持続するヴィジョン 鋼鉄のエコロジー
  ――ジョン・ヴァーリイの世界――

 大野万紀

 早川書房「SFマガジン」94年9月号掲載
 1994年9月1日発行
 


 「あと五年以内にペニスは時代遅れになります」

 ヴァーリイの最新長編『スチール・ビーチ』は、こんなショッキングな(そしてちょっと下品な)書き出しで始まる。もっとも、ヴァーリイの作品を読み慣れている人なら、なんだいつものヴァーリイ節だと、かえって安心するかも知れない。
 この言葉は、男性でも女性でもない第三の性への転換を売り込もうとする、未来の営業マンのセールストークなのだ。
 ヴァーリイの世界はこのような意表をつくアイデアにあふれている。いや、アイデア自体は決して目新しいものではない。性転換、クローン、人工知能といった、SFではごくありふれたアイデアが、ヴァーリイの世界では新たな光を当てられ、そこから、現在の我々にとってはきわめて異様な、もう一つの日常世界が作り上げられているのである。
 もう一つの日常世界。同じ人間が何度でも死んだり、男が女になったり、セックスが挨拶がわりだったり、教師はプロの子供であったり、母親はいるが父親というのはもはや言葉だけの存在だったり……。
 あるいは、万能のコンピュータが人々と気安く口をきき、月の地下に過去のカンサスやニューオーリンズが再現され、異星人の情報ホットラインから無制限に新技術を獲得し、ナル・フィールドに包まれて裸で水星の水銀の池で遊び、土星のまわりの宇宙空間に適応した人類の集団がおり……。
 〈八世界(エイト・ワールド)〉シリーズに最も顕著に現れているこれらの設定が、ヴァーリイ作品の基本的なムードを規定している。それは、(舞台裏も含めた)ディズニーランドの雰囲気だ。もう一つの日常世界といいながら、こちらの世界に生きる我々にとっては、それはSFのセンス・オブ・ワンダーにあふれた驚きの世界なのだ。

 『スチール・ビーチ』(1992)は八年ぶりのヴァーリイの長編である。七〇年代後半の、あの珠玉の短編群と長編の奔流の後、『ティーターン』(1979)『ウィザード』(1980)そして未訳の『デーモン』(1984)の長編三部作を書いてからは、八六年の第三短編集『ブルー・シャンペン』を残して、彼は我々の前から姿を消したも同然の状態だった。
 その間、ヴァーリイはハリウッドで仕事をしていた。映画化された自作のノベライゼーション『ミレニアム』(1983)は邦訳もされているが、その他の多くの脚本は、結局日の目を見ることなく埋もれてしまったようだ。

 ジョン・ヴァーリイは「古い」作家である。デビューは七四年(おお、ということは、今年がデビュー二〇周年にあたるわけだ)。基本的なアイデアも五〇年代までさかのぼるSFの伝統的な文脈の中にある。ハインラインに心酔し、作品中でも臆面もなく彼へのオマージュを繰り広げている。ヴァーリイの多くの作品に出てくる月のセントラル・コンピュータ(CC)は、疑いもなくハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』に出てくるマイクの正当な後継者である。このサイバーパンクな分散ネットワークの時代に、いまだに〈セントラル・コンピュータ〉なんて時代錯誤なしろものが出てくるなんて、とコンピュータ屋なら笑うかも知れない。確かにヴァーリイはコンピュータの専門家ではない。「PRESS ENTER■」でもおかしな所がいくつか見受けられる。最近のインタビューでも、いまだにワープロすら使っていないと話していた。
 そう、ヴァーリイは古い作家であり、コンピュータ・ウィザードなどではない。でも四倍角の大文字で書くべき「SF」作家である。そのヴィジョンは伝統的なSFの力に満ちている。だからこそ、個々の具体的描写の弱点にもかかわらず、彼のSFに出てくるコンピュータは過去から未来へのSFのコンピュータのイメージすべてを包含しているといっていいのだ。ついでにいっておけば、CCがただ一つの巨大コンピュータであるというような描写はどこにも出てこない。それは実はハインラインのマイクにしたってそうなのだ。むしろ多くの機械が複合したネットワークの総体として、それは描かれている。ヴァーリイの「古さ」は、むしろそれがとても人間的なところにある。饒舌で、好奇心旺盛で、わがままで、基本的には「いいやつ」なのだ。ヴァーリイのコンピュータには、CCのような人間の友人となるなつかしいタイプの巨大知性や、「汝、コンピューターの夢」で描かれたような、サイバーパンクにも通じる人間のソフトウェア化、さらには「PRESS ENTER■」のような、普通の人々の根元的なコンピュータ恐怖に訴えかけるものまで、様々な幅がある。そしてそれは、すべてSFの伝統的な文脈の中から出てきたものなのである。
 コンピュータだけではない。第一短編集『残像』の前書きで、アルジス・バドリスはそんなヴァーリイの特質を次のように要約している。

