日本SF作家クラブ編『ポストコロナのSF』書評

 大野万紀

 早川書房「SFマガジン」21年8月号掲載
 2021年8月1日発行


 本書は新型コロナのパンデミックを契機として、SF作家たちが取り組んだ十九編の短編を収録するオリジナルなテーマアンソロジーである。また巻末にコロナ禍の中での日本SF大賞をめぐる貴重な実録として鬼嶋清美「SF大賞の夜」も含まれている。

 十九編はいずれも読み応えがあるが、大きく三つのパターンに分けられる。まずは現実のコロナ禍を直接引き継ぐようなリアルなパンデミックを扱った作品。柞刈湯葉「献身者たち」では感染症が紛争地に蔓延する中、派遣された主人公が現地で臨機応変に医療活動を行うのだが、現場のリアリズムと一般的な倫理との相剋が描かれていて重い。またここで考察されている一歩先の未来は科学的・SF的にも興味深いものがある。

 次に、コロナ禍で否応なく可視化された現代社会の矛盾を投影した作品。数としてはこれが一番多い。何しろほんの一、二年前には考えられなかったようなことが日常となったのだから。高山羽根子「透明な街のゲーム」では人が外出しなくなった街で、与えられたテーマの動画を撮影するゲームが描かれ、新たな日常なるものを生きる透明な人々と、そうでない異物との遭遇が物語を生む。若木未生「熱夏にもわたしたちは」は、人と人の直接的な触れあいが避けるべきものとなった社会で、仲の良い二人の少女がいっしょに銭湯に行くというだけの話なのだが、少女たちの心の戸惑いや喜びを追い、変化するものとしないものを描く。さわやかで熱い物語が心地良い。菅浩江「砂場」では、幼い子供たちを砂場で遊ばせる親たちに感染症が深刻な影を落とす。自由が抑圧されるディストピアを、感染症から自分や家族を守るためには肯定せずにはいられないという悲劇。

 直接的なコロナ禍から離れ、より自由な発想で描かれた作品も多い。立原透耶「書物は歌う」は三十を越えるとみんな死んでしまい子どもばかりになった世界で、子どもたちのいる図書館や本屋が動き回り、歌を歌うという幻想的な物語である。飛浩隆「空の幽契」では人口が激減した東京で、認知症の元ダンサーが創作した遥か遠未来の、猪のような姿になって地上に生きる人間と翼人となって空に生きる人間の物語が語られる。劇中劇として描かれるこの遠未来パートのイメージが鮮烈で、強靱な物語性があり、これはぜひ長編化してほしい。樋口恭介「愛の夢」も遥か未来の物語である。変異していく疫病との戦いに疲れ、機械たちに文明の存続をまかせて眠りについた人類。それから千年の時がたち、生態学的ユートピアを築いたネットワークは再び地球に人類を迎え入れようとするのだが……。タイトル通り、美しい夢のような物語である。津原泰水「カタル、ハナル、キユ」は感染症もその要素の一つではあるが、架空の民族、架空の楽器、架空の習俗を扱った架空論文のような音楽SFだ。最後にわかる「楽譜」の意味には戦慄する。
 もっとぶっ飛んだ話もある。天沢時生「ドストピア」は、スペースコロニーで「タオリング」という格闘技を営むヤクザを描いた、密度と熱気とパロディ度の高い任侠ギャグSF。カタギ警察なんて言葉も出てくる。

 最後に、まえがきにある池澤春菜日本SF作家クラブ会長の次の言葉で締めくくろう。「ほらね、小説は事実よりずっとずっと奇なり、だよ」。

 2021年6月


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