成熟と多様化の10年 70年代SFの諸相

 大野万紀

 早川書房「SFマガジン」00年10月号掲載
 2000年10月1日発行


 一九七〇年代を語るキーワードには、けっこう暗く、後ろ向きなものが多い。しらけ、挫折、内向、ミーイズム、モラトリアム、逃避的で自己中心的なライフスタイル、おまけに石油ショックだ公害問題だとくる。当時を生きてきたぼくらからすれば、何でそこまでいわれるの、というくらいのものだが、まあ客観的にはそういう時代の雰囲気があったと認めざるを得ない。六〇年代後半からの、変革を求める全世界的な盛り上がりが、なにやら期待はずれなまま腰砕けとなり、ベトナム戦争が終わってみれば今度はそのベトナムと中国が戦争したりして、理想と思っていた社会のあり方も色あせ、かといって現実世界の難問はこつこつと地道に取り組むには荷が重すぎる、人類は月までいったのに、その道は後へと続かなかった。しらけ鳥は南の空へ飛んでいき、ホテル・カリフォルニアには居心地のいい牢獄(ゲットー?)の中でまどろむ亡霊たちがいる。

 ま、それはともかくとして、六〇年代のニュー・ウェーヴを支えてきたディッシュのような作家たちが、七〇年代の、現実に背を向けた自己完結的なファンタジイの世界に夢を紡ぐがごとき大半のSFの現状にいらだちを覚えたのもわかる気がする。そろいもそろって大崩壊後の世界や遠い異星の、現実と切り離された世界を舞台にし、寓話的、おとぎ話的、逃避的な物語に終始して、しかもそのテーマとは、つまらない個人のライフスタイルに関わるものだ……というように。いや、ディッシュが直接そういったわけじゃないが、七〇年代のSFシーンに対する否定的な意見はおおよそこんな風に集約できるのじゃないかと思うのだ。それはまた、八〇年代の、サイバーパンクを推進した連中が否定しようとしたものでもあるだろう。現代のSFは時代のリアルを描かなければならない、サイエンスであれ、テクノロジーであれ、社会や人間のあり方であれ……と。そのリアルがコンピュータ・ネットワークのことだったかどうかはまた別の話。

 しかし、七〇年代SFとひとことでいっても、そんなに簡単にまとめられるものではない。前半と後半ではかなり様相が異なるといっていいし、そもそも七〇年代SFの一番のキーワードは多様化というものだった。ほとんど爆発的といってもいい出版点数の増大があり、ブームがあった。〈浸透と拡散〉の時代なのである。平均値で論じれば、七〇年代のSFはつまらない水増しされた作品ばかりだったということになりかねない。しかし、ジップの法則に従う全体の一〇%(スタージョンの法則といいかえてもいい)は、いずれも個性的で、時代を超えた魅力のある、優れた作品に違いないのである。

 本稿では、そういう作品の中から、七〇年代を代表するような傑作・秀作をものした作家たちを、いくつかの切り口に沿ってまとめてみたいと思う。個々の作家や作品については他のページで詳しく取り上げられているはずなので、ここでは名前を挙げるにとどめる。

【新しい波のひいた後】

 七〇年代に入って、運動としてのニュー・ウェーヴは急速に終息に向かった(バラードやムアコックは傑作を書き続けたし、ディッシュやマルツバーグ、スピンラッドもニュー・ウェーヴ的な作品で注目を浴びている。終わったのは党派としての、あるいはブームとしてのニュー・ウェーヴだ)。それに呼応するかのように、ニュー・ウェーヴの影響を受けたベテランたちも、意欲的な力作を次々と発表しはじめた。しかし、それは決して保守的・反動的SFの復活とか、伝統的SFへの回帰だとかいった単純なものではなかった。ヒューゴー賞の受賞作で見てみよう(年は発表年)。ラリイ・ニーヴン『リングワールド』(70)、フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』(71)、アイザック・アシモフ『神々自身』(72)、アーサー・C・クラーク『宇宙のランデヴー』(73)、アーシュラ・K・ル・グィン『所有せざる人々』(74)、ジョー・ホールドマン『終りなき戦い』(75)、ケイト・ウィルヘルム『鳥の歌いまは絶え』(76)、フレデリック・ポール『ゲイトウェイ』(77)、ヴォンダ・N・マッキンタイア『夢の蛇』(78)、再びクラーク『楽園の泉』(79)。ネビュラ賞もほとんど重複しているが、七一年にロバート・シルヴァーバーグ『禁じられた惑星』、七六年にポールの『マン・プラス』が受賞している。賞はとっていないが、シルヴァーバーグには『ガラスの塔』(70)や『内死』(72)があり、御大ロバート・ハインラインは『愛に時間を』(73)を出した。また、ジャンルの流れにほとんど無頓着なフィリップ・K・ディックは『流れよわが涙、と警官は言った』(74)や『暗闇のスキャナー』(77)といった晩年の傑作を書いている。