 みなさんはヴァーリイの作品に、全SF史の跡を見出されるであろうし、それは当然であると思う。この男は、彼以前のSFのすべてを正々堂々と受けついでいる。彼が我々のもとへ来たのは、近頃SFに人気があるからではなく、彼がSF人間だからだ。(中略)SFもまた、勇敢に言ってしまえばパーシステンス・オブ・ヴィジョン、つまり持続するヴィジョン(=残像)を持ちつづけて来たということだ。 (冬川 亘訳)

 そんなヴァーリイのヴィジョンはデビューから二〇年たった今日でも、首尾一貫して持続しているといっていい。それは『スチール・ビーチ』を読めばわかる通りである。そこには過去のSFからの残像が、そして過去のヴァーリイ自身の作品からの残像がこだましているのである。

 だが、ジョン・ヴァーリイは「新しい」作家である。昔ながらのアイデアが、彼の手にかかるとまるで魔法にかかったかのように目新しい姿に変身してしまう。それはヴァーリイの視点がノスタルジイの方向にではなく、常に現在から未来への方向を向いているからだ。彼の問題意識はいつも新しい。ぼくは『残像』の解説で「同時代性」という言葉を使った。それは七〇年代後半の、いわば「ホテル・カリフォルニア時代」の同時代性だったのだが、彼の時代は決してそこに留まるものではなかった。
 ぼくのように、彼のデビューに居合わせ、リアルタイムでその作品を追っていった者には、「七〇年代の作家」としてのヴァーリイの印象が強烈で、つい思いが過去に向かいがちになる。彼の作品に描かれる奇抜な「人間性の変容」にしても、作品の底流として流れる「やさしさ」の感覚にしても、一種のあきらめに似た、未来を棚上げにして今を生きようとする「モラトリアム」の気分にしても、そこには七〇年代の匂いを強く感じとってしまう。しかし、それだけでは、ヴァーリイは過去の作家として消えていくしかなかっただろう。
 七〇年代の作品にもすでに八〇年代の、あるいは九〇年代の同時代性が先取りされていたのである。そしてもちろん現在の作品には現在の、そして未来の同時代性がある。
 山岸真氏は第二短編集『バービーはなぜ殺される』の解説で、この点にふれている。

 けれど、これを現在の、八〇年代の目で読むと、また違った魅力がみえてくるように思うのだ。ぼく自身が本書を読みながらとくに目についたのは、最近のサイバーパンクの作家たちとの共通性である。
   たとえば、表題作や「バガテル」、「さようなら、ロビンソン・クルーソー」などにみられる、身体改造がごくあたりまえにおこなわれている社会は、スターリングの諸作を連想させる。また、クローンや記憶移植がなんの抵抗もなく受けいれられるといった設定の底には、人間を情報に還元してとらえていくギブスンらの考え方と同じものがあるといえるだろう。これまで、ヴァーリイの作品のなかで性転換が日常化していることはしばしば語られてきたが、このような〃人間の定義〃を平気でなしくずしにしていく面でのアモラルさもかなりのものである。
  (中略)
 それでも、ヴァーリイの作品が、発表当時に思われていた以上に新しく、それこそ未来的なものだったということはいえるのではなかろうか。
 一方で、これとはべつに思うのは、ヴァーリイの作品の同時代性ということだ。
  (中略)
 ヴァーリイの同時代性は七〇年代だけにとどまるものではない。ヴァーリイは、つねに時代を鋭敏にとらえつづけている作家なのである。

