フェッセンデンの内宇宙−現実と仮想現実、その中における意識

 大野万紀

 早川書房「SFが読みたい! 2004年版」掲載
 2004年2月15日発行


  ――われわれが大宇宙と考えているところのこの星空は、もっと大きな規模から観察すれば、一つの小宇宙にすぎぬのではなかろうか? そしてその広大な宇宙に、一人の実験科学者がいて、われわれの宇宙を興味ぶかい実験材料としか考えず、われわれの反応を観察してたのしもうがために、この宇宙を破壊しにかかるのではなかろうか? あるはるかな高みに、フェッセンデンがいるのではなかろうか?……
エドモンド・ハミルトン「フェッセンデンの宇宙」 稲葉明雄訳

 ハミルトンが一九三七年に書いたこの短編小説の戦慄すべきビジョンが、今またよみがえってきたように思える。第三回小松左京賞を受賞した機本伸司『神様のパズル』、二〇〇三年の終わりに話題をさらった山本弘『神は沈黙せず』が、どちらもまさにこのテーマを扱った傑作だった。『神様のパズル』はフェッセンデンの側で、『神は沈黙せず』は〃神〃に翻弄されるわれわれの側で。
 そして、この二作だけではない。国内でも海外でも、「フェッセンデンの宇宙」を現代化したテーマである、「現実と仮想現実、その中における意識」を扱ったSFが数多くかかれているのだ。
 もちろん、その代表選手はグレッグ・イーガンである。『順列都市』をはじめとする彼の作品は、それまでの〈サイバースペース〉ものの安逸なビジョン(ゲームのように非現実的な何でもありの異世界といった類の)を根本からくつがえすほどの衝撃をもたらす傑作だった。それは「現実」と「仮想現実」の関係に容赦なく見直しを迫る(単に文学的にではなく、論理的、数学的に)ものだった。
 フェッセンデンは実験室の中に宇宙を作った。しかし、実験室の中に、完結した宇宙を作るというのは、現実には(ハードSF的にも)難しそうだ。宇宙誕生に関する科学的探求が進むにつれて、それがまさに宇宙的なとんでもないイベントであって、人間のスケールの遠く及ばないものだという認識が一般的になったせいもあるだろう。もっとも『神様のパズル』はそれを学生たちがやろうとしちゃうんだけどね。
 そこへコンピュータの登場である。物理的に実験できないものはシミュレーションで数値実験すればいい。コンピュータの中に銀河が作られ、その進化が研究される時代になった。SF的には、これにサイバースペースのアイデアが加わる。コンピュータの中に構築された世界。意識をダウンロードし、その中で日常生活することができる仮想現実の世界。
 仮想現実といえば、もともとはインタフェースの問題だった。こちら側(現実側)にわたしの実体がいて、視覚だけでなく、五感すべてを仮想現実にインタフェースする〈ジャック・イン〉。意識はあくまで現実の脳の中で走っており、入出力のみが仮想現実の世界にあるというイメージだった。次の一歩は、じゃあ意識もコンピュータの中で走らせたらいいというもの。自意識のコピー、ダウンロード。ここには巨大なギャップがあるが、原理的にあり得ないとはいえない。SFではむしろありきたりなアイデアだった。SF的にはロボットだって意識をもつことができるはず。ロボットの意識と人間の意識に本質的な違いがあるとは思えない。ここで、フェッセンデンのテーマは、認知科学と結びつく。意識をも含めた、生きている存在のうごめく場としての仮想現実、シミュレーションという世界がここに立ち現れる。それなら、この現実のわれわれも、どこかのコンピュータの中で走っているシミュレーションではないのだろうか?
 これまたフィリップ・K・ディックをはじめとして、古くからSF作家が取り憑かれていた、夢と現実、リアリティとアイデンティティのよって立つ基盤の相対化というテーマの現代版である。J・G・バラードが六〇年代にこれからのSFは内宇宙を目指さなければならないといった、その内宇宙が、科学的な背景をもって、ハードSF的な緻密さで描かれ得るようになったのだ。
 しかし、昔のSFとは微妙に感触が異なってきているように感じる。かつて、この世が虚構だと気付いた主人公たちは、真実の世界がどこかにあると信じ、脱出を試みようとしたものだ。自分の意識のみは間違いない現実だということを拠り所として(そこをさらに混乱させ、読者を不安に陥れさせる作品も多く書かれたが)。ところが今では、現実と仮想現実に根本的な差はないことが前提となった作品が増えているように思える。ゲームだと思っていた世界が現実だったとわかっても、自分自身がコピーだとわかっても、わりあい簡単にそれを受け入れてしまう。これが単に仮想現実の概念が一般化したせいなのか、それとも大きな世界の現実よりも目の前の小さな、しかし自分に直接関わる出来事の方が重要だと考える人々が増えているせいなのか、それはわからないが。

