『深紅の碑文』――朱雀の物語 

 大野万紀

 早川書房「SFマガジン」14年2月号掲載
 2014年2月1日発行


 あなたはすでに結末を知っている──。
 大地から吹き上がる灼熱の巨竜のようなマグマ。地球を覆うプルームの冬。陸を海を逃げ惑う人々。それでも力の限り、姿形を変えてまで生き残ろうとする最後の人類の姿を。
 そして、人々の心を託されたアシスタント知性体たちが、遠い未知の惑星に向かって、長い長い宇宙の旅を続けていることを。
 あなたはまた、始まりも知っている。
 リ・クリテイシャス。ホットプルームによって引き起こされた海面上昇によって平地の大半が海面下に沈み、その未曾有の混乱から生き残った人々が、海上民と陸上民に分かれて新たな文明を築いた二十五世紀の世界。
 そこでは、残された陸地と海上都市の上で高度な情報社会を営む陸上民の国家と、遺伝子改変により海の生活に適応した海上民の社会との間で、激しい対立が生じていたことを。そしてその対立を緩和しようと、それぞれの立場から努力していた人々がいたことを。
 だが、あなたがまだ知らなかった物語もあるのだ……。

 長篇『華竜の宮』、そして短篇「魚舟・獣舟」「リリエンタールの末裔」「完全なる脳髄」で描かれた数々のエピソードによって、この未来史(Ocean Chronicle 、略して《OC》シリーズと著者は呼んでいる)の世界観は明らかになった。けれども、まだ書かれていなかった時代があった。それが〈最後の四十年〉、『華竜の宮』の最終章からエピローグにいたる空白期間である。
 『深紅の碑文』は、その四十年間を、〈大異変〉の到来を目前にしての、人々の最後の闘いを描いた作品である。著者によれば《OC》シリーズの長篇部分はこれで完結とのことだ(ということは、短篇、中篇としてはまだ書かれる余地があるということですね)。
 『華竜の宮』と同様、ここでも物語は複数の主要人物の視点によって、多角的に描かれている。まずは、単なる海上強盗団であることを越え、陸上民に対する海上民の過激な戦闘組織となった〈ラブカ〉の、冷たい情熱を秘めたリーダー、ザフィールの物語だ。彼はもともと人々の命を救う心優しい医者だった。それがどうして冷酷に陸上民の船を襲撃し、民間人までも皆殺しにする残忍な殺戮者となったのか。その暗い過去と共に、ある意味ロマンティックな、海の冒険者としての物語が描かれる。
 そして彼と対峙するのは、『華竜の宮』でも主人公の一人だった青澄である。現実主義者の外交官でありながら、海上民と陸上民が融和し、共に〈大異変〉へ立ち向かう未来を目指して、海上民のための海上都市群マルガリータを建設し、公務を退いてからは人道支援とビジネスを合体させた救援団体パンディオンを設立して、その理事長を務めている。彼は救援船がラブカに襲われた時には警備会社にその殲滅を指示する一方で、海上民の就業を支援し、〈大異変〉後の人類の生き残りのために、時には国家権力や闇の勢力とも手を結び、アシスタント知性体のマキと共に、厳しい信念をもって来るべき破滅に立ち向かおうとする。
 遠い未来の物語であっても、ここには現実の民族紛争、原発事故、グローバル経済などの問題がくっきりと影を落としている。そのことも興味深い。
 もう一つ本書では、ザフィールや青澄らのリアルな対立軸とは別に、人類が築いた文明の存続に向けた、宇宙への夢が語られる。それが〈大異変〉の到来時に働き盛りを迎える、若い世代の物語である。機械が大好きで、後に人類の遺産を他の恒星系へ残そうとする深宇宙研究開発協会のメンバーとなる、星川ユイ。そして彼女とその友人たちの青春学園ドラマだ。
 このパートには、ザフィールの血塗られた冒険や、青澄の重い大人の現実とは異なる、すがすがしい若い風が吹き込むような印象がある。それは科学技術の未来を肯定し、日々の現実を越え、遙かな高い空を見上げようとする視点だ。
 社会へ出てからも、ユイはその視点を忘れない。「リリエンタールの末裔」の主人公だったチャムも、年老いたエンジニアとして、彼女に大きな影響を与える。それは目の前の現実を見据えながらも、遙か遠い先を、宇宙の彼方を目指そうとする眼差しである。

 『華竜の宮』が、海の青さを象徴する青龍の物語だったとすれば、『深紅の碑文』は血と炎の赤、人々の情熱と未知への飛翔を象徴する火の鳥、朱雀の物語である(ということは、後、書かれざる物語として、白虎と玄武の物語があるのかも知れない。もしもそれが書かれるとするならば、白虎は〈プルームの冬〉で凍結した未来の地球を、そして玄武は暗く静寂に包まれた宇宙の闇を描くものではないだろうか)。
 経済と政治、組織と個人、夢と現実、過去の呪いと未来への希望、ヒトとヒトに在らざるもの。そういった様々な観点が交錯しつつ、この壮大なクロニクルは終わりを迎えた。だが、まだ生きて世界を見続けている人々がいる。例え自らが滅びても、その生きた証が、われわれの遺伝子(ジーン)と想像力(ミーム)は生き残るだろうと信じる人々が。
 あなたはその結末を知っている──。

 2013年12月


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