 そして、九〇年代の同時代性についてはどうか。これは、ぜひ若いみなさんに読んで判断していただきたいところだ。

 ところで、ジョン・ヴァーリイは「ハードな」SFの作家である。「ハードSFの」作家だというのではない。彼の作品には科学的・技術的なディテールの説明はほとんど出てこない。しかし、背景に描かれている科学技術は、どうしてそんなものが可能になったのかということは別にして(ハードSF作家ならそこを細かく書くだろう)、もしそんなものができたとしたら、確かにこうなるかも知れないと思わせるだけのもっともらしさを備えている。〈八世界(エイト・ワールド)〉シリーズでいうなら、まず、その太陽系社会の背景設定がある。今となっては二〇年前の衝撃はわかってもらえないかも知れないが、当時惑星探査機パイオニアが送ってきた(その後のボイジャーの写真とは比べものにならないけれど)木星や土星の近接写真は、太陽系に関する認識を新たにするものだった。当時の宇宙SFは、その多くが太陽系などすっとばして、遠い銀河の彼方に行ってしまっていた。けれどもNASAの活動で、太陽系が実に面白い舞台であるとあらためて認識されたのだ。それはちょうど八〇年代にコンピュータの内部にサイバースペースという新しいSFの舞台が「発見」されたのと同じようなものだった。その新しい太陽系諸惑星を背景にしたのがヴァーリイのSFだった。

 彼はあるインタビューで、「火星や土星に関する諸発見のニュースによって、あたかも太陽系の新しい図といったものが融合していくように思えた」と語っている。「そういった科学的な新発見に基づいてストーリーを書き続けていったら、興味深いものになると思った」と。一方で「これらのことは、ぼくの心の中ではすばらしいバックグラウンドとして存在しているが、それはあくまでもバックグラウンドであって、ぼくとしては、人々がそこでどのような生活をしてくのか、そのほうにより興味を覚える」とも語っている。
 コンピュータや人間の情報化についてもそうだ。あるいはクローンやバイオテクノロジーについても。彼のSFは明らかにサイエンス・フィクションである。ただ舞台設定としてコトバだけ科学の成果を使うだけでなく、人々の生活のバックグラウンドとして正しく機能するように、その世界構築を行っているのである。もちろん彼はSF作家であって科学者ではないから(大学で物理を学んではいるが)、細かな部分の正確さには欠ける面もある。けれど全体のシステムとしては、きちんと理解した上でSF的な飛躍を行っているといっていいだろう。さきほどのインタビュー(「SF宝石」八〇年一二月号掲載)で、彼はこういっている。「ふつう作家は、登場人物が説明しなかったこと、たとえば〈電話〉について、ダイヤルがどう回るとか、世界各国のスイッチ・システムがどのように動くとか、回線が衛星に集積し、そこからヨーロッパに届くとかについて、四、五ページを費やしてしまいがちなものなんです。そういう場合、ぼくならただ、受話器を取り、話をした、と書くだけですね」

 なるほど、ハードSF作家なら、例えば国際電話のシステムに関して、細かな技術的ディテールを説明したくなるだろう。そこには科学のワンダーがある。それはそれで好ましいことだといえる。ヴァーリイはただ電話したと書くだけだというが、読者にそれがリアルに感じさせるためには、そのバックグラウンドが、例え作中で細かな説明をしなくても、きちんと考察されていなければならないことはもちろんである。
 ヴァーリイの初期の作品では、人類が太陽系のくず惑星に適応した(せざるを得なかった)ための諸技術について、詳しい説明はなされていない。最近の作品では、そのディテールについて、いくつか新しい情報が加わっている。例えばナノテクノロジーだ。ナノテクノロジーの導入で、確かにヴァーリイ世界は補強され、その超技術はより説明しやすくなったといえる。でも、本質的には七〇年代に書かれていたものと、バックグラウンドのシステムは何も変わっていないのだ。つまり、〈八世界(エイト・ワールド)〉の世界構築は、それほど完成されたものなのである。

 しかし、ジョン・ヴァーリイは「ファンタジイな」作家である。これは何も『ティーターン』三部作のことをさしていっているのではない。『ティーターン』三部作は、ファンタジイではなく、SFである。しかし、そこで繰り広げられる物語が、きわめて通俗的なファンタジイに近い、ということもまた事実である。このことは、ヴァーリイを批判する人たちにとって、格好の攻撃材料を与えることとなった。