 さて、こういった傾向の作品を、最近のものを中心に紹介することにしよう。とはいっても、中にはここで紹介すること自体がネタバレになってしまうような作品もあり(有名なホラー小説がそうだったりする)、要注意である。そのあたりには気をつけるつもりだが、テーマがテーマだけに、気になる人は読み飛ばした方がいいかも知れない。

■グレッグ・イーガン『しあわせの理由』
■グレッグ・イーガン『祈りの海』
■グレッグ・イーガン『順列都市』
         (以上、ハヤカワ文庫SF)
 まずはイーガンである。長編『順列都市』は最もストレートにこのテーマを扱っており、邦訳された中でのこのテーマの最高傑作だといえる。ここではソフトウェア化され、コンピュータ内にダウンロードされた人間たち(コピー)が主役となり、様々な思考実験が描かれる。例えば、コピーのソフトが現実のコンピュータ内で動く時間や、その順番が、コピーの意識に及ぼす影響とか。そしてさらに、単なるコンピュータ・シミュレーションから、宇宙そのものの構造に至るまで話が発展していく。ただ、素晴らしい傑作ではあるのだが、ちょっと取っ付きづらいところがあり、やや上級者向けといえるだろう。その点、短編なら初心者でもお勧めできる作品が多い。
 イーガンの作品は基本的には人間のアイデンティティとモラルの問題を扱っている。つまり、〃人間性というものが実は物質にすぎなくても、自意識というのがコンピュータの見る夢と変わらなくても、それにもかかわらず人間らしく生きることは大切ですよ〃ということだ。「しあわせの理由」は、しあわせも人間的な感情も、化学物質がもたらす反応にすぎないことをあからさまに描いた作品だが、それがこれだけ高い評価を受けるのは、そのことを理解しつつ、にもかかわらず〃共感〃が人間性の本質にあることを示しているからではないだろうか。最新短編集『しあわせの理由』の中では、他に「移相夢」「ボーダー・ガード」が、その前に出た短編集『祈りの海』では「ぼくになることを」「誘拐」「無限の暗殺者」がこのテーマを扱っている。なお、短編集に収録されていないが、SFマガジンに掲載された「ワンの絨毯」もこのテーマの傑作である。「ワンの絨毯」が載った九八年一月号にはハミルトンの「フェッセンデンの宇宙」も再録されているので、古本屋で見かけたらぜひ入手されることをお勧めする。

■テッド・チャン『あなたの人生の物語』 (ハヤカワ文庫SF)
 イーガンとくれば、お次はチャンである。チャンの場合、イーガンほど明確にこのテーマを扱っているわけではないが、「顔の美醜について」ではありのままの現実が必ずしも意識される現実と同一ではないことが描かれ、また「地獄とは神の不在なり」では、宇宙を統べるルールが人間の意志とは無関係にある中で、自らの人間性を貫こうとする人々が描かれる。この作品は、マッドなフェッセンデンに作られてしまった宇宙の中で、それでも生きざるを得ない人間の物語として読むと面白い。

