たちというにはあまりにも人間的で魅力的だ。第一、名前がすごいんだから。

時間蝕             神林長平

 神林長平の中編集。SFマガジンに掲載されたものを中心に四篇が収録されている。
 本書の基調は暗い。いずれの作品にも重い不安感が漂っている。自分は誰なのか、この世界は現実なのか、といった不安。ただ、彼らがそれを口に出すことはない。ふと疑問に思うことはあっても、われわれから見てずいぶん異様な世界の中で、それを当り前のものとして生きている。こうした不安がなぜ生じるのか? それは本書の世界が素朴でハードなリアリティを喪失した〃ソフトウェア〃の世界だからである。四篇ともが、人間の認識力、時間の知覚、記憶、情報のひずみ、意識の自己同一性といった、いわば認知科学の領域をテーマとしている。これは〃言葉〃というものに常に最大の関心を払っていた作者にとって、当然のことだといえるだろう。もっともその反面、個々の作品はテーマを掘り下げるための思考実験の場となり、小説としてはいささか無理な設定や強引な展開が見られることも事実である。しかしそのスペキュレーションは鋭く、知的な刺激に満ち満ちているのだ。四篇とも読みごたえがあるが、中でも「ここにいるよ」は印象が鮮烈だ。


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