 ホールドマンとマッキンタイアを除けば、いずれも五〇年代、六〇年代から活躍しているベテラン作家たちである。しかし、このリストを見ればわかるとおり、その作風は幅広く、決して単純に過去を繰り返しているわけではない。ニュー・ウェーヴの経験が、これらの作家をより力強く変えたといっていいだろう。中でもそれが顕著なのは、シルヴァーバーグとポールである。七〇年代の彼らは〃ニュー〃シルヴァーバーグ、〃ニュー〃ポールと呼ばれ、新たに手に入れた若々しいスタイルによって、伝統的なSFを(シルヴァーバーグは文学寄り、あるいはファンタジイ寄りに、ポールはハードSF寄りにという違いはあるが)再生しようとしたのである。

 ここで関連してハードSF、あるいは本格SFの復活と深化ということについても述べておこう。ニーヴンやクラークの作品は、いったんは過去のものとされた〃センス・オブ・ワンダー〃を再生させた。それは単に巨大なるものへの畏敬といったレベルではなく、特にクラークに顕著だが、未知なるものを知的に、科学的な手続きによって探っていこうという姿勢――そこから人間の小ささと偉大さを際立たせようとするものである。七〇年代のSFブームの中で、単にガジェットだけを抜き出して楽しむタイプのSFや軍事テクノロジー主体のミリタリーSFも生まれ、それはそれで面白く読み応えのあるものもあったが、七〇年代後半になると、パイオニアやボイジャーの惑星探査やマイクロ・コンピュータの発達に刺激されて、よりシリアスで感性豊かな、新しいサイエンス・フィクションの書き手が育ってきた。とりわけ、グレゴリイ・ベンフォード、ジェイムズ・P・ホーガン、チャールズ・シェフィールドなどが重要である。圧倒的にファンタジイ主体の時代の雰囲気の中で、彼らの地道な活動は、現代科学やテクノロジーとその中で生きる人間とのリアルな関係を重視する、八〇年代のSFへとつながっていく。

 七〇年代の初期と中期は、SF界にとってすくなからぬ成熟の時期だった。その直前の時代、スタイルが何よりも重視され、読者を驚かしたいという欲求が物語をうまく語りたいという欲求に劣らずさかんだった、あの六〇年代の解放運動とけばけばしい実験のあとを受けて、七〇年代の創作はもっと穏やかな、仰々しさのすくないものになった――しかし、感銘の深さにおいては劣らなかった。さっそく明らかになったのは、この分野に以前よりもすぐれた感性がひろがりはじめたことだった。抑制と小説技法の重視に、三〇〜四〇年代SFの特徴である〃センス・オブ・ワンダー〃をとりもどそうという欲求が組みあわされた。それは驚異の感覚をとりもどすだけでなく、過去の失敗作がみごとに再生されるような方法で、その感覚を知的に、喚起力ゆかたに表現しようという欲求だった。

  『一兆年の宴』ブライアン・W・オールディス&デイヴィッド・ウィングローヴ(浅倉久志訳)

