ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『あまたの星、宝冠のごとく』.書評

 大野万紀

 早川書房「SFマガジン」16年6月号掲載
 2016年6月1日発行


 本書はティプトリーの実質的には最後のものとなった短篇集である。亡くなった翌年、一九八八年に刊行された。収録された十編のうち、「いっしょに生きよう」を除いた九編が本邦初訳である。これまでティプトリーの作品を読んで共感した人、ショックを受けた人、面白いと思った人にはぜひ読んでほしいし、本書で初めてティプトリーに触れるという人も、本書を読んだあと、過去のめくるめくような作品を手にとって、ティプトリーの様々な魅力を知ってほしいと思う。

 収録されているのは(書かれた時期が古いものも含まれているが)ほとんどが晩年の作品である。そのためか、かつてのような、鋭くエッジの効いた刃物で切り刻まれるような感覚ではなく、重い鈍器でゆっくりと叩かれるような、ずっしりと響く読後感がある。それは、〈年老いた霊長類〉の、老獪で底意地の悪い視点と、それと裏腹な、諦観を秘めた優しさや穏やかさ(それは残酷な現実を見つめる重い眼差しでもあるのだが)のためなのだろう。

 キリスト教的、神話的なアイコンが多く見られるのも特徴である。でもそれは、老いた彼女が信心深くなったなどというものではなく、むしろ現世的な日常と、少し斜め上にある異界とをつなぐものとして、唯一絶対の神ではなく、多神教的、相対的な視点を導入したものだといえる。たとえば、神と人とをとりもつ異星人が登場する「アングリ降臨」、神が死んだあと悪魔はどうするかというユーモラスな「悪魔、天国に行く」、惑星を擬人化し、神話的な存在に恋する「地球は蛇のごとくあらたに」、さらに死後の世界や死神を身も蓋もない寓話として描く「死のさなかにも生きてあり」やネタバレになるので書けないもう一編にも、それは現れている。

「悪魔、天国に行く」の、死んだ神の後を継ぐ存在が興味深い。あらゆる感覚を失うことで力を得る神とは、ドーキンスのいう〈盲目の時計職人〉と同じもの、すなわち意志のない、自然そのもの、〈冷たい方程式〉である科学法則という神なのである。

 多くの作品ではまた、自らにとっての「自由」をひたすらに探し求める主人公たちが描かれる。それはありきたりの自由ではなく、もっと超絶した、雲上人たちの自由だ。そうでなければ満足は得られず、それは日常的な幸福や不幸を超越している。決して成就されないその望みは、周囲に不幸と悲劇をまき散らしていく。そこにはティプトリー自身の生涯も反映しているのかも知れない。社会の、家族の、様々なくびきから逃れようと苦闘する中で、人も自分も傷つけてしまう。性差、階級差から、さらに地球や宇宙といった巨大な存在へまでそれは広がっていく。「肉」や「ヤンキー・ドゥードゥル」のようなわかりやすい作品もあれば、「すべてこの世も天国も」のような社会システムに関する皮肉な寓話、「もどれ、過去へもどれ」の、自らの選択による救いのない悲劇のように、単純に読むだけではその真意にたどり着けない作品もある。「いっしょに生きよう」はそんな中にあって、唯一ハッピーエンドな、ほっとする話だと思えるかも知れない。だが実は、これもまたぞっとする話である。肉体は重要ではなく、意識は外部から注入される。その二重性は「接続された女」からずっと続く、ティプトリー自身のトラウマのようにも思える。

 2016年3月


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