山本弘『神は沈黙せず』 (角川書店)
 この宇宙がもしどこかにいるフェッセンデンによって作られたものだとしたら、超常現象はプログラムのバグかも知れないし、あるいはわれわれには理解できない〃彼〃の意図によるものかも知れない。本書では、と学会会長としての著者の超常現象に関する知識が縦横無尽に描かれ、それが常識的な科学と衝突するところにひとつの解釈が明快に下されている。とてもストレートな力作で、とりわけ様々な超常現象が次から次へとノンフィクションのように描かれるところが圧巻だ。

小林泰三『目を擦る女』 (ハヤカワ文庫JA)
 短編集だが、このテーマを扱った傑作「予(あらかじ)め決定されている明日」が収録されている。仮想現実というのはコンピュータの中で計算された世界である、とわれわれは認識している。ならば、そろばんとメモ用紙でも、紙と鉛筆でもそれと同じことができるはずだ、という発想がすごい。情報というのは実際そういうものなのだから、これは全く正しいのだ。もうひとつ、実は計算しなくても答えはあらかじめ決まっている(πの100億桁目の数は実際に計算しなくても決まっているはずだ)、であれば仮想世界はあらかじめ決定されているはずというアイデアもある。ユーモラスな語り口で、非常に奥深い内容の一編。

機本伸司『神様のパズル』 (角川春樹事務所)
 第三回小松左京賞受賞作。大学生たちが本当に宇宙を作ってしまう話なのだが、それがいい感じの学園小説と溶け合っている。もっともイーガンなら本当に本当の宇宙を作ってしまうところが、本書では一応シミュレーションにとどまっている。SFとしては徹底していないのだけれど、でも宇宙論みたいなものと日常的な人間の営みとの接点を人間の側から描いた小説として、とても共感をもって読むことができる。

菅浩江『アイ・アム』 (祥伝社400円文庫)
菅浩江『プレシャス・ライアー』 (光文社カッパノベルス)
 『アイ・アム』は近未来の介護ロボットの意識をめぐる話だが、ロボットの魂といった問題を頭で考えるというより、病院のリアルな生と死の存在する場において、ストレートで生な問題として捉えた作品である。他者の意識とは結局チューリングテストでしか判断できないものだという議論があるが、では痴呆の老人は、植物状態の病人は、チューリングテストに答えられないから人間ではないのか? もちろんそんなはずはなく、人間とは身近な他者との関係性や本人の過去(あるいは未来の可能性)も含めた時空連続体として捉えるべきだとの主張がここにはある。
 『プレシャス・ライアー』は近未来ハードSF。一言で言えばバーチャルリアリティものなのだが、よく調べられていて、アングラサイトでの闘いなど、いかにもありそうな感じで面白い。現実と仮想現実の関係(作中ではシニフィエとシニフィアンという表現も出てくる)や、創造性の問題(オリジナリティと順列組み合わせ)、芸術性の問題などを巡るテーマがわかりやすく描かれている。

飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使1』 (ハヤカワSFシリーズJコレクション)
 AIたちが暮らすバーチャルな夏のリゾート地。人間が来なくなって千年、AIたちは変わらぬ夏の日を平和に過ごしていた。だがある日、地獄が訪れた。どこからともなく〈蜘蛛〉が現れ、町を破壊し人々を残酷に殺戮し始める。仮想現実の中であっても人々の痛み、苦悩する心はまごうことなき現実である。圧倒的な〈雰囲気〉に満ちた作品だ。

 ここに挙げた他にも、このテーマを扱った作品は多い。林譲治『記憶汚染』(ハヤカワ文庫JA)、北野勇作の多くの作品(「手のひらの東京タワー」や「西瓜の国の戦争」など)、中井拓志『アリス』(角川ホラー文庫)、コニー・ウィリスの『航路』(ソニー・マガジンズ)も、直接的にではないが、このテーマと関連して読むことができるだろう。

 2004年1月


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