【LDG(レイバー・デイ・グループ)】

 ベテランたちがこのように奮闘している間、つぎの世代の若手作家たちも力を蓄えていった。後にトマス・M・ディッシュによって、LDG(レイバー・デイ・グループ)と呼ばれるようになる作家たち――ジョージ・R・R・マーティン、ヴォンダ・マッキンタイア、エド・ブライアント、マイクル・ビショップ、ジョン・ヴァーリイら――である。この他、オースン・スコット・カード、タニス・リー、グレゴリイ・ベンフォードらを含めることもある。七〇年前後にデビューした彼らが、はっきりと目立つようになるのは、七〇年代半ばからだった。ここでもヒューゴー賞のリストを示そう。もっとも長編部門で七〇年代に受賞しているのはマッキンタイアだけなので、今回は長中編{ノベラ}、中編{ノベレット}、短編部門を見ることにする(ヒューゴー賞の年度は作品発表年の翌年にあたる。かっこ内は発表年を示す)。七五年度(74)長中編「ライアへの賛歌」ジョージ・R・R・マーティン、七九年度(78)長中編「残像」ジョン・ヴァーリイ、八〇年度(79)中編「サンドキングス」ジョージ・R・R・マーティン、短編「龍と十字架の道」ジョージ・R・R・マーティン。これに候補作まで加えるとさらにはっきりする。七四年度(73)では長中編候補にビショップの「樹海伝説(の一部)」と「幼年期の白いラッコ」が、中編候補にはマッキンタイアの「霧と草と砂と」、短編候補にマッキンタイア「翼」、マーティン「夜明けとともに霧は沈み」が入っている。七五年度(74)の短編候補にはビショップ「キャサドニアのオデッセイ」があり、七六年度以後はマーティン、マッキンタイア、ビショップはほとんど常連となる。七七年度からはさらにヴァーリイがこれに加わる。七九年度と八〇年度にはエド・ブライアントも顔を出す。ヒューゴー賞リストが重要なのは、LDGがそこから名付けられた――ヒューゴー賞が授与される世界SF大会は、たいてい労働者の日(レイバー・デイ)を含む週末に開かれ、そこに上記のメンバーが集っているというわけだ――からである。

 ディッシュは彼らを「nページのフィクションウェアを製造する有能な娯楽エンジニア」と皮肉り、商業主義的堕落を批判した。というか、芸術性よりもSFファンの仲間内でのウケを重視する姿勢を――だからファンの人気投票であるヒューゴー賞がとれるのだというように。しかし、ジョージ・R・R・マーティンの反論を待つまでもなく、この批判は的はずれだった。LDGはディッシュがたまたま開いた年刊傑作選に載っていた作家たちという以上の共通性はなく、ニュー・ウェーヴやサイバーパンクのように何らかの党派性をもった集団ではなかった。ディッシュが批判したのは、最初にも述べたように、LDGとしてまとめられた実際の作家たちというよりは、七〇年代のSFの浸透と拡散の中で、はっきりした文学的指向をもたず、現実逃避的で自己中心的な読者の、低いレベルの要求に迎合した大量の習作を書きとばすという、顔のない作家たちのイメージだった。そんな作家たちが実際にいたことは事実だろう。だが、そういう具体的な作家の具体的な作品に対してではなく、ディッシュがいらだちを感じたのは、七〇年代後半の空前のSFブームの中で、これまでディッシュを含むSF作家たちが苦労して切り開いてきたSFの可能性を無視し、宝石もクズもいっしょくたに受容してしまう新しい読者たちの存在だったのではないだろうか。

LDGの話に戻そう。それは七〇年代後半に活躍していた若手のSF作家たちを現す単なる符丁にすぎなかったが、その代表として名指しされたジョージ・R・R・マーティンは、ディッシュの批判に反論すると同時に、この言葉をむしろ積極的にとらえようとした。指摘された作家たちは、確かに一人一人独自で、共通の文学的党派を形づくるようなものではないが、それでもなお、〃位相のそろった{コヒーレント}世代グループが存在している〃のは事実であり、それをLDGと呼ぶことには異論がないとしたのだ。彼はいう。自分たちの世代は宇宙時代の最初の子供であり、その片足はハイ・テクノロジーとハイ・アドベンチャーと楽天主義の陣営にある。その一方で自分たちはベトナムとフラワーチルドレンとアナーキズムと幻滅と懐疑の世代でもある。そして六〇年代のこの二つの陣営のジンテーゼこそ自分たちの目指すものなのだと。