 その前に断っておきたい。ここで「ファンタジイ」と呼んでいるのは、七〇年代から八〇年代にかけてアメリカで流行した、お手軽で現実逃避的な商業的量産品のことである。それらがすべてつまらないというわけではないし、そういう渾沌の中にジャンルの活力や健康さが現れるということも否定はしない。しかし、「現実逃避的」というのは、SFをシリアスに考えていこうとする硬派の批評家たちにとって、致命的な言葉だった。彼らはこの種のファンタジイをSFの敵とみなした。〈ファンタジイ汚染〉という、聞きようによっては恐ろしく傲慢で差別的な用語が、当時の戦闘的なファンジンに掲載されたものだ。また、そういった中から、サイバーパンクに向かう潮流も現れてきたのである。
 もともとSFこそ、世間から「現実逃避的」で、「子供っぽい願望充足的」なものとして批判されてきたものだ。SFにそういう側面があることを、きっぱりと否定できるSFファンは数少ないだろう。そこから脱皮し、SFをシリアスで重要な未来の文学として認められるよう活動してきたのが、六〇年代のニューウェーブを支えた作家や批評家たちだった。彼らにとって、時代に逆行するような動きは苦々しいものだったのである。
 ヴァーリイが書くのはそんな単純な「ファンタジイ」ではなかった。しかし、だからこそ、彼らはヴァーリイのSFの中の「非現実的」な要素を「ファンタジイ」として激しく批判したのだ。

 それにはうなずける部分もある。例えば、ヴァーリイの主人公はほとんどが女性である。けれども、それは女性として描かれているというだけであって、実際のところ、彼女たちは現実の女性とはいえない。それは多くの女性読者が、ヴァーリイのヒロインには感情移入できないと述べていることからも明らかだろう。実際、彼女たちは性転換が服を着替えるように気楽に行われる世界での女性であり、我々が現実の世界で知っている女性とは別の存在なのである。
 ヴァーリイの世界では、現在の様々な人間的な問題――例えば性の問題――が一応解決したものとして、ある意味で棚上げされている。大きな社会的・心理的変革があり、今の我々が抱えているリアルな問題は、彼らにとっては過去の遺物となっているのである。これはやはり、ちょっとずるい態度だといえるだろう――ぼくもそう思う。そして、硬派の批評家たちはヴァーリイのこのような態度を激しく非難した。安易で非現実的であり、不真面目だというのだ。ヴァーリイ世界の日常生活は、我々の現実の日常とリニアにつながらない。ヴァーリイ世界の登場人物たちが抱え、悩む様々な問題は、我々が素直に感情移入できるものではない(でも彼らの楽しみや喜びは、我々にとっても同じく楽しそうに見えるものだ)。それは、現実と無縁なファンタジイの世界での、ヴァーチャルな悩みや問題なのである。

 では、それはやはり無意味なくだらないものなのだろうか。いや、決してそんなことはない。ヴァーリイは現実の問題から逃避しているわけではないのだ。確かに正面きってぶつかってはいないかも知れない。けれど、読者は知らず知らずのうちに、ヴァーリイの世界と現実の世界の違いをいやでも意識させられるのである。ヴァーリイは現実に無関心などころか、一見楽天的で心地よい世界の中で、したたかにシビアな認識の変革を迫るのだ。

 いささか枚数を超過してしまった。「ハイでポップな」作家としてのヴァーリイ、そして「グロテスクでフリークな」作家としてのヴァーリイについても述べる予定だったのだが、それはまた別の機会としよう。

 ヴァーリイは未来の変化が決して線形なものではないことを理解している。我々を取りまく環境はもはや自然のものではなく、進化は様々な断絶の上に成り立っているのだ。
 『スチール・ビーチ』というタイトルは、進化の、あるいは適応の隠喩となっている。かつて、魚たちが海から陸へ上がっていったように、人類は鋼鉄の浜辺へと上がっていくだろう。それはSFでおなじみの、海から陸へ、そして陸から宇宙へという、輝かしい前進を表すものではない。陸へ上がらざるを得なかった魚たちとは、命あふれる豊かな海を追われたものなのだ。そして人類は母なる自然から追われ、自らが作り出した鋼鉄の環境へと適応を迫られる。緑豊かな地球は、いまや異星人のものなのだ。
 『スチール・ビーチ』の原書の表紙には、月の真空の中で舞う蝶の姿が描かれている。それは鋼鉄のエコロジーの中で生きざるを得ない、人類の未来を象徴しているのである。

 1994年7月


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