 LDGが心の底でおこなおうとしているのは、まさにこれだと思う。良きトラディッショナルSFの持つカラーと迫力と無意識の力を、ニュー・ウェーヴの持つ文学的関心と結びつけること、詩人とロケット屋を交わらせ、二つの文化に橋をかけることだ。(F&SF誌81年12月号 苑田卓訳)

【オリジナル・アンソロジー】

 LDGの作家たちの多くは、アナログ、F&SF、ギャラクシイなどの伝統的なSF雑誌と共に、七〇年代前半に爆発的に出てきたオリジナル・アンソロジーを、その主な活躍舞台とした。オリジナル・アンソロジーというものは以前からあったが、ニュー・ウェーヴのうねりの中で、ハーラン・エリスン編集の〈危険なビジョン〉やデーモン・ナイトの〈オービット〉、テリー・カーの〈ユニバース〉やロバート・シルヴァーバーグの〈ニュー・ディメンションズ〉といった意欲的なシリーズが生まれ、そこに大勢の作家たちが競って中短編を寄稿するようになったのである。クラリオン・ワークショップといった新人作家の養成機関で短編の書き方を学んだ若手作家たちは、これによっていきなりプロデビューすることもできるようになった。伝統的なSF雑誌も新たな装いをこらしてはいたが、読者層を固定しないオリジナル・アンソロジーにはより制約の少ない、さらに自由な発表の場があるように思えたのだ。かくて短編SFは巨大なマーケットを獲得した。LDGの作家たちを見ても、記憶に残るような傑作の多くは明らかに中短編にある。これに追い打ちをかけるように、七三年ごろから新たな編集者、新たな出版社がこの分野に参入し、空前のオリジナル・アンソロジー・ブームが起こった。定期刊行のシリーズだけでなく、単発もののテーマ・アンソロジーが数多く現れた。しかし、ロジャー・エルウッドという悪名高い編集者が(まあ、彼だけの問題ではなかったのだが)、まるでパッケージ化された工業製品(nページのフィクションウェア!)を売るかのように大量生産をはじめ、たちまち粗製濫造が目立つようになって、七〇年代後半にはその多くが淘汰されていった。だが、ここで修行をつんだ作家たちが、七〇年代後半や八〇年代に大きく花開いていくことになるのである。七〇年代後半にはSF専門誌にも新しい動きが現れた。オムニ誌と、とりわけアイザック・アシモフズSF誌の創刊である。はじめはあまり目立たなかったが、ここから八〇年代への動きが加速していくことになる。

【SFブーム・浸透と拡散】

 七〇年代を通じて、SFのマーケットは拡大を続けた。SFの出版部数は毎年毎年右肩上がりの成長を続け、七七年の映画『スター・ウォーズ』がこの傾向に拍車をかけた。SFは認知され、一般のベストセラー・リストにも載るようになった。SFブームがいつ始まったかというのは、狭い意味では七七年の『スター・ウォーズ』からだといえるだろうが、これは七三年くらいからずっと続いている傾向だった。SFが急激に拡大し、大量の読者を獲得した背景には、わが国で筒井康隆が名付けた〈浸透と拡散〉(七五年度日本SF大会のパネル・ディスカッションのテーマ)と同じ現象がある。SF的なものが日常的になり、SFの敷居が低くなって、それまでの専門化したSFファンとは違う、ジャンル外の大量の一般読者へもSFが浸透していった。とりわけトールキンの影響やゲームの影響で、サイエンス・ファンタジイと呼ばれるサブ・ジャンルが急成長し、異星や遠い未来、あるいは別の次元の世界を舞台にした、中世的で、多少SFの味付けをしたようなファンタジイが圧倒的なシェアを占めた。ジャンルの約束事を越えた自由な発想で作品が書けるようになった反面、SFの求心力は低下し、何が面白いか、何がつまらないかという価値観も多様化して、平均的にはよりポテンシャルの低いレベルで安定するような状況に陥った。古くからのSF者がこの状況に不満を覚え、反発したのは前に述べた通りである。

【女性作家の時代】

 七〇年代のSFブームの中で、女性作家たちの活躍も目立つようになった。女性作家たちと十把一絡げにいうのも問題だが、一方にはフェミニズムを自覚し、SFをその武器として意識した作家たちがおり、別の一方には、女性の社会進出の流れの中で、比較的参入しやすいマーケットとしてSFを(特にサイエンス・ファンタジイを)選んだ作家たちがいる。両者は別に対立するものではないし、いくらブームだからといってつまらない作品ばかり書いていては早晩淘汰されるだろう。例えこの分野に無自覚なまま参入してきた作家であっても、生き残っているということは優れた才能があったということだ。しかし、一時的に膨張した市場の中で、水増しされたような異世界ファンタジイの大作を量産していった作家の中には、そのような女性作家の存在が目立ったということもまた事実である。このことは後に反動を呼ぶ。ありきたりのロマンスを退屈で類型的なファンタジイの口調で語るような作品を〈ファンタジイ汚染〉として批判し、リアルで新しいハードSFを――ある意味ではマッチョで、ハードボイルドなSFを――求める動きである。もちろんこれが作風の問題であり、作者の性別とは何の関係もないのはいうまでもない。とても男性的な作家だと思われたジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが、実は女性だったとわかったのは七七年のことだった。

 より重要なのはもちろんフェミニズムSFと、そこから派生した流れである。アーシュラ・K・ル・グィンの活躍に続き、ジョアンナ・ラスやケイト・ウィルヘルムといった作家たちが刺激的で知的な作品を書いて、高い評価を得た。さらにヴォンダ・マッキンタイア、リサ・タトル、タニス・リー、C・J・チェリイ、エリザベス・A・リン、オクタビア・バトラー、ジョーン・ヴィンジ、パメラ・サージェントらが、作風は様々だったが、そのあとに続いた。もちろんティプトリー(=アリス・シェルドン)は、正体が明らかになった後も、優れて知的なSFを書き続けた。コニー・ウィリスのような、八〇年代に大活躍する作家も、この時代にデビューしている。

【イギリスSFの黄金時代】

 七〇年代はまた、イギリスSFの黄金時代とも呼ばれる。バラードやオールディスはあいかわらず傑作を書き続けていたし、ボブ・ショウやキース・ロバーツ、ジェイムズ・ホワイト、D・G・コンプトン、バリントン・J・ベイリー、マイクル・G・コーニーといった作家たちが七〇年代に力作、意欲作を次々と発表していた。普通イギリス作家ということを意識しないが、クラークやホーガン、タニス・リーといった人々も七〇年代に活躍したイギリス作家である。若手ではクリストファー・プリーストとイアン・ワトスンを双璧として、クリス・ボイス、ロバート・ホールドストック、ブライアン・ステイブルフォード、ダグラス・アダムスといった蒼々たるメンバーが活躍を開始した。

 七〇年代のイギリスSFは、ワイドスクリーン・バロックと呼ばれる、荒唐無稽一歩手前なSF的魅力爆発の作品群から、叙情性にあふれ、しっとりとした情緒を感じさせる文学的SF、伝統的な語り口にあっと驚くようなアイデアを加えたセンス・オブ・ワンダーたっぷりのSF、過激なユーモア感覚で読者をけむにまくSFと、バラエティにあふれている。しかし、そのいずれもが、イギリスSFらしさとでもいう他ない、ある種の共通の感覚を持っているように思える。それは人間や社会に対する、いかにも地に足の着いた視線とでもいうところだろうか。

 七〇年代は確かにイギリスSFの黄金時代であったが、それはあくまでも読者にとってであった。イギリス国内では、SF雑誌が次々とつぶれ、マーケットは縮小していた。七七年にはついに定期刊行のSF雑誌がゼロという惨状を迎える。作家たちはアメリカで作品を売らなければ食うにも困るありさまだった。インターゾーン誌が創刊され、イギリスSFが再び活性化するのは八〇年代になってからのことである。

 2000年8月


トップページへ戻る 文書館